スレブレニツァの虐殺の地を訪ねて~欧州で起きたジェノサイドの悲劇
【ボスニア旅行記】(10)スレブレニツァの虐殺の地を訪ねて~欧州で起きたジェノサイドの悲劇
強盗に遭った日の夜。
私はショックと緊張でなかなか寝付けなかった。
時間が経てば経つほど、自分が暴力に見舞われたという実感が増してくる。
一度体に刻み付けられた恐怖はなかなか取り去ることはできない。
考えまいとしてもやはり浮かんでは消えていく。
その繰り返し。
サラエボの人たちはこの何倍も、いや何十倍の恐怖を毎日感じていたのか・・・
死の恐怖を何年も味わい続けるということは私には想像もできないほどの苦しみなのだろう・・・
ミルザさんの言っていたように、今でもたくさんの人が紛争の記憶に苦しんでいるというのが心の底から納得できた。

2019年4月29日、私はミルザさんと二人でスレブレニツァという町へと向かった。
そこは欧州で戦後最悪のジェノサイドが起こった地として知られている。(※2019年当時)
現在、そこには広大な墓地が作られ、メモリアルセンターが立っている。
そう。そこには突然の暴力で命を失った人たちが埋葬されているのだ。
私が強盗という不慮の暴力に遭った翌日にこの場所へ行くことになったのは不思議な巡り合わせとしか思えない。
私は重い気持ちのまま、スレブレニツァへの道を進み続けた。
サラエボからスレブレニツァへは車でおよそ3時間の道のり。
サラエボの街を出るとそこはもう山の中。

ボスニアの国土の大半は山岳地帯。
それが実感できる道のりだった。

山を越えれば小さな村が顔を出す。
木々の深い緑と芝生の黄緑色の世界にぽつりぽつりと赤い屋根の家が点在している。
のどかな風景ではあったけれども、もしここで犯罪が起これば誰にも気づかれず、助けを呼ぶこともできないだろうと感じてしまった。
実際にボスニア紛争ではこういうのどかな村の一つ一つで互いの民族が侵略を繰り返し、残虐行為が行われていたのだ。
私は想像してみる。
いつもと変わらぬ平凡な一日。
そんな平和な日常の中、畑作業をしていると突然山の向こうから武装した男たちが現れ、家に押し入ってくる。逃げ惑ったところで、どこにも逃げ場などない。
抵抗する間もなく男は無条件に殺され、女は民族浄化の名の下に強制的に子を作らされる。
子供も老人も皆殺しだ。
村に残されたのは無数の死体と絶望に打ちひしがれる女性達だけ。
絶望的なまでの憎しみ。なぜ私達はここまでむごい仕打ちを受けなければならないのか・・・!
なぜ・・・?・・・なぜ!?
そうして他の村々も暴力の大波に飲み込まれていく。
ユーゴスラビア全体でこのような民族間の悲惨な戦闘が続いていたのだ。
想像してみてほしい。
もし私達の住む日本で同じことが起こったとしたら、どういうことになるのだろうか。
隣町の人たちがある日急に武装してこちらの町に攻め込んでくる。
「そんなことありえない」という一言で済ますのは簡単だ。
でも、ここではそれが起こったのだ。現実に。
それが起こりうることを、ボスニアは証明してしまったのだ。
スレブレニツァへの道はそんな暗い記憶を醸し出すような道だった。

スレブレニツァメモリアルセンターに到着。

私が来た時にはほとんど人がいない、静かな空気だった。

8372…
これは現在わかっているスレブレニツァでの犠牲者の数だ。
見つかっていないご遺体も数多くあるという。だから「8372…」と表記されている。
数字の左が町の名前。
これらの町を出身としたムスリム人が、この付近の地域で虐殺されたのだ。

少し進むと無数のお墓がある。
墓石の前の土が盛り上がっている。そして、そこだけ草が生えていない。
ここに人が埋葬されている。
私はそれを肌で感じる。
そしてその一つ一つに名前や出身地まですべて刻まれている。
同じ一族や家族がなるべく隣り合うように埋葬されているそうだ。

