ボスニア紛争を学びにサラエボへ~世界一周の旅で最も印象に残った街
【ボスニア旅行記】(1)ボスニア紛争を学びにサラエボへ~世界一周の旅で最も印象に残った街
2019年4月26日。
私はウィーンからボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボに向かう飛行機に乗っていた。
サラエボに近づくにつれ、濃い緑色でびっしりと覆われた山岳地帯が広がってくる。

ボスニアは国土のほとんどが山や森林地帯に覆われている。
そしてその山々の合間にぽつんと小さな集落が現れ、そこからまた山々が続いていく。

ボスニア・ヘルツェゴビナ・・・
この国に対して、みなさんはどのようなイメージを抱くだろうか。
第一次世界大戦のきっかけ、サラエボ事件が起こった場所。
そして1990年代、ボスニア紛争が起こった場所。
最近ではサッカーのイビチャ・オシム監督やヴァヒド・ハリルホジッチ監督の出身国として話題に上った。
だが、この国がどのような国で、どこにある国なのかを知っている人はおそらくかなり少ないのではないかと思う。
かくいう私も、この旅を計画する前まではこの国のことを全くわかっていなかった。
悲惨な紛争があったことは知っていた。
けれども、そこに目が向いたことはほとんどなかった。
旅の計画を立てるにあたってこの国に関心を持ったのも、ボスニア紛争が宗教と民族の争いで、仲良く暮らしていた隣人が急に殺し合うようになったのだと教えられた記憶があったからだった。
なぜ人間はこうも簡単に人を憎むことができるのだろうか。
なぜ仲のよかった隣人を宗教を理由に殺すことが可能だったのか。
宗教は人を残酷な行動に駆り立てるものなのだろうか。
民族の対立は人間に宿命づけられた地獄の入り口なのだろうか。
このような疑問が生まれたからこそ、私はボスニアを訪ねることに決め、それから色々な書籍を読むことになった。
そして様々な本を読んでいる内に、私はあることに気づかされた。
「ボスニア紛争はそんなに単純なものではない」と。
仲のよかった隣人同士が急に宗教や民族を理由に殺し合ったというのは正確な答えではない。
そこには知れば知るほど理解不能な複雑性という深みが待ち構えていた。
民族や宗教のみがこの紛争の理由ではない。
あまりにも複雑に絡み合った歴史や文化、経済、民族、宗教、大国同士の思惑。
この紛争の背景を知ろうと思うと信じられないほどの登場人物や事情が現れてくる。
そう、これはイスラエルのことを学んだ時にも起こった現象だ。
あまりに複雑すぎる背景・・・
ある出来事の背景は簡単には知りえない。
そしてまさしくそのような悲惨な出来事が私が生まれた1990年からものの数年も経っていない時代に起こってしまった。
私が何も知らずに平和に生きてきた世界で、戦後最悪の紛争と虐殺が起こっていた。
それも、21世紀を迎えようとしていたヨーロッパで。
改めて考えてみるとそれは私にとってはとても衝撃なことでもあったのだ。
だからこそ私はボスニアに対して強い思い入れを持つことになった。
そして現に、私は今サラエボへと向かっている。

サラエボの街も山で四方を囲まれている。
それは飛行機から見えた景色からもはっきりと見て取ることができた。
この地形がサラエボの悲劇につながるのだが、今はその話は置いておこう。
いよいよ着陸。
ここはもうボスニア・ヘルツェゴビナ。
ここで学ぶことはきっとそんなに生易しいことではない。
改めて気持ちを引き締め、サラエボへと足を踏み出したのであった。
ボスニアの首都サラエボに到着

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの空港に着陸。
首都の国際空港としては控えめなサイズの空港だ。

雲空が広がっているものの、気温は30度近く。蒸し暑い空気を感じる。
いよいよサラエボに私は来たのだ。

空港からは車で旧市街にある宿まで移動。
ヨーロッパともアジアともどこか違う雰囲気の街並み。
少し寂れた様子を見せる街の姿は先の紛争の爪痕が尾を引いているからなのだろうか。

さて、旧市街外れにある宿に到着。

今回滞在した宿は川沿いにあるペンションで、静かで景色もよく、旧市街中心部まで徒歩10分もかからないという立地の良さ。
しかしこの旧市街外れの静かな立地というのが後に起こった出来事の原因にもなってしまったのだがそれはまた後の話。
何はともあれ、目の前を流れるはミリャツカ川。
この川の下流、歩いて10分ほどの場所には第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の舞台、ラテン橋が架かる。

