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アウシュヴィッツのガス室で感じた恐怖~「普通であること」の意味に戦慄


はじめに

前回の記事「アウシュヴィッツ収容所見学ツアーに参加して僧侶の私が現地で感じたこと」では2019年4月にアウシュヴィッツを訪れた体験をお話ししました。

今回の記事はその続きになります。

では早速始めていきましょう。


アウシュヴィッツ・ビルケナウとは~ガス室で感じた恐怖

アウシュヴィッツ収容所での見学を終え、次に向かうのはビルケナウ収容所。

アウシュヴィッツからはバスで5分ほどの距離だ。

ここまでアウシュヴィッツ収容所のことをお話しさせて頂いたが、普通アウシュヴィッツと聞いてイメージするのはおそらく下の写真なのではないだろうか。

だが、これは正確にはアウシュヴィッツではなく、ビルケナウ収容所に当たる場所なのだ。

では、私達がよく耳にするアウシュヴィッツ・ビルケナウとは一体何を指す名前なのだろうか。

そもそも、アウシュヴィッツという名前がポーランドの地名オシフィエンチムをドイツ読みさせて作られたものであることは先の記事で述べた。

つまり、これまで紹介してきたアウシュヴィッツ収容所とは、オシフィエンチムの地に作った最初の収容所ということになる。

そしてポーランド中、世界中からユダヤ人がここに移送されてくることになるのだが、その人数があまりに多かったためアウシュヴィッツ収容所では受け入れきれなくなっていった。

だが、収容所を大きくしようにも地形の関係上それも不可能。というわけで、ナチスは隣接する村に第二の収容所を作る必要に駆られた。

それがビルケナウ収容所なのである。

ここは村の郊外の湿地帯に作られた広大な収容所だ。

オシフィエンチムの市街地をとりまくように造られた施設群。とりわけ第二強制収容所の規模が大きい。Wikipediaより

そして300以上の施設がここに建てられ、ここに運ばれて来て生存することを許された人間が収容されたのである。

そして実際に現地に行ってみて驚いたことがある。

教科書などでも目にするこの有名な建物であるが、実はこの写真は収容所の中から撮られたものだったのである。私はてっきりこの門の先に地獄のような強制収容所が広がっていると思っていたのだが、実際は中に入って振り返って撮った写真がこれなのである。

この先に地獄があるのかと思いきや、すでに私は地獄に入っていたのだ。これには驚いた。やはり現地に行かないと実感できないものがある。

ちなみにこちらが門の反対側。かつては鉄道線路があったが今はなくなっている。

線路のすぐ目の前に収容所が広がる。

線路の反対側にも同じ景色が広がっている。

線路は収容所と収容所の真ん中を通っているが、実はこの線路、柵で囲まれた強制収容所の外を走っているのだ。線路は強制収容所内にはない。

汽車から下りてすぐに、人々は並ばされ、「選別」を受ける。

働ける者とそうでない者を医者によって選別される。

この選別によって75パーセントもの人が収容所に入ることもなくそのままガス室に直行したと言われている。

つまり、この選別に選ばれた者だけが、線路から先に広がる収容所へと入っていくことになったのだ。

しばらく線路上を歩いていくと、当時ガス室のあった場所へとたどり着く。

敗戦が確実となったナチスは証拠隠滅のためにガス室の破壊を命じる。

しかし、敗戦目前のナチスにはかつてのような秩序だった行動は起こせず、破壊は中途半端なものにしかならなかった。

それで残されたのがこのガス室跡だったのだ。

実は先ほどまで訪れていたアウシュヴィッツ収容所にはガス室が当時の姿そのままに復元されている。

そのアウシュヴィッツのガス室がこちらだ。

中の撮影はできなかった。

撮影禁止のエリアではないのだが、私にはできなかった。

そんなに恐ろしい場所だったのか?

いや、違う。

じゃあ、なぜ?

