文字の振りをした文字
今回の記事は、「声・表情・振り」と「時計、カレンダー、年表(人のつくるものについて・02)」の続きですが、話が広がりそうなので、連載の枠を外して投稿します。
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つぎつぎと消えていく。出来事であり事。言(音声)のように起きて消えていく。
事である言のように、固定され静止ているものではなく、流れとうつろいのなかに浮んで消えていく出来事としての「振り」。
意味やメッセージを、その時その場(いまここ)で考えている余裕はないのです。書かれたり印刷された文字との、この違いを看過するわけにはいきません。
事として言のように、つぎつぎと消えていく文字は、文字であって文字ではない。
(……)
文字の振り
文字の振りをした文字
そんな言葉と文字が頭に浮びますが、話が長くなりますので、近いうちに記事しようと思っています。
(拙文「声・表情・振り」より)
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ある一点から、次の一点へ。
(拙文「時計、カレンダー、年表(人のつくるものについて・02)」より)
点から点へと物を移す・点と点を対応させる
「移す」とは、ある点から別の点へと物を移すことであり、「写す・映す」とは、ある点と別の点を対応させることではないかと私は思います。
移す:持ち運ぶ、送る、運搬、飛脚、郵便、移動
写す:筆写、書写、写本・写経、印刷、複写、ファクス
映す:放送、ネットでの投稿・配信・拡散・複製・保存
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次のようにも言えるでしょう。
*移す:
・点から点へと物を移す。点から点への物理的な意味での物の「移動」。
・運ぶ、運搬、搬送、移植、移動、移送、転移、移転。
*写す・映す:
・「ある点を別の点へと写す・映す」というのは自然界における「写す・映す」のありよう。たとえば、影、水面、谺(こだま)。
・人のつくるものにおける「写す・映す」とは、ある点と別の点を「対応」させ、つなげようとする試みであり願いであり、努力目標でもある。
「対応させる」とは「つなごうとする」であって、「つなげる」ではない。「関係づける」とも言える。
一対一の対応を理想とする努力目標であるから、精度、確度、濃度(対応する点と点の多さ)、解像度(鮮明さ)を追求する。
その追求には切りがなく、飽くことのない追求になる。
・写生・描写(絵・言葉・文字)、印刷、版画、写真、レントゲン、MRI、CT、放送、録音とその再生、録画とその再生。
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以上のように、人のつくるものにおける「写す・映す」は、今や人類にとっての悲願の様相を呈しています。
一対一の対応とは、「同じ」どころか「同一」を志向・指向・嗜好することです。ありえないし、叶わない夢ではないでしょうか。
彼岸へと眼差しを向ける人の姿勢に重なるかのようです。彼岸へ至ろうとする人類の悲願。
オブセッションなのかもしれません。
対応させて、つなごうとする
人のつくるものにおける「写す・映す」を詳しく見てみましょう。素人による不正確な記述になります。申し訳ありません。
*ある点を別の点へと写す・映すための手段
・文書・書物:
事物を言葉・文字に写す・映す。
紙を束ねて綴じた本、巻物、電子書籍。
・録音:
生放送(有線・無線・デジタル)・録音とその再生。
音声を媒体に写す・映す。音を録る。
人が音声を真似る・物真似・声帯模写・形態模写、レコード、テープレコーダー(磁気テープ)、サウンドトラック、デジタル式の録音機。
・描写・撮影・録画:
生放送(有線・無線・デジタル)・録画とその再生。
像を媒体に写す・映す。
広義の絵、写生・描写、転写・複写、写真(撮影・印画)、印刷、放送、映画(撮影・映写)、デジタル式の撮影・録画とその再生。
*ある点を別の点へと写す・映すさいに用いられる操作・加工・編集・改変
遠近法、拡大、縮小、転写、複写、印刷、撮影、録音、録画、放送、配信・投稿、複製、引用、変形、点・線の濃度(精度・確度・解像度)
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以下の例を見ると、以上述べたことの具体例が概観できるかもしれません。
絵、遠近法、地図、世界地図、地球儀、年表、言葉(音、文字、表情、身振り、しるし)、放送、報道、写真、レントゲン、顕微鏡、望遠鏡、電話、電報、放送、孫の手、糸電話、人生ゲーム、ゲーム、人形、キャラクター、小説、演劇、漫画、アニメ、ロボット、仮想現実、人工知能、生成AI、MRI、CT、遠隔操作、遠隔医療。
(拙文「人は人に似ているものをつくる、人は人のつくるものに似ていく」より)
話を少し変えます。
写したり映すのに電力を消費する/消費しない
この章では、今個人的に最も気になる点についてお話しします。
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電信と放送とインターネットによって、言葉・楽曲(音声)と文字・画像の写し方および映し方が大きく変わりました。
電力を用いての「写す・映す」の場合には、話し言葉と効果音と楽曲のさかいに線引きをすることが意味をなさなくなってきた気がします。
とりわけ、デジタルデータとして声と音が処理されるのが主流になってくると、よけいにその傾向が強まった印象を私は受けます。
録音された音声か、合成された人工の音声かの区別も意味を失っているかのようです。
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上で述べたことは、音声だけでなく、文字と画像(静止画像・動画・撮影した像・創作した像)についても言えそうです。
文字と画像とのあいだの線引きだけでなく、その像や絵が撮影されたものか、それとも作られたもの(合成された人工のもの)かの区別も意味をなさなくなってきた気がしてなりません。
どのデータも加工・編集・変更が容易にできるからにほかなりません。
どれもがデータなのです。情報であって、事でも物でもないらしい。
また、そうしたいわば、文字の振りをした文字と、像の振りをした像と、音声の振りをした音声が、インターネット上で投稿・配信・拡散・複製・保存というかたちで、ほぼ瞬時かつほぼ同時に処理されている点もおおいに気になります。