私はこの川沿いに歩き旧市街へと歩き出す。
初日の今日は飲み物の調達がてら軽く街並みを散策だ。

ボスニアは路面電車が市民の足だそう。
パッと見てもかなり年季の入った車体だ。物資が少ないのが響いているのかもしれないが、驚くことにここサラエボは世界で初めて路面電車が実用化された街なのだそうだ。
というのも当時ボスニアを支配していたオーストリアの首都、ウィーンに導入するための実験としてここで運用が始まったのだ。
それが1885年の出来事。
ウィーンといえば言わずと知れた華の都。
そこに導入するための実験として使われたということは、それだけこのサラエボの街が栄えていたということもできるだろう。

旧市街の中心部から少し離れた通りはやはり少し寂しげな街並み。
ヨーロッパ世界やアジア世界、さらにはアラブのイスラム世界とも違う、様々な文化が混じり合った独特な景観だ。
これは中世から長きにわたってボスニアを支配していたオスマン帝国の影響が大きかったためこのような独特な景観になったと言われている。
その後オスマン帝国に代わって1878年からここを支配したのが、先ほど述べたハプスブルク朝オーストリアなのだ。
くしくも私がボスニアを訪れる直前に滞在していたのがオーストリアのウィーンである。
ウィーンで見たハプスブルク家の宮殿の様子がありありと目に浮かぶ。
彼らがここを支配下に置いていたのだ。
ちなみに私はこの旅の前半でトルコのイスタンブールも訪れている。ボスニアを念頭にしてオーストリアとトルコの訪問を決めたわけではなかったが、両者を訪れたことはボスニアを理解する上で大きな助けとなったのは間違いないだろう。

そして旧市街を歩いていると、視界の先には山がそびえ立っているのが見える。
サラエボは街の周囲を山で囲まれた街。
街からすぐそこに豊かな自然がある。
だが同時にこの地形こそサラエボの人々を苦しめることとなってしまったのである。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナはどんな国?
さて、ここでボスニアについて少しだけお話ししていこう。
ボスニアは人口およそ350万人。(2019年当時)
バルカン半島に位置するボスニア・ヘルツェゴビナ。
この地域はかつては北からスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアから成るユーゴスラビア社会主義連邦共和国を形成していた。
しかし1990年代のユーゴ紛争によってこの連邦国は消滅。
それぞれの国が紛争の末独立を果たし、現在の形となっている。
みなさんも歴史の授業で耳にしたことがあるであろう「ヨーロッパの火薬庫」とはまさしくこのバルカン半島。
第一次世界大戦はここから始まったのだ。
そして20世紀初頭だけではなく21世紀を迎えんとしていた1990年代にもこの地は争いの火種と化してしまったのだった。
それだけこの地を巡る政治的、歴史的状況は複雑を極めているのだ。

紛争からおよそ20年以上が経過しサラエボの街は復興しつつある。
しかしその速度は紛争後間もなくは遅々として進まず、近年になってようやく急ピッチで街の復興が進んできているそうだ。
観光地としての人気も近年上昇し、まだまだ不十分なところがあるとはいえ、街は賑わいを取り戻しつつある。

飲み物を調達しに来たスーパーマーケット。
スーパーと言っても小さな商店と言った雰囲気。
社会主義時代の名残だろうか、こんなに並んでいてもレジにはスタッフが一人だけ。
なかなか列が進まない。
たまたまこうなってしまっただけかもしれないが、海外では日本みたいに何事も思い通りにいかないのがスタンダード。
旅も中頃になり私も海外のリズムになんとなく慣れてきたようだ。
話によると新市街まで行けば欧米式の大きなスーパーマーケットがいくつもあるそうだ。
だがここ旧市街では昔ながらのスタイルが今でも残っている。
ある意味、そういうお店を体験できたことがその地を知る上では貴重な経験になったと言えるかもしれない。(もっとも、旧式の商店と比べたらスーパーと言っている時点でこの店も十分近代的なのだけれども)
さて、サラエボに到着した本日の行程はこれにて終了。
明日からはガイドさんと共にサラエボの街を紛争当時のお話を聞きながら見学する。
続く
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