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宗教は本能?フョードルの生理的な恐怖から考える「カラマーゾフを読む」(19)

宗教は本能?フョードルの生理的な恐怖から考える「カラマーゾフを読む」(19)

第三編 好色な男たち 一 召使部屋で

さあ、第三編に入りました。初めて『カラマーゾフ』を読む方にとってはここまででもかなり息切れ寸前のことでしょう。よくぞここまで持ちこたえました。

ここからは物語にも少し動きが出てきます。なので多少は読むスピードにも勢いがついてくるかと思いますが、やはりまだまだ厳しいかもしれません。何度も言いますが、きついと思ったらす~っと読み流す。まずはそれでもOKです。まずはハイライトたる「大審問官」の章まで頑張りましょう。

さて、この章ではフョードルの家庭事情についての説明を聞くことになります。

その中でもやはり意外なのはフョードルの心の弱さです。

あれだけの道化ぶりを発揮し大暴れしたフョードルではありますが、実は小心者で、時おり圧倒的な恐怖に怯えているという有り様だったのです。せっかくですのでその箇所を見ていきましょう。

放蕩の限りをつくし、色情にかけてはしばしば毒虫のように残忍なフョードルが、ときおり、酔った瞬間になど、いわば生理的にとさえ言ってよいほど魂の底にこたえる精神的恐怖と道徳的戦慄とを、ふいに感ずるのである。

新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P227

この「生理的な恐怖」というのが実は非常に重要なポイントです。なぜなら、これはどんな人間にも備わった本能とも言い換えることができるからです。

どんなに素晴らしい理論や思想でも、それを越えて私たちの内側から湧き出てくるようなもの。それが生理的なものであり、本能であります。

すでに『罪と罰』を読まれた方ならばピンと来るかもしれません。ラスコーリニコフがなぜあれほどまでに罪の意識に苦しんだかといえば、この生理的・本能的なものだったからです。つまり、神の存在、良心も私たちにすでに組み込まれているということです。だからこそ逃れられないのです。

ただ、ドストエフスキー自身は「宗教は人間に組み込まれた本能である」とまでは述べておりません。これはあくまで私の所感です。とはいえ、私は何の根拠もなく言っているわけでもありません。私が宗教を人間の本能の一つであると考えるのは人類学者クリストファー・ボーム著『モラルの起源』や霊長類学者フランス・ドゥ・ワールの『道徳性の起源』という本を読んだからです。

特にこの『道徳性の起源』ではチンパンジーやボノボの研究を通して得た知見を基に人間の道徳性や宗教について語られていきます。

私たちの道徳はどこから生まれてきたのか。

性善説、性悪説、人間ははたしてどちらなのか。

こうした議論はこれまで、哲学的、思想的な側面から語られてきました。

しかしドゥ・ヴァールはそれらは人間だけにあるものだけではなく、動物にも存在するものであり、人間だけが特権的に善悪の基準を持っているわけではないことを語ります。

私たちは自分たちのことを「他の動物とは違う存在」であると思ってしまいがちです。

「言葉を操り、道具を使い、知能も高い存在である我々人間は生物種の頂点である」と考えがちですが、私たちも動物の一種です。私たちと動物を隔てる壁は思ったよりも薄い、いやほとんど壁など存在しないようなものだということがこの本を読めばよくわかります。

私たちの中には生物の本能として善悪の基準があり、社会を生きる中でそれが私たちを動かしているとドゥ・ヴァールは述べます。ここに霊長類学者として長年研究を続けた学者の特徴が表れています。

そして宗教も人類の長い進化の過程の中で生まれてきたのだとドゥ・ヴァールは語るのです。

こういうわけで、私たちの中にも何らかの道徳規範、倫理観、宗教が生物として組み込まれていると私は考えています。

「いやいや、私は無宗教だし、世の中には無神論者だってたくさんいるじゃないか」

そう思うかもしれませんが、はたしてあなたは本当に宗教的な面を持っていないと言い切れるでしょうか。日本人の多くは実は無宗教なのではありません。「特定の神や仏に熱心に帰依しているわけではない」というのが実際の所だと思います。

神社や仏像で手を合わせたり、パワースポットでありがたい気分になったり、お盆参りやお葬式などをするのもすべて宗教的な営みです。

つまり、日本人は多種多様な神仏の存在を前提としたゆるやかな宗教生活をしていると言えるでしょう。日本人の宗教は仏教や神道の枠を越えて、まさに「日本教」と言えるものではないかと私は思うのです。

