見出し画像

つかれないものにつかれる

 川端康成の『名人』は、私にとって実に不思議な魅力を持った作品で、よく読みかえします。私の場合には、紙面を眺めるのです。

 この小説の中では、川端には珍しく、言葉を掛けた興味深い箇所があるのですが、今回はその掛け言葉を取りあげます。まず、まとめから書きます。


*まとめ


 川端康成作『名人』に、「碁にかれて、まだ碁に疲れていない、三十歳の若さであろうか。」という文があります。言葉が掛けられているこの箇所を読むたびに、私はもっと掛け言葉をエスカレートさせたい衝動を覚えないではいられません。

・つかれる、つく、つかる、つかう
・(取り)憑かれる、疲れる、(取り)付く、浸かる、使う

 こんなふうに言葉(音)と文字(形)が浮かんできます。私はこういうことが好きです。病的に好きだと言えるかもしれません。言葉と文字に付き、言葉と文字に憑かれているのです。

 それはさておき、人は自分たちのつくったものに、取り付き、取り憑かれ、浸かり、疲れます。使いながら使われています。

 今回は、そういう話をします。

     *

 人がつくりつかっているのは、物に限りません。事もあります。図式的にまとめると、以下の上のようになりそうです。

・物:道具、器械、機械、システム、広義の面や板という物体
・事:決まり、ルール、掟、制度、サービス、ゲーム、広義のプレイという行為

 人がつくって使用している物や事は、人ではないため疲れることがありません。事だと、自立して存続する、つまり「ひとり歩き」することもあります。

 生身の人間が、絶対に疲れない物を相手にしたり、勝手に存続する事にかかわっていれば、疲れるどころか壊れるに決まっています。

     *

 石を打ち 石にうがたれ 石になる

     *

 ことを掛け 言にうなされ 事になる

*事物に取り付き、事物に取り憑かれる人間


 この章は、以下の記事「場を移りながら生きるものたち」を再構成して引用します。

 なお、川端康成の『名人』の詳細については、ウィキペディアの解説をご利用ください。

     *

 二日目の対局室は、明治時代のさびのついたような二階で、襖から欄間まで紅葉づくめ、一隅に廻した金屏風きんびょうぶにも光琳こうりん風のあてやかな紅葉であった。床の間に八つ手とダリアがけてある。十八畳の次の間の十五畳まで明け通しなので、大振りの花も目にさわらない。そのダリアの花は少ししおれていた。稚児髷ちごまげの少女が花かんざしをして、ときどき茶の入れかえに来るだけで、人の出入りはない。名人の白扇が、氷水をのせた黒塗りの盆に写って動く静かさ、観戦は私一人だ。
 大竹七段は黒羽二重くろはぶたえの一重にの羽織の紋服だが、今日の名人は少しくつろいでか、縫い紋の羽織だった。盤は昨日のとはちがう。
(川端康成作『名人』新潮文庫・p.35・太文字は引用者による)

 引用文の最後のセンテンスですが、私にとっては衝撃的な一文なのです。私がどう感じたかの結論から書きます。

・場を移りながら生きているものがある(いる)のではないか。
・「遷都」や「遷宮」における「遷る」を感じる。機能や魂が場を変えて遷るというイメージ。

     *

・「盤は昨日のとはちがう。」:

 人は板に付き・憑き、板に付かれ憑かれ憑かれてもいる――。そんなふうにかねがね感じている私は、上のセンテンスに目を開かれる思いをしました。その理由を説明するために、『名人』から別の箇所を引用してみます。

碁の天分は十歳ごろに現われ、そのころから勉強しないと、ものにならないと言われているにしても、私には大竹七段の話が異様に聞こえた。碁にかれて、まだ碁に疲れていない、三十歳の若さであろうか。家庭も幸福なのにちがいないと思えた。
(川端康成作『名人』新潮文庫・p.15)

「碁にかれて、まだ碁に疲れていない」では、意識的に掛詞が使われているようですが、その掛詞の意味を考えてみます。

 まず、上で述べた「人は板に付き・憑き、板に付かれ憑かれ憑かれてもいる」の意味を説明します。スマホやパソコンやテレビを思い浮かべると分かりますが、どれにも画面があります。

 画面は板です。現在、人は画面に代表される「板に付く」、つまり「板なしでは生きられない」生き物として日々を過ごしているようです。板は画面だけではありません。

     *

 板状のものという具合に意味を広げると、スクリーン、プレート、パネル、ボードもまた板だと見なすことができます。さらに、もっと薄っぺらいものまでを板に含めるなら、シート、フィルム、プレート、幕といった紙や布やプラスチック製のものまでが広義の板と見なせそうです。

 広義の板の共通点は、表面が平らで、そこに文字や映像が書かれて(描かれて)いたり、映しだされていることです。書かれるものとしては、古くは石板があり、今でも黒板があります。

 誰もが一日のうちかなりの時間を、板を「見入る」ことに費やしているとなれば、「人は板に付き・憑き、板に付かれ・憑かれてもいる」と言えるのではないでしょうか。

 付く、付かれる、憑く、憑かれる
 見入る、見入られる、魅入られる

 一方的ではなく双方向的にも私には感じられますが、これは人が一方的に双方向的だと感じるのであって、基本は一方的で一方向的なかかわりだと考えてもいます。ヒトは自意識過剰であり思い込みが激しい生き物なのです。

