神はあるのか、ないのか?ただまじめにだぞ!「カラマーゾフを読む」(26)
神はあるのか、ないのか?ただ、まじめにだぞ!「カラマーゾフを読む」(26)
第三編 好色な男たち 八 コニャックを飲みながら
前章では劣化版イワンたるスメルジャコフの冒涜的演説を聞くことになりましたが、不思議なことが起こりました。
なんと、その演説を聞いたフョードルが不機嫌になったというのです。
これまで散々教会をバカにしてきたあのフョードルなら一緒になって冒涜的な言辞を弄してもおかしくないのですが、それが違ったのです。
これは注目に値します。
フョードルは単に教会を嫌っているわけではないのです。「宗教は本能?フョードルの生理的な恐怖から考える「カラマーゾフを読む」(19)」でも見ましたが、フョードルにも良心の疼きと言いますか、生理的な恐怖があるわけです。そしてアリョーシャの存在によって何かこれまで想像すらしていなかった感覚を知ることにもなりました。
それでもなお教会を愚弄するのはそこに諧謔があるからです。フョードルは意識的な道化です。自分を笑うならもっと笑わせてやれというねじれた趣向を持ってはいますが、やはり彼の行動や言葉には機知があります。本当の愚か者には道化は務まりません。『リア王』の道化も、愚かに見えて実は真理を突く鋭さを持っています。フョードルが時折見せる鋭さもまさにその通りです。
そんなフョードルにとって、今目の前で披露されたスメルジャコフの演説には何の機知も感じられず、ただ冒涜的な屁理屈を吐いているだけにしか思えなかったことでしょう。だからどんどん気持ちが沈んでいったのではないでしょうか。
このフョードルの不機嫌さは要注目です。
そしてこの章ではもはや伝説的とも言ってもよい「あるやりとり」が繰り広げられます。
それがこの記事のタイトルにも書いた「神はあるのか、ないのか?」という問いに対するイワンとアリョーシャの返答になります。
フョードルは何度も何度もしつこくこの問いを二人に投げかけます。しかも「まじめに」です。フョードルがこれほど「まじめさ」を強調しているというのは異様ですらあります。これまでの道化ぶりはどこへやら、彼にとってそれほど重大な問いがこれなのだということの表れなのでしょうか。
そしてそれに対するイワンとアリョーシャの対称的な答えもやはり見逃せません。ここでイワンははっきりと自分が無神論者であることを宣言したわけですが、同時にぽろっと悪魔の存在を肯定してしまいます。すぐにそれを否定はするものの、結局この悪魔が後にイワンの運命を決することになるのです。ここでもドストエフスキーは伏線を張っていました。じっくり読めば読むほど色んなものが見えてきますね。
この「神はあるのか、ないのか」の問答は非常に強力なシーンです。ぜひじっくりと味わって頂きたい伝説的場面だと私は思います。
そしてその後酔っぱらったフョードルの長話を私たちは聞くことになるのですが、そこで語られた彼の主義に関してもやはり注目せざるをえません。
俺にとって、これまでの生涯に醜い女なんて存在しなかったよ、これが俺の主義なんだ!
俺の主義から言や、どんな女にだって、ほかの女には見いだせないような、畜生、度はずれにおもしろいところが見いだせるもんなんだぜ
いかがでしょうか。「退廃を愛する好色な男」フョードルらしい主義ではありますが、地上的な生命力という点から見るとあまりに強力な主張でもありますよね。これはアリョーシャ的な聖なる面からすると完全に対立しかねない考え方です。
つまり、俗なるものの極点にこの主義があるのです。と言っても、単に卑俗だということではありません。肉体的な生命の循環という点から見るならばフョードルのこの思想はあまりに健全であまりに理想的なものとすら言えるのかもしれないのです。なぜなら、命はそうした生殖によって繋がれていくからです。生殖がなければ種は滅びます。いかに聖職者がそれを忌避しようがその現実は変わりません。生殖の否定は生物としての営みの否定であり、どうしてもそこに不自然さが生まれてしまいます。
「生殖を生物の喜びとして素直に礼賛する!それのどこがいけないことなのだろうか!」
フョードルは直接的にはそんなことは言いませんが、地上的な喜びをとことんまで味わおうとする彼にはある種ものすごい迫力すら感じてしまいます。
先の「神はあるのか、ないのか」という問いの後でこれが出てくるのですから恐れ入ります。ここでも聖と俗の振り子が振れているのです。
そしてこの章のラストではアリョーシャのヒステリックな発作が起こります。母親そっくりの発作にフョードルは肝を潰すわけですが、そこにさらにドミートリイの乱入という予想だにもしていなかった出来事が重なります。
まさにカオス。
アリョーシャの発作という出来事すら片付いていないのにそこにさらなる嵐をぶつけるドストエフスキー。
これぞまさにシェイクスピア的。一つの部屋を舞台に様々な事件が繰り広げられるという演劇的な手法です。ドミートリイの乱入はまさに舞台袖から一気に駆け込んでくるような、そんな臨場感すら感じさせられます。
ここまで来ると、物語のスピード感が感じられて私たち読者もぐいぐい引っ張られていくのがわかると思います。上巻の前半で挫折する人が多いのはこれまでお話しした通りですが、ここまで来たならもう大丈夫だと思います。
上巻最大のハイライト「大審問官」の章はまだ先ですが、そろそろ面白くなってきましたよね。ここから先もこの面白さはもっと増していきます。ぜひ楽しんで読んでいきましょう。
続く
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