わからない。

だが、あまりに何も感じさせないことに恐怖を感じた。

そう言える気がする。

無機質で暗くて冷たい部屋。コンクリートで作られた壁のせいだろうか、一歩歩く度に冷たい空気を肌に感じる。

ここだ。今まさに私が立っているここで数え切れない人々がガスで殺されたのだ。

何も知らずにここに押し込められ、シャワーを浴びられるかと思ったら急に息苦しくなってくる。犠牲者はきっと何が起こっているかもわからず苦しみのうめきを上げながら息を引き取っていったのだろう・・・

だが、それは私の想像の話だ。ここでそういうことがあったと聞かされて知ったからこそ私はそう思ったのだ。

恐ろしいことに、このガス室はそんなことを感じさせないくらい無機質でただがらんとした空間だったのだ・・・

恐る恐るこの部屋を抜けるとその先に焼却炉があった。

そこにあったのは一人一人を横たわらせて炉へと送り出していく形のものだった。

私達僧侶は、一般の人よりはるかに多く、火葬に立ち会う。

だからこのような形の炉を目にしたとき、私の頭の中をよぎったものがあった。

いつも私が目にしている、遺族が涙を流し最後のお別れをしながら亡き人が炉の中へ送り出されていく場面だ。

私はこの炉を見てはじめて納得した。

ここで人が死んでいったのだということを。

無機質なガス室を見ただけでは、そこで大量虐殺があったとは感じられなかった。

その無機質さこそナチスが生み出した最も恐ろしい殺人の手法なのだ。

人が死んだことを感じさせない技術。

私はそのことを痛感する。

この写真がビルナケウの写真だと言わなければ、どれほどの人がビルケナウの写真であることに気づくことができるのだろうか。

アウシュヴィッツも、ビルケナウも、特別な空気など存在しない。

「普通」の場所だったのだ。

「ここで大量虐殺があった。」

「多くの人の無念が宿る地なのだ。」

そう考える私達はきっと、こう思ってしまうだろう。

「そのような場所はきっと恐ろしくて暗い、独特な雰囲気があるのだろう」

まったくちがう。

そんな空気はまったく存在しなかった。

だが、だからこそこんな恐ろしいことはない。

どこにでもある普通の場所で、これは起こりうることなのだ。

ここだけが特別なのではない。

アウシュヴィッツ・ビルケナウ。

いつか来てみたい場所だとずっと思っていた。

フランクルの『夜と霧』の舞台となった地。この本をきっかけにぼくはフランクルの著作をいくつも読むことになった。

私の考え方に大きな影響を与えたのがフランクルの言葉であり、アウシュヴィッツだ。

アウシュヴィッツに実際に行って、私はどんな思いを抱くのだろうか。

旅の前にはそんなことをよく考えていた。

では、実際私はここに来て何を感じたのか?