たしかに、墓碑に近づいて見てみると、同じ姓の名前と村の名前が刻まれていた。
・・・つまり、一族もろとも殺されてしまったということか・・・

サラエボのオリンピック競技場の墓地と同じく、ここには犠牲者の名前が一人一人記されている。

同じ名前が多いのは、同じ一族だということだ。

緑色の墓碑は最近見つかって埋葬されたご遺体のお墓。
紛争から20年以上経った今も、犠牲者の捜索は続けられている。
ここで、お墓を歩きながら説明を続けてくれていたミルザさんがふと立ち止まる。
そして私にこう尋ねてきた。
「すみません、お祈りさせてもらってもよろしいですか」
私は、「もちろんどうぞ」と返した。
ミルザさんはその場で目を閉じ、目の前にあるたくさんのお墓に向かって祈りを捧げ、しばらくの間そこで祈り続けていた。
―そうだ。ミルザさんは辛い中こうして私にお話をしてくれているのだ。
ミルザさんは紛争の辛い記憶を、それを学びたいという人のために苦しいながらも話してくれる。
ここはその中でも特に苦しい場所なのだ。
仲間たちの遺体が眠るこの場所はミルザさんにとって特別な場所なのだと、私はその後姿を見て感じた。
そして私もここを去る前にお祈りさせて頂いた。
だが、あまりにも広大なお墓だったのでどこに向かってお祈りすればよいのかまったくわからなかった。
するとミルザさんが、
「どこがよいということはありません。みんな一緒です」とお話ししてくれた。
私はその一言で涙が出そうになった。
こんなに重い「みんな一緒です」という言葉を私はこれまで聞いたことがない。
私は小さな声で「南無阿弥陀仏」と2度唱えた。
そのあと、私は無言で祈り続けた。
ただ無心で祈り続けていた。
墓石に刻まれたひとりひとりの名前が、それぞれの人生が不意に終わりを告げたことを投げかけてくる。
起こりえないことが現実に起こるのだ。
前日に起こった事件の恐怖を引きずったまま今日ここで虐殺の現場を目の当たりにしたこの体験は、私にとって生涯忘れることのない出来事となった。
ここで感じた重くのしかかってくるような空気の感覚。
そして、微かな風の音しかしない静かな墓地。
どんよりとした空の色、木々の緑、そして墓石の白い色・・・
ここで感じたひとつひとつのものを私は心に刻み付けたのであった。
スレブレニツァ・メモリアルホールを訪ねて
スレブレニツァのお墓をお参りした後、私たちが向かったのはスレブレニツァメモリアルホールという場所。

メモリアルホールといっても、外観は古びた工場といった趣。
だが、古びた工場というのもあながち間違いではない。
実はここはかつて実際に工場として使われていた建物で、紛争中この工場は国連軍の管理下に置かれ近郊から避難してきたムスリムの収容所として使用されていたのである。
とはいえ、ここは国連の監視下で安全を確保されるはずだったが、結果的に多くの人が虐殺されることになった。この紛争においては国連軍はほとんどその虐殺を止めることはできなかったのだ。(詳しい経緯は長有紀枝著『スレブレニツァ―あるジェノサイドをめぐる考察』という本で解説されているので興味のある方はぜひこの本を手に取ってほしい)
その時の犠牲者のご遺体がついさっきまでお参りしていたお墓に埋葬されているのである。

入り口からして重たい空気が漂う。
今にも雨が降り出しそうな暗い灰色の空模様と相まって、より恐ろしい雰囲気を醸し出している。

恐る恐る中へ入っていくと、打ちっぱなしのコンクリートで作られた空間が広がっていた。
シーンと静まり返り、一定の間隔で落ちてくる雨垂れの音だけがこの空間に響いている。
ここに入った瞬間、全身に冷たい何かがまとわりつき、押しつぶされるような圧迫感を感じた。
頭上から黒い、何か暴力的な力が鋭い刃物のように私を刺し貫いていくような感覚。
アウシュヴィッツで感じた恐怖とは明らかにちがうものを私はここで感じたのである。

暗く、重たい工場跡。
まるでここだけ時が止まってしまったかのようだ。

この建物には記念館ということだけあり、多くの写真が展示してあった。
上の写真は、紛争が終結しこのスレブレニツァのお墓が出来上がった時の式典のものだ。
他にも、紛争直後に強制収容所が開放された直後の写真も数多く展示されていた。


ここでは掲載できないような写真も多々展示されていた。
目を背けたくなるような凄惨な写真。それでも私は心を決めて直視し続けようと試みた。
「私は人の生死と関わる生き方を選んだのだ。目を反らしてはいけないのだ」と念じながら・・・
そのとき見た写真は、今でも私の中に鮮明に記憶に残っている。