     *

 上でも述べましたが、碁盤をもちいる囲碁をボードゲームに含める考え方があります。

 板、版、盤

 ばん、ばん、ばんというわけです。

 そうした考えに沿えば、「「碁に憑つかれて、まだ碁に疲れていない」という川端康成の言葉は、「碁に憑つかれて、まだ碁に疲れていない」とも読めそうです。

 碁盤、つまり碁に執着している。碁に取り憑かれていて、飽きてもないし、まだまだ碁というものに疲れてもいない、という感じです。

 盤・ボード・板という広義のスクリーンに取り憑き、飽きもしなく見入っている。こうした人の状況を、取り憑かれ、魅入られていると見なすことも可能でしょう。

     *

 記事「場を移りながら生きるものたち」からの引用は以上です。次の章は、新しく書いた文章です。

*疲れない事物に疲れる人間


 川端康成の『名人』にある「碁にかれて、まだ碁に疲れていない、三十歳の若さであろうか。」という一文にうながされ、私なりに言葉を掛けてみました。

     *

 私たちは、つかれない物たちにとりつき、とりつかれている。その物たちをつかう環境に、どっぷりとつかっているのである。その結果、絶対につかれない物たちに私たちがつかわれた挙げ句に、つかれはてるという主客転倒の事態におちいっている――。

     *

 私たちは、疲れない物たちに取り付き、取り憑かれている。その物たちを使う環境に、どっぷりと浸かっているのである。その結果、絶対に疲れない物たちに私たちが使われた挙げ句に、疲れ果てるという主客転倒の事態におちいっている――。

     *

 疲れない物たち、絶対に疲れない物たちとは、たとえば、道具、器械、機械、システム、決まり、ルール、掟、制度、サービス、ゲーム、広義のプレイが挙げられます。

 そうした物たちは、人がつくったものにほかなりません。自然物ではないのです。正確には、物と言うより、事物(事と物)と言うべきです。

 スマホは物であり、その画面で提供される機能やサービスは事だと考えると分かりやすいかもしれません。

 こうした物たちや事たちは、人がつくった後にでも、勝手に作動や稼働を続けるという、よく考えると恐ろしい特徴があります。自立しているとも言えるでしょう。

     *

 どうして人はそうした物や事をつくったのでしょう? 自分たちに代わって働かせるためです。

 人の代わりに何らかの作業や仕事をする物をつくり、人に代わって何らかの機能や任務を果たすための仕組み(事)を考えだしたにちがいありません。

 その物や事の最大の特徴は、人の代わりであることと、人ではないために絶対に疲れないことです。

 人は、自分たちのつくったその絶対に疲れない物や事を相手にしなければならないのです。動かし働かせるためには、つくりっぱなしというわけにはいきません。

 それが、代わりをもちいるという行為の代償なのです。

     *

 道具くらいなら、使っていても疲れることはないでしょう。人の代わりをしてくれる道具が、器械、機械、システムへと進化していくにつれて、人はしだいに使われていくことになります。

 機械やシステムが二十四時間休みなく働くようになれば、人もそれに合わせる必要が出てきます。人が生身の人間であることは変わりません。

 機械やシステムは、より速く動き働くようになっていきますから、その速度に合わせるだけでも人は疲弊します。

 以上述べたことは、人のつくった物だけでなく、人のつくった事(ルールや制度や習慣)でも言えます。事は、つくった人を離れて自立し、「ひとり歩き」するようになります。事もまた、疲れることなく存続します。

 疲れない事物にまともに付き合っていると、人間は疲弊するどころか、壊れるのではないでしょうか。身も心もです。

     *

 絶対に疲れない手のひらに載る板状の機械が普及しています。個人が持つ時代になっている(ポータブルでパーソナルなのです)のはみなさんがご存じのとおりです。私も持っています。

 この賢い携帯電話(どこかや誰かとつながっているのです)は、本来は一人だけでいる空間であったり心身をやすめる空間である、トイレやベッドにも持って行けます。どこかや誰かと接続されたまま。

 これでは、心も体もやすまる暇がありません。息つく暇もないのです。

・やすまる、休まる、安まる、息まる

 その機械の画面を眺めるだけでも、かなり疲れます。相手はぜんぜん疲れないのですから。最近は、作文をしてくれたり、話し相手というか筆談の相手にもなってくれるそうです(私は話でしか知りません)。休むことなく。

     *

 つかれないものをつかう。この代償は大きそうです。

 いつも眠そうにしている生きものの横でいっしょに寝ているのが(このところ昼間に横になっていることが増えました)、私にはふさわしい生き方なようです。

 その生きものといっしょにいる代償は、手を触れようとすると引っ掻かれることでしょうか。

 猫を名づけるよりも手なずけるほうが、ずっと難しい。
 It is much easier to name a cat than to tame it. 

     *

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

夏目漱石作『吾輩は猫である』より

 この聡明で愛おしい生きものを見えていると、自分に「名前」があると感じている気配が感じられません。「声」で呼ばれて反応したとしてもです。

 そう言えば、自然界には名詞(命名=分類=線引き=固定化のことです)に相当するものがありません。見たことが、おありですか? 

 ヒトにだけしか見えないものやことまぼろしがあるようです。

 日が落ちて 板にうつろう 白い影

#読書感想文 #川端康成 #名人 #囲碁 #夏目漱石 #吾輩は猫である #猫 #疲れる #憑かれる #取り付く #取り憑く

この記事が参加している募集