何度でも言おう。

それは、アウシュヴィッツの「普通さ」だった。

しかし同時にそのことに対するぞっとするような恐怖だ。

ここに来れて本当によかった。そして中谷さんのガイドを聞けて本当によかった。

学ぶことが多すぎる。これから学ばなければならないことがありすぎる。

アウシュヴィッツはやはり、強烈な印象を残した場所だった・・・

アウシュヴィッツと『歎異抄』~親鸞の言葉に聴く

アウシュヴィッツからクラクフのホテルに帰り、私は何を考えるわけでもなく、ぼんやりと部屋でもの思いにふけっていた。

考えがまとまらない。

アウシュヴィッツはあまりに強烈な体験だった・・・

しばらくは何もする気が起きなかった。

いや、何もできなかったと言う方が正しいのかもしれない。

だが、そんな空っぽになってしまったかのような頭の中に、ふとよぎるものがあった。

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもするべし」

そう。

以前エルサレムのホロコースト記念館、ヤド・ヴァシェムの記事でもご紹介した『歎異抄』の言葉だった。この書物は親鸞の弟子唯円の聞き書きであると伝えられている。

つまりこの本に書かれた言葉はアウシュヴィッツの悲劇からおよそ700年も前に親鸞聖人が述べたとされるものである。

未来のことを予言するかのような親鸞聖人の言葉。

世の中を、そして人間の本質を凝視する親鸞聖人のまなざしの深さには改めて驚かざるをえない。

で、あるのならば、やはりもう一度『歎異抄』をしっかり読んでみよう。

幸い、私はkindleをこの旅のお供にしている。

その中の蔵書の一つに『歎異抄』も入れてあったのだ。

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもするべし」

これも何かのご縁。

この言葉が収められている『歎異抄』第13条の主要な部分を私なりの意訳でこれからご紹介させていただこう。

改めて確認だが、『歎異抄』は親鸞聖人の弟子が書き記した書物。そのため、文章は唯円の一人称で綴られていく。

そしてこれからご紹介する文章も唯円の語りと、それに対する師匠親鸞とのやりとりが繰り広げられていく。

では、ご一緒に『歎異抄』の世界を味わっていこう。

「よい心の起こるのは、宿業、すなわち自分の中に宿る因縁、環境によるものなのだ。

同じように、悪事を働こうと思うのも、悪い宿業がはたらくからなのだ。

亡くなられた師、親鸞聖人はかつてこうおっしゃられていた。

「ウサギの毛、ヒツジの毛の先にある塵ほどの罪も、宿業によるものではないということはありえない」と。

また生前のある時、親鸞聖人は私に「あなたは私の言うことを信じるか」と問うてこられたことがあった。

そこで私は「はい、信じます」と答えた。

すると親鸞聖人は「ならば、その言葉に二言はないな」と重ねて問うてこられた。

私は慎んでその問いに対する答えを誓った。

すると親鸞聖人はこう言われたのである。

「では、あなたに言いましょう。人を千人殺しなさい、必ず成仏できるでしょう。」

「いえ・・・そうおっしゃられても、私のこの器量では一人たりとも殺すことはできません。」

「であるのならばなぜ私が言ったことを信じるとあなたは誓ったのか。

これでわかったであろう。

何事も心に思ったことを実行できるのならば、成仏のために千人殺せと言われれば殺せてしまうのだ。

あなたが人を殺さなかったのは、人を殺す縁があなたになかったからにすぎない。

あなたの心が良いから殺さなかったのではない。

また反対に、殺したくないと思っていても百人、千人を殺すことも人間には起こってしまうのだ。」

以上が『歎異抄』13条の主要な物語部分だ。

この文脈を受けて、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまいもするべし」という言葉が後に語られてくる。

親鸞聖人は弟子唯円に対して「人を千人殺せば救われる。やりなさい」と言った。

それに対して唯円は「私にはそんな器量はございません。人を殺すなんて大それたことはできません」と答える。

そこで親鸞聖人はたたみかける。

「なぜ二言はないと誓ったのにそれを破るのか」と。

つまり、親鸞聖人が言いたかったのはこういうことだ。

「あなたを信じます」と誓った唯円。

唯円はその時、自分の思いでそれを述べた。

そして実際に親鸞のことを信じていた。「必ずやあなたの言うことをやり遂げます」と。

しかし、親鸞の「人を殺せ。さすれば成仏できるであろう」という命令には従えなかった。

ついさっき「あなたを信じます。必ずやり遂げます」と誓った唯円の思いはどこに行ってしまったのだ?

二度も親鸞に念を押された上で誓った唯円の思い。

それはそんなに軽いものだったのか?