そして私がこの記念館の展示で一番印象に残ったのはこのパネルに示されていることだった。
みなさんはこの写真を見て何を想像するだろうか。
体のそれぞれの骨と地図上の点が結び付けられているこのパネル・・・
そう。これはセルビア軍が遺体の存在を隠蔽するために体のそれぞれを離れた場所に隠したことを示しているのだ。
アウシュビッツでは火葬し灰にして撒くというやり方で犠牲者の存在を隠蔽しようとした。
しかしここではそこまでの設備を作る時間と資金の余裕もなかったのだろう。
セルビア軍は遺体を分割して埋めることによって犠牲者の身元や正確な数を隠蔽しようとしたのであった。
しかしセルビア軍の狙いは外れ、紛争後に多数の国の力も借りて各地で犠牲者のご遺骨を捜索し、そしてそのご遺骨をひとつずつ丁寧に集め、DNA解析して身元を判別していったそうだ。
アウシュビッツとの違いがここにある。
アウシュビッツと違って、なぜスレブレニツァでは一人一人のお墓を作ることができたのか。
それはご遺体が残っていたということもあるが、何よりテクノロジーの進歩によってDNA解析が可能になったからというのが大きい。
第二次世界大戦時にはそのような技術は存在しなかった。
もしご遺体が残されていたとしても、そこから身元を判別することは極めて困難だっただろう。
現代のテクノロジーはそれを可能にしたのだった。
だが、そうは言ってもこの作業がどれほど大変なものなのかは想像するのも困難だ。
ご遺体は一つの場所にあるわけではない。
どの腕が誰のもので、どの脚が誰のものかはまったくわからないのだ。
それぞれが別の場所に埋められていたため、一体の完全な形で残されたご遺体を調べるのとはまるで次元の違う作業だったのだ。
無数にあるご遺骨の一つ一つを解析し、そしてそれをつなげていく・・・
あまりに途方もない作業。
ミルザさんも「本当に大変で難しい作業です。ですが、私達にとって本当に大切なことなのです。困難な作業をしてくださっている方達には本当に感謝しています」とお話ししてくれた。

そうか・・・そういうことだったのか・・・
私はここスレブレニツァの無数のお墓を目の前にして、言葉にできないような大きな衝撃を受けた。
私にはそれがなぜなのか、すぐには答えが出せなかった。ただただその光景に呆然とするのみだった。
だが、ここでミルザさんのお話を聞いている内に、お墓の存在と個人の身元ということに気が付いたのだった。
ひとりひとりのお墓があること。
そのことが持つ意味は計り知れないものがある。
ひとりひとりの人間が生き、そして死んでいったことの証がお墓には込められている。
ひとりひとりの人生の重みが私の心を打ったのだ。
アウシュヴィッツとの最大の違いはここにあったのだと私は感じた。
アウシュヴィッツでは150万人の人が亡くなったとされている。
だが、アウシュヴィッツで実際に私が目にしたのは、追悼のモニュメントと犠牲者の数を表す数字だけだった。
数字からはひとりひとりの人生が浮かび上がってこない。
まして150万という想像もできないような膨大な数。
やはり数字だけでは伝わらないものがあるのだ。
アウシュヴィッツでももちろん私は大きな衝撃を受けた。
だが、ここでの衝撃はそれをはるかに上回るものだった。
ここでの経験は絶対に忘れることはできないだろう。
スレブレニツァの虐殺をテーマにした映画『アイダよ、何処へ?』
今回ご紹介したスレブレニツァ・メモリアルホールは2021年9月より公開された映画『アイダよ、何処へ?』の舞台となった場所でもある。
『アイダよ、何処へ?』はボスニア紛争のスレブレニツァの虐殺を題材にした映画で、2021年度のアカデミー賞にもノミネートされた話題作だ。
スレブレニツァの地は2019年の私の旅の中でも最も印象に残った地だ。この映画を観て、あの場所で実際に起きていたのはこういうことだったのかと改めて戦慄したのを今も強烈に覚えている。
興味のある方はぜひこちらの映画もおすすめしたい。
また、スレブレニツァの虐殺については、上でも紹介した長有紀枝著『スレブレニツァ―あるジェノサイドをめぐる考察』と長有紀枝編著『スレブレニツァ・ジェノサイド 25年目の教訓と課題』という本で詳しく解説されているのでぜひ手に取って頂けたら幸いだ。
続く
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