アウシュヴィッツ収容所見学ツアーに参加して僧侶の私が現地で感じたこと
死の強制収容所アウシュヴィッツを訪れる
2019年4月14日。
いよいよ今日はポーランド最大の目的地、アウシュヴィッツに向かう。
幸い、朝から天候にも恵まれ、前日までの凍てつくような寒さも少し和らいだようだ。
クラクフ中心部のバスターミナルからバスでおよそ1時間半。思っていたよりたくさんのバスが出ていて、アクセスに関してはそこまで不便を感じなかった。
アウシュヴィッツ博物館前で降車する。

向こうに見える三角屋根のレンガ造りの建物が入場棟になっている。

ここから先がアウシュヴィッツ収容所だ。

そして今回、こちらの記事に書かれているように、アウシュヴィッツで唯一の公認の日本語ガイド、中谷剛さんによるツアーに私は参加することにしたのだ。(※2019年当時)
参加者は20名弱。
思っていたよりたくさんの日本人がここを訪れていて驚いた。
入場棟を出るとそこはもうアウシュヴィッツ収容所。

早速中谷さんからこの場所についての説明を受ける。
アウシュヴィッツという地名はもともとここには存在していなかった。
オシフィエンチムというポーランドの地名をドイツ風に読ますとアウシュヴィッツという呼び方になるらしい。
他の文化をドイツ文化で塗りつぶそうという考え方がすでにこの時点で現れている。
そしてこの道を右に曲がると、すぐそこには有名な門が私達を待ち受けている。

「ARBEIT MACHT FREI」
「働けば自由になる」
実際にここで働いて生還した人はほとんどいないという。
あまりに過酷な環境での重労働で、ほとんどの人間は力尽きてしまうのだ。
あるいは、ガス室送りで・・・

中に入っていくと、当時使われていた建物がほとんど残っていることがわかる。
そして現在この建物群は博物館として利用され、当時の写真や遺物、資料を展示している。
ここにはあまりに多くの情報があった。
そして中谷さんの言葉はその一つ一つが私達に問いを投げかけてくるようだった。
「どうしてこういうことが起こってしまったのか」
「どうしてそれを防げなかったのか」
「あなたもそうなりかねないものを確実に持っています」
目の前の展示を見ながら語る中谷さんの言葉に、私達は絶句するしかなかった。
なぜ私がここまで具体的に何が展示されていて何がここで起こっていたのかをほとんど話さなかったかというと、伝えきれないほどのことがここにはあったということを伝えたかったからだ。
すべてのことをここでお話しすることはできない。
だが、その中でも私が特に印象に残った展示の一つをここでお話しさせて頂きたいと思う。

これは、あるものについて書かれたリスト。
何のリストか、みなさんお分かりになられるだろうか。

見にくいのでこちらの写真を見て頂ければよりわかりやすいかもしれない。
そう。これはナチスがユダヤ人から押収したもののリストだ。
先の写真がナチスによって実際に作られたリスト。次の写真は収容所を解放したソ連によって改めて作成されたリストだ。
ソ連のリストのほうが見やすいのでそちらを見ていきたい。
1番上は「Men’s clothing 246,820 pieces」
2番目は「Ladies’ clothing 836225 pieces」
つまり、「男性服、24万6820着」、「女性服、83万6225着」を押収したと、ここまで丁寧にナチスは記録していたのだ。
でも、想像してみてほしい。
書面上の数字の意味するところを・・・
ソールのない紳士靴も38000人分と記されている。
書面の文字上では色や形も何も感じられない。
それはただの文字だ。記号だ。
でも、これを見てほしい。

アウシュヴィッツに残されていた靴。
これは押収されて、売り物にならないと廃棄されていたものだ。
それが発見されて今こうして私達の目の前に展示されている。
文字の力は恐ろしい。
文字はすべてを抜き取ってしまう。
一人一人が生きてきた人生も、そこに込められた思いや歴史も。
「Men’s shoes without sole 38,000 pairs」
これで終わり。
そこからは一人一人の人生などまるで浮かび上がってこない。
ナチスがここまで大量の人を殺せたのも、この文字の力、数字の力、記号の力によるものが非常に大きい。
ナチス兵も一人一人は人間だ。
生身の人間を躊躇なく殺し続けるのはいくらナチスとはいえ、多大な精神的な負荷を現場の兵士にかけることになる。
それを軽減するものとして、言葉の力が利用されたのだ。
それはナチス上層部が示した、現場のナチス兵に対する優しさ、心配りなのである。
こんなに恐ろしい優しさ、心配りがあるだろうか。
人殺しの負担を軽減させるという優しさ・・・
私はそのことに戦慄を覚えた。
そして言葉、文字の持つ力にも・・・
ナチスとユダヤ人の処遇についての展示に思う
上で見た押収品のリストに引き続き、アウシュヴィッツの展示で印象に残ったものをここでもお話しさせていただく。
さて、ナチスがユダヤ人をどのように扱ったのかというのは博物館の展示でも大きなテーマとして取り上げられていた。