いや、断じて違う。

でも、それがあっけなくどこかへ飛んで行ってしまったのだ。

これが親鸞の言いたいことだった。

私達の思いなど、いつどこに吹き飛んでいってしまうのかわからない代物なのだ。唯円はたまたま人を殺す縁を持っていなかったから殺さなかったにすぎない。

もしその縁を持っていたとしたら、唯円がそのことをどう思っていようがやってしまいうるのだ。

唯円が殺人をどう思っていたとしても、縁の力、状況の力はそんなものをいとも簡単に吹き飛ばしてしまう。

縁さえあれば、人はやってしまうものなのだ。

人殺しという大それた罪でなくとも、日常的な些細な罪もそうだ。

人に嘘をついたり、やるべきことを怠けたり、悪口を言ったり。

そのような小さなありふれた罪を、親鸞はこの物語の中でウサギやヒツジの毛の先にあるような無数の塵と例えている。

なんとも絶妙な例えではないか。

目にするのも困難なありふれた罪。

それですら縁の力で起こらないものなどないと親鸞は言っているのだ。

それほど親鸞は人間の意思の力に対して疑問を投げかけている。

そして縁、すなわち状況のもたらす圧倒的な力を親鸞は凝視している。

アウシュヴィッツを通して感じたこともやはりそこにある。

縁さえあれば誰もがやりかねない。

ナチスですら国民が選んだのだ。

当時のドイツの空気は、人々にそうさせるような縁をもたらしていたのだ。

そしてある地点を超えると、もう後戻りはできない。

すべてがエスカレートしていく。

その結果がホロコーストだったのだ。

アウシュヴィッツを通して、『歎異抄』の言葉を学んでみた。

親鸞聖人も地獄のような時代を、苦しむ人々と共に生き抜いた人だ。

一体どれほどの人間のありさまを見てこられたのだろう。

きっと、私には想像もつかない世界がそこには繰り広げられていたのだろう。

やはり偉大な思想家の言葉は時代を超えるものだと痛感した。

だからこそ時が経った今でも大切に読み継がれているのだろう。

クラクフからチェコのプラハへ

2019年4月16日。

5日間滞在したクラクフとも今日でお別れ。

クラクフは非常に居心地のよい街であった。

旧市街の美しさもさることながら、そのすぐそばにはこうした緑豊かな公園があり、散歩をするだけでも心地良い。

カフェも街中いたるところにあり、気軽に入ることもできる。

店員さんもフレンドリーだ。

コーヒーを飲みながら外を眺めているだけでもあっという間に時間が経つ。

絵になる街なのだ。クラクフは。

まったく飽きない。

私はこの街がとても気に入ったのである。

そんなクラクフも今日でおしまい。

ポーランドではアウシュヴィッツの印象があまりにも大きかった。

記事を書くのも本当につらかった。何を書くべきなのか考えることすら苦しかった。

読んで下さった皆さんもつらかったのではないだろうか。

それほどアウシュヴィッツは私の心に重くのしかかってきていたのだ。

クラクフの美しい町並みや穏やかな空気がなかったら、おそらく私はもっと沈んでいたことだろう。

さて今日の目的地はチェコのプラハ。

クラクフからプラハまではレオ・エクスプレスという鉄道会社を使って移動する。

ただ、クラクフ・プラハ間はまだ鉄道路線がほとんどないので、バスと鉄道を組み合わせての移動となる。

クラクフからチェコのボーフミンという街まではバス、そしてそこから鉄道に乗り換えてプラハまで向かうのだ。

12時40分クラクフバスターミナルを時間通りに出発。クラクフのバスは時間に正確だ。

クラクフからプラハまでビジネスクラスでおよそ4000円。エコノミーだと2000円ほど。(※2019年4月当時)

合わせて7時間以上かかる時間のことを考えると非常に安い。

そして乗り心地も快適であった。

乗り換え地点のボーフミン駅。

思っていたよりこじんまりしていたが、その分わかりやすくて助かった。

バスと同じく黒光りする列車がやってきた。

到着がすでに15分遅れ。そこからも何の影響かわからないが車内に乗ることが出来たのもそこから15分後であった。

海外の鉄道はあてにならないというのはまさにこういうことか。

1分刻みで遅延なく運航している日本が異常なのだとつくづく感じる。

海外の人が驚くのも無理はない。

車窓からはのどかな風景を眺めることができた。

緑が美しい田舎の風景がひたすら続いていく。

夕日に照らされた風景も何とも言えない美しさがあった。

鉄道の旅も悪くない。

旅情が掻き立てられる。

20時前、ようやくプラハ本駅に到着。

プラハ本駅は巨大な駅だった。

地図を頼りにとりあえず歩いて行く。

外はまだぎりぎり暗くなってはいない。

暗くなる前に急いでホテルまで行こう。

エルサレムの時もそうだったが、新しい街に夜に着くというのはやはり恐い。

急ぎ足で歩き、なんとかホテルに着くことができた。

さて、明日からはプラハでの日々が始まる。

百塔の街プラハ。

多くの人を惹き付けてやまないこの街は一体どのような街なのだろうか。

続く


『世界一周記』記事一覧はこちらのまとめ記事にて


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