声・表情・振り
今回の記事は『赤ちゃんのいる空間』の続きです。
音、声、表情、身振りと、文字とのあいだにあるこの違いは、決定的に大切だと私は思います。文字は異物や外物であるとさえ、私は感じています。
だから、音、声、表情、身振りは、しっくりする、しっくりくる、しっくりいくのではないでしょうか。不自然ではないという意味です。
文字のように、不自然ではないのです。異物のようにつかえない、つっかえない。
だから、赤ちゃんはつかっているわけです。すんなりと、つっかえずにつかっている。
(拙文『赤ちゃんのいる空間』より)
声・表情・振り
私は言葉を広く取って、話し言葉(音声)と書き言葉(文字)だけでなく、視覚言語と呼ばれることもある表情や身振りやしるしも言葉だと受けとめて生活しています。
そうした傾向は、難聴が進行するにしたがって強くなったのかもしれません。私は中途難聴者で、三十代から難聴が進行し、いまでは補聴器なしではほとんど聞こえません。
で、この補聴器ですが、万能ではありません。耳の聞こえには個人差があって一般論はないと言っていいと思います。私の場合には、補聴器を装用していても聞こえに苦労します。かなりの苦労です。
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このところ、日々の記事のなかで「こと・事・言、もの・物」といったテーマで書くのが増えてきたのですが、そのうちの「こと・事・言」とは始まりと途中と終わりのある出来事だと言えば分かりやすいかもしれません。
たとえば、人が誰かの目の前で話しているときを思い描いてください。
話している人の声、表情、身振りや手振りといったものは、発せられ、起きたとたんにつぎつぎと消えていきます。
声も、表情も、振りも、一回切りの出来事です。反復や変奏はあったとしても、その一回は二度とない出来事なのです。
細かいことを言えば、始まりと途中と終わりのある出来事の断片が、断続的に起きているわけです。
(始まりと途中と終わりとは、どこで切っても、その断片がまた始まりと途中と終わりであると言えるでしょう。まるで金太郎飴みたい。)
出来事、事である言――。
言葉を口にするという行為は、刻々と起こりつつあるプロセスであるとも言えるでしょう。
「始まりと途中と終わりがある」とはいえ、「始まり」も「終わり」も言葉であり文字であり抽象なのです。身も蓋もない言い方になりますが、貼られたレッテルであって、そのものではありません。
「始まり」や「終わり」とは、そう名付けたものであり、観念であり、慣用句(決まり文句)であり、教わった知識でしかないのです。
「始まり」というものがある、「終わり」というものがある、「はい、分かりました」という感じ。
それは言葉であり観念であり知識なのです。そのものではありません。こういう話は、このように堂々めぐりをするしかありません。
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どうどうめぐり・堂堂巡・堂堂回
めぐる・巡る・回る・廻る・まわる
くるくるまわる回転木馬・永遠につづく回転運動
始まりと途中と終わりがなくなってしまいます。
さなか・最中・途中・いまここ、しかない。
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人は常に途中にいる、とも考えられます。その「さなか(最中)」が、「いま」であり「ここ」なのでしょう。
話を変えます。
空気、雰囲気、流れ
最近では、テレビもネット上の動画も、音を消して見ています。音声がうるさく感じられてストレスになるからです。番組や動画で人が出てくる場合に頼りになるのは、背景や前後関係(コンテクスト)と、表情と振りだけです。字幕や文字が映っていれば、それも見ます。
ないのは、音と声です。でも、背景、表情、振り、映っている文字があれば、それだけで伝わって来るものがあります。そうしたものすべてが、その場の雰囲気とか空気とか流れのようなものとして、目に入ってくるのです。
中途難聴者ですから、健聴だったころに耳にした音や声の記憶はあります。これがおおいに助けてくれます。目に入ってきながら、それが音や声や流れとして感じられるのです。
聞こえていないはずが聞こえるような気がすることがよくあります。不思議な感覚なのですが、見えているものが聞こえる――そんな感じです。
錯覚なのかもしれません。まぼろしなのかもしれません。それが何であったとしても私には有り難く、感謝しかありません。
フーコー・ドゥルーズ・ラカン
以前にも記事として書いたことなのですが、人の話しているさまを音声なしの動画で眺めていることがあります。
ぼーっと眺めているのですが、それでも楽しいのです。見ているうちに、わくわくしてくることもあります。
たとえば、次の動画です。どれれもが私のX(旧ツイッター)のタイムラインに流れてきたものです。
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One of the more interesting excerpts from the 1981 interview with Foucault pic.twitter.com/b63DFfr6sN
— Synekura Audio (@synekura_audio) March 3, 2025
Michel Foucault(1981)
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Deleuze on Hegel pic.twitter.com/bxzeTmcfvQ
— Überkierkegaard (@UberKierk) March 2, 2025
Gilles Deleuze(1980)
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Jacques Lacan, 'Télévision', 1974 pic.twitter.com/LG0cULEwzL