その展示の一つがこれだ。
これは収容所でユダヤ人が着せられていた服だ。
見てわかるように、それぞれ微妙に色が違う。
この色の違いはユダヤ人の中でも、政治犯として捕えられてきたのか、どこから来たのかなど、その服の色を見るだけでカテゴリーがわかるようにしたのだ。

さらに、胸元にはこの写真のようなマークを付けられることになる。
左上の赤い下向き三角は政治犯。隣はロマと呼ばれる人々、さらに隣はソビエトの捕虜。
アウシュヴィッツなどの収容所には、ユダヤ人だけでなく、ナチスの政策に不都合な人間も収容されていたのだ。
そしてこの印によって、同じユダヤ人、同じ被害者同士の中にも区別が生じることになった。
どうしてナチスはこのような区別をつけるようにしたのだろうか。
それは、収容者同士が団結して反抗しないようにという明確な狙いがあったからなのだ。
これは人間の心理に基づいた実に効果的な作戦だったと言われている。
私達人間は無意識に自分と相手を区別する。
さらに、自分の属する集団を好ましい、あるいは身びいきしたくなるような性質を無意識下で持ち合わせている。
それをナチスはこの極限状況下で利用したのだ。
つまり、ユダヤ人とソビエトの捕虜を区別させ団結させないようにするにとどまらず、ユダヤ人同士でも細かな区別をつけることで互いに憎しみ合うようにナチスは仕向けたのだ。
ナチスは意図的に収容所内に「私達」と「そうではない彼ら」という区別を作り出した。
平和で安全な時代にいる私達は、そのことで直ちに相手を攻撃したりはしない。
しかし、アウシュヴィッツはまさしく地獄だった。
どちらも助かるとは限らない。
いや、どちらも殺される可能性の方が圧倒的に大きいのだ。
生き延びたい。なんとしてでも。
そうなったときに人間は、いとも簡単に「そうではない彼ら」を憎むことができる。
最も憎むべき相手であるナチスではなく、隣にいる「そうではない彼ら」に敵意が向くのだ。
彼らを押しのけられれば生き抜くことができるかもしれない・・・
そのようなことをナチスはユダヤ人の無意識下に植え続けたのだ。
たとえユダヤ人達が「そうではない彼ら」を憎まなかったとしても、彼ら同士で積極的に協力し、ナチスに反抗することは難しくなる。
ナチスにとってはそれだけでも十分すぎるほど区別による効果は発揮されているのだ。
そしてその究極の形がガス室での悲劇へと繋がっていく・・・
さて、このことは私達にとって他人事なのだろうか。
「自分たち」と「そうではない彼ら」を私達は日常的にも作り出している。
意識的にも無意識下でも。
誰にだって、好きな人達のグループもあれば、どうしても好きになれない人達がいる。
それは仕方のないことだ。人間のあり方としてまったく自然なことだ。
だが、それが特定の状況下で圧倒的な力を持った時、人は平気で「そうではない彼ら」を攻撃することができる。
その「そうではない彼ら」を攻撃するときの、相手の境遇に対する無関心さを侮ってはならない。
いじめがなくならないのも、著名人に対して炎上騒ぎが起きるのも「自分たち」と「そうではない彼ら」の意識の暴走の一つの形なのではないかと思えてくる。
もちろん、いじめも炎上も同じ背景から生じたものではないし、ひとくくりにはできない問題だ。
だが、人間が持っている「自分たち」と「そうではない彼ら」を区別する人間の性質を軽く見てはならない。
これがエスカレートすると、大惨事が目の前に現れてくるのだ。
アウシュヴィッツは、アウシュヴィッツのみにあらず。
「人間の本質が極めて特異な形で現れたのがホロコースト。」
エルサレムのホロコースト記念館間「ヤド・ヴァシェム」でガイドさんが言っていた言葉だ。
だからこそ、ここアウシュヴィッツで学んだことを「ここで悲惨なことがあったのだ」で終わらせてはならない。
それを手掛かりに、考えなければならないことがたくさんある。
私はそう感じたのであった。
続く
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