これはヒンドゥー教が「インドの宗教」を意味するのと同じ原理です。ヒンドゥー教も多種多様な神さまを信仰し、その中で各々が好きな神さまを特に信仰するという形態をとっています。そしてその総体をヒンドゥー教と言います。なのでヒンドゥー教徒と一口に言っても、その信仰はあまりに多様なのです。もちろん、シヴァ派とヴィシュヌ派という二大潮流がありますし、全体としての世界観はヒンドゥー教徒として共有しています。これは仏教宗派があり、神道がある日本とも似ています。私たちはこれら全体の総和を信じながら生きているのです。だからこそ私は「日本教」と呼びたいのです。

宗教とは、何かを熱烈に信仰することだけを指すのではありません。それは宗教の中の一要素です。宗教はもっと広いものです。私たちの生活や身体感覚に密着したものでもあります。もし自分が無宗教だと感じていたなら、それは「日本教」が当たり前で身近過ぎるが故に気づいていないだけかもしれません。私たちが空気の存在を普段意識しないのと同じです。それほど「日本教」が身近だからこそ無宗教だと感じてしまうのです。

さてさて、話は何やらずいぶん遠い所まで来てしまいましたが、フョードルの「生理的な恐怖」というのは実はドストエフスキーも意識して書いた重要なポイントであるというのは感じて頂けたのではないでしょうか。

そしてこの恐怖があるゆえに卑劣漢フョードルといえど、自分の良心を考えずにいられなくなるのです。

また、この少し後でアリョーシャの存在によってフョードルがいかに救われたかも書かれています。

アリョーシャは、老人に対する軽蔑の完全な欠如と、むしろ反対に、そんな値打ちもない父親に対する常に変らぬやさしさや、ごく自然な偽りのない慕情という、これまで彼の知らなかったものをもたらした。これはみな、家庭の味を知らぬ年老いた放蕩者にとって、まったく予期せぬ贈り物であったし、これまで《汚れたもの》だけを愛してきた彼にしてみれば、まるきり思いもかけぬことだった。アリョーシャが修道院に入ったあと、彼はそれまで理解しようとも思わなかった何かしらが、自分にも理解できたと、心ひそかに認めたものである。

新潮社、原卓也訳『カラマーゾフの兄弟(上)』P228-229

あのフョードルがこうした心境の変化を体験するというのはやはりとてつもないことです。これを「アリョーシャのすごさ」と単純化して考えることも可能かもしれませんが、やはりフョードル自身の内面にある「生理的なもの」の影響もあるのではないかと私は考えたいのです。そうした「善」を志向する本能があるからこそ、アリョーシャの存在に反応できるということです。

はて、これは私の考えすぎでしょうか。

ですが、この卑劣漢フョードルのこうした一面も見逃すことはできないと私は思うのです。

そしてこの後は召使のグリゴーリイ夫妻について語られるのですが、六本指の子のエピソードはあまりに悲しいですよね・・・。

また、これに付随してグリゴーリイが『ヨブ記』を好んで読んでいたことは注目に値します。前回の記事「真実はウグイの中にゃありませんぜ!「カラマーゾフを読む」(18)」でご紹介したあの『ヨブ記』です。

キリスト教の文化圏ですと、「おお、ここでやはり『ヨブ記』が出てくるか。だから前の章であんな会話があったのだな」と合点がいき、「さすがドストエフスキー、うまいな」と楽しく読めるのでありますが、日本人にはなかなかこの空気感は伝わりにくいだろうと思います。

日本で言うなら、外国人が『平家物語』や松尾芭蕉の俳句などを全く知らないような状況です。そんな中それらに言及する会話があっても、彼らにはきっととんちんかんなことでしょう。そういうことです。

『カラマーゾフ』は、わかる人にはとことん面白い書物です。ですが、何も知らないと面白ポイントがなかなか見えないという苦難を味合わなければなりません。ここにも『カラマーゾフ』の難しさがあるのです。

まあ、逆に言えば、わかってしまえば今まで面白さが見えなかったこの作品が一気に面白くなるのですからこれは嬉しいですよね。「『カラマーゾフの兄弟』はなぜこんなに面白いのか!そのすごさはどこにある?」の記事でもお話ししましたが、この小説の文章自体はそれほど難しいものではありません。癖の強い言葉はどんどん出てきますが、意味がとれないような箇所というのはほとんどないのです。カントやヘーゲルのような難解な哲学思想とは違います。むしろ、それらと比べて圧倒的に『カラマーゾフ』は読みやすいと言えるでしょう。

いずれにせよ、ここで『ヨブ記』が登場したのは注目に値します。この小説の基調低音にこの物語があることは覚えていて損はありません。

続く

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