— Synekura Audio (@synekura_audio) January 13, 2025
Jacques Lacan(1974)
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字幕(上の三人が話しているのはフランス語で、字幕はその英訳です)はありますが、つぎつぎに切り替わります。ゆっくり考えながら真剣に読む余裕はありません。だから、ぼーっと眺めています。
ぼーっと眺めるを言い換えると、まばらにまだらに眺めているという感じ。これが、まばらでまだらな意識である(金太郎飴状無意識でもあります)私にとっての自然体なのです。
もちろん、何を言っているのだろうと考え、字幕の英語の単語を目で拾うこともありますが、ややこしそうなので、そのうちにやめます。
ぼーっと見るのに限ります。
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目で見る英語の字幕と、聞こえない声と、目に入ってくる表情と振りを頼りに楽しむ。ふと気がつくと、同じような振りや顔つきになっている自分がいます。
ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・ラカン。
会ったこともない人たちです。三人とも、もう故人です。でも、かつてその人たちの著作の一部を日本語訳で読んだことがあります。刺激的な文章でした。尊敬していると言ってもいい人たちです。
(私はこの三人から多大な影響を受けています。たとえば、この文章にも、三人から学んだことの痕跡があるかもしれません。)
人と言いましたが、そもそも見ているのは生身の人間ではなく、液晶画面で見る動画でしかありません。つまり、生きていないもの(映像)を相手にしている。この事実を忘れるわけにはいきません。
それでも、振れている自分がいます。振りとはそうしたものなのかもしれません。
振りは意味やメッセージに近いですが、両者との大きな違いは見えることです。振りは、視覚的にダイレクトに迫ってくる(伝わってくるとは言い難いです)のです。
人と人、人と物、人と言、人と事・現象、人と世界――とのあいだで、ともに、ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる、ぶれる、ゆれる。
向こうにあるのは振りだけ。こっちにあるのも振りだけ。いまここという、さなかで振れるだけ。
振る、振り、振れる、振れ。
共に振る、共に振れる、ともぶれ、ともぶり、共振。
この「振りと振れ」は知的な経験ではないと断言できます。むしろ官能の経験なのです。
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おそらく赤ちゃんはそうした「振れと振り」の連続のさなかにいるのでしょう。そういう意味での官能です(「官能的」という言い方には語弊があります)。
赤ちゃんが知的な存在ではないとは、まさか言いませんが、赤ちゃんが知への途上にあり、だからこそ官能に満ちた世界のまっただなかにいる、とは言えそうな気がします。
ここで言う知とは、言葉と文字の習得と深くかかわっているものだとお考えください。それに対し、官能とは言葉や文字とは必ずしもかかわりがありません。
むしろ、それらとは別の次元にあるのです。官能は言葉にも文字にもなりえないというか、なりにくいというか。
官能のさなかにある人は、声を発したとしても、言葉を発したり、ましてや文字をしたためる余裕などないのです。
文字の振り、文字の振りをした文字
文字や文字列は紙に墨やインクが染みこんだ物・物質・物体としてあります。物ですから、移すことができます。写すこともできます。現在は映すのが主流になってきました。
移す:持ち運ぶ、送る、運搬、飛脚、郵便、移動
写す:筆写、書写、写本・写経、印刷、複写、ファクス
映す:放送、ネットでの投稿・配信・拡散・複製・保存
映すは、ネット上では投稿・配信・拡散・複製・保存というかたちで、ほぼ瞬時かつほぼ同時におこなわれるので、等号で結んでもよさそうです。
映す:放送、ネットでの投稿=配信=拡散=複製=保存
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さきほどお話しした動画ですが、聞こえない声、表情、振り(身振り・手振り)に加えて、英語の字幕の文字を頼りに見ています。
その文字ですが、これは映っている文字です。しかも、つぎつぎに切り替わっていきます。流れているとも言えるでしょう。
大切なのは、わずかな時間は画面に映っていますが(浮んでいるとも言いたいです)、つぎつぎに消えていくことです。
物であるはずの文字が、固定されて(紙面に写された文字のように)、ずっとそこにあるわけではありません。いわば出来事として起こっているのです。
つぎつぎと消えていく。出来事であり事。言(音声)のように起きて消えていく。
事である言のように、固定され静止ているものではなく、流れとうつろいのなかに浮んで消えていく出来事としての「振り」。
意味やメッセージを、その時その場(いまここ)で考えている余裕はないのです。書かれたり印刷された文字との、この違いを看過するわけにはいきません。
事として言のように、つぎつぎと消えていく文字は、文字であって文字ではない。
(※しかも、この映されている文字は電力がないと現れないし(そう、文字は「現れる」のです⇒「言葉は「出る」、文字は「現れる」」)、読めません。これは無視できない、きわだった特徴です。電気仕掛けの物の怪(物の気)や妖怪や影みたいだと感じることがあります。得体が知れないのです。正体不明という点では写された文字も同じですけど。)
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文字の振り
文字の振りをした文字
そんな言葉と文字が頭に浮びますが、話が長くなりますので、近いうちに記事しようと思っています。
