昭和、男もつらかった 58 近所の子供たちと遊ぶ
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
父親の吉太郎(祖父)の反対を母親のハル(祖母)が押し切って、昭和15(1940)年に進学した高等小学校で二夫は楽しく学ぶ一方、下校後はすぐ家の田畑へ行き、暗くなるまで両親を手伝った。夕食の後は囲炉裏の火で短時間だけノートを開く。主な勉強時間は学校での休み時間だった。
そんな「てんがらもん」(お利口さん)な二夫だったが、外で遊ぶのが好きではなかったとか、