投稿・配信・拡散・複製・保存が、ほぼ瞬時かつほぼ同時におこなわれる以上、今や投稿=配信=拡散=複製=保存なのです。
文字の振りをした文字、映像の振りをした映像、音声の振りをした音声
真偽、正誤、正邪、虚実、善悪のさかいが不明に感じられるようになってきたと言われるようになって久しいですが、そのさかいは実質的になくなっていると私は感じています。
電気仕掛けの文字と映像、電気仕掛けの音声は、真偽、正誤、正邪、虚実、善悪のさかいを無化している、と言えそうです。
昔の感覚から言えば、文字の振りをした文字、映像の振りをした映像、音声の振りをした音声が、文字として映像として音声としてまかり通っているのです。
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これは複製や引用という言葉とイメージではとらえられない事態だという気がします。私の好きな言い方をするなら、複製の複製、引用の引用、オリジナル(現物・原物)なき複製、起源なき引用という事態とも次元が異なる気がしてならないのです。
不気味といえば不気味な話ですが、電力(送電や簡易発電による電源やバッテリー)がなくなれば(または電力がない環境では)、そうした文字もどき、映像もどき、音声もどきは作動しないわけですから、その意味では「はかない存在」だとも言えるでしょう。
そうしたもどきたちは、電力を消費しないと作動しない広義の再生装置によって、人に鑑賞され視聴さて消費されている――。このように言葉と文字にしたところで、そのありようは一向に見えないのです。
話をもどします。
うつせないからうつす、うつすかわりにうつす
移せないから写したり映す――。
移す代わりに写したり映す――。
上の二つは言い方の違いと言えるでしょう。物は言いようなのです。
うつす、移す、写す、映す
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「うつす」をテーマにするさいには、「代わりに」は大切な言い回しだと思います。
代償行動という側面を浮彫りにする言葉だからです。
また、「代わりに」は「うつす・うつる」における「かわる・かえる」をも浮彫りにします。
うつす、移す、写す、映す
うつる、移る、写る、映る
かえる、変える、代える、換える、替える
かわる、変わる、代わる、換わる、替わる
「うつす・うつる」と「かわる・かえる」とは重なっている、同時に起きている、と私は感じています。この点については、機会をあらためて書くつもりです。
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あと、次の点も大切だと思います。
・写・映:撮る
撮影・つまむ・撮む・撮る・録る(録画・録音する)。
【※「撮」という漢字の解字によると、親指と人差指と中指でつまみとることらしいのですが、「写す・映す」におけるその指の仕草の親和性は無視できない気がします。たとえば、カメラでシャッターボタンを押す仕草、スマホの画面を指でいじって操作する仕草。】
・移:取る
取得・手に取る・手で握り持つ・手に入れる。
【※執る(執り行う・つかさどる)、採る(採集する・集める)、捕る(捕らえる・とらえる)】
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いずれにせよ、「写・映」が「移」の代償行動であることは、人が点から点へと移り・移すさいに、そして点と点を映す・写すというかたちで対応させる(つなげようとする)さいに、大きな意味を持つと思います。
うつせないからうつす
こことあれ 移す代わりに 写すだけ
声に出し 移せぬものが 目に映る
臨場感、リアリティ、「らしさ・っぽさ・○○感」
鏡と言葉と文字こそが、人が「○○らしさ・○○っぽさ・○○感」という不思議な感覚を日々体感するさいの最強の定番だと、私はこれまで考えてきたのですが、現在はその三者を超えるものが出てきたと思っています。
なお、以下のフレーズにある「鏡」とは映像と音声の比喩と考えていただいてかまいません。
鏡の振りをした鏡、言葉の振りをした言葉、文字の振りをした文字
鏡の振りをした鏡もどき、言葉の振りをした言葉もどき、文字の振りをした文字もどき
鏡以上に鏡の振りをするもどき、言葉以上に言葉の振りをするもどき、文字以上に文字の振りをするもどき
それが、上の「写したり映すのに電力を消費する/消費しない」と「文字の振りをした文字、映像の振りをした映像、音声の振りをした音声」という見出しの章でお話しした「もどき」たちなのです。
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それらの「もどき」たちに共通する点を挙げてみます。
・圧倒的な臨場感。
・比類ないリアリティ。
・究極の「らしさ・っぽさ・○○感」。
・誰もが共有できるし、今では誰もが実際に共有している。
・遍在している(あちこちにある)。
・ネットに常時接続されている。常に「つながっている」というのは、常に「つながれている」とか「縛られている」ということでもある。
・電力を消費する。つまり、電力が維持されない環境では生き延びることができない。その意味で、人類と一心同体の関係にあると言える。
要するに、スマホ、タブレット端末、パソコン(どれもが平面である画面をそなえた板であることが興味深いです)というかたちで、誰もが日々接しているもののことです。
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私が気になってならないのは、以下の点です。
・もはや「写っている・映っている」のではなく「移っている」と人は感じているのではいか。
・さらに言うなら、「乗り移っている」とか「乗っ取られている」と言っていい事態になっているのではないか。
・当たり前化している。疑う者がいない。
・人が付いているというよりも、憑いている。憑いているし、憑かれてもいる。電気仕掛けの網に接続された板に見入り、見入られ、魅入られてもいる。
「それ」は、うつっている、みいっている――。「それ」のありようは、みえないし、つかめない。
それがただの影であってほしい――夢ではなくてうつつの影であってほしい――と私は願っています。
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長い文章をここまでお付き合いいただき、どうもありがとうございました。
