いやあ…実に恐ろしい。この小説はえぐすぎる。完璧すぎてもう溜息しか出てこない…「カラマーゾフを読む」(25)
イワンの劣化版としてのスメルジャコフ「カラマーゾフを読む」(25)
第三編 好色な男たち 七 論争
この章もスメルジャコフが主役です。しかもこれまで無口であったスメルジャコフが突然饒舌に語り出すという、一同も驚きの展開となります。
どうやらイワンがこの家にやって来たことで、スメルジャコフに妙な感化を与えてしまっているようなのです。
たしかにこの章でのスメルジャコフの言葉や態度を見てみると、屁理屈や冒瀆的なものが目につきます。
しかも、彼がグリゴーリイにロックオンしてやり込めようとしているのも気になります。前章で見ましたように、スメルジャコフがグリゴーリイに強い憎しみを抱いているのは私たちにも理解できますが、それにしてもこれは異様です。
そのグリゴーリイを皆の目の前、いや、イワンの目の前で論破することをスメルジャコフは望んでいたのでしょうか。素朴な信仰を持つグリゴーリイを完全にやっつけ、満足に浸っています。
ただ、正直なところ、素朴で頭の回転も鈍いグリゴーリイを屁理屈で論破したことで一体何になるのでしょう。
しかもその論破の仕方が私には今流行りの「はい、論破!」と大差ない、稚拙なもののように感じられてしまうのです。
「信仰があれば山が動いて海に入ると聖書に書いてあるのにそんなことは起きないではないか」という言葉はその最たるものですね。
この章では「自分の身の危険において信仰を棄てた場合、それを神は罰するだろうか」という論がスメルジャコフによって展開されるのでありますが、どうもしっくりきません。
私も何度もこの箇所を読んだのですが、「どうもしっくりこない」としか言いようのない漠然とした消化不良が残ったのです。
ですが、そんな消化不良を抱えながらこの先を読み進めいくと、ふと目に留まったものがありました。それがイワンの「思想を貯えるでしょうよ」というスメルジャコフ評です。
さらに「あれはただの召使の下種野郎です。もっとも、時期がくれば、最前線の肉弾になるでしょう」という言葉も見逃せません。
思うに、スメルジャコフというのはイワンの劣化版だということです。イワンも無神論的で合理的な思想の持主ですが、スメルジャコフとは思索の深さがまるで違います。
イワンとスメルジャコフは無神論的思考という大きなくくりでは同じかもしれませんが、その内実はまるで違うのです。ここに私の感じた消化不良の根があるように思うのです。
スメルジャコフは学問を積んだわけでも宗教的鍛錬を積んだわけでもありません。ただ、憎しみを晴らすための武器、つまり思想を欲していたのです。これさえあれば自己が正当化され、これまで虐げられていた自分の立場が逆転するのだという期待がそこにあります。だから思想に飛びつき、イワンに感化されたのです。
「思想は武器になりうる。そしてそれはいつしか暴力を正当化する」
これがイワンの「最前線の肉弾になるでしょう」という言葉に暗示されているのではないでしょうか。憎しみを抱いた皮肉屋が思想を貯えるとどうなるかをイワンは見抜いています。そしてそれはドストエフスキーの思いでもあったことでしょう。
ドストエフスキー自身、若い頃に思想サークルに入り弾圧されてしまったことは以前お話しした通りです。
そして後年、ドストエフスキーは共産主義者や社会主義者、革命家を批判すうようになっていました。詳しくは「(17)共産主義、社会主義革命家を批判したドストエフスキー~ジュネーブでの国際平和会議の実態とは」の記事でお話ししていますのでここではこれ以上述べませんが、思想の危険性をドストエフスキーは痛いほど知っているはずです。
イワンは高度な知性を持ち、さらに「大審問官の章」であれほどの思索を展開するのですから、それはそれは恐ろしいほどの思想的戦いがあったことでしょう。
しかし世の大半の人間はそうもいきません。しかも憎しみや不満を増幅された人間にとって「出来合いの思想」ほどありがたいものはありません。自分で苦しんで生み出した思想ではなく、すでに手軽に使える完成品がそこにあるのですから。
思想を生み出すというのはある意味地獄の苦しみでもあります。その苦しみを通さずして、出来合いの思想を自身の正当化に用いて武器にしていく。ここに人間の悲劇があるわけです。
スメルジャコフはまさにこの出来合いの思想に飛びついたのです。
そしてそれを見抜いているのもフョードルです。やはりこの男はただ者ではありません。
いや、お前ってやつは、詭弁家だよ!こいつはどこかイエズス会にでも行ってきたんだな、イワン。まったく、悪臭芬々たるイエズス教徒め、いったい誰に教わったんだ?
しかもここでフョードルがイエズス会を挙げていることに今更ながら私は戦慄しました。後の『大審問官の章』もまさにカトリックの大聖堂が舞台だからです。
ここでさらっと語られたイエズス会の存在。
この小説ではロシア正教とローマカトリックは明らかに対立的なものとして描かれています。日本人にとっては同じキリスト教のようにイメージしてしまいがちですが、実は歴史も文化もかなり異なります。ここでドストエフスキーがカトリックのイエズス会を持ち出すのも、敵対的な思想の代表格としてであります。
これ以上は長くなるのでここではお話ししませんが、この時点ですでに「大審問官の章」への助走が始まっているのです。
イワンの劣化版としてのスメルジャコフ。彼の言う「全てが赦される」とイワンの「全てが赦される」は違います。私も久々に『カラマーゾフ』を熟読して驚きました。ここですでにドストエフスキーは重大な伏線を張っていたのです。
いやあ・・・実に恐ろしい。この小説はえぐすぎます。完璧すぎてもう溜息しか出ません。世界最高の小説のひとつと言われる理由がよくわかりました。
続く
次の記事はこちら
前の記事はこちら
連載記事「『カラマーゾフ』を読む」記事一覧はこちらのマガジンにて
以下の記事ではドストエフスキー小説をもっと楽しむためのおすすめの解説書をまとめています。ぜひこちらもご参照ください。
ドストエフスキーのおすすめ書籍一覧はこちら
「おすすめドストエフスキー伝記一覧」
「おすすめドストエフスキー解説書一覧」
「ドストエフスキーとキリスト教のおすすめ解説書一覧」
ドストエフスキー年表はこちら
「ドストエフスキーの旅」はこちら
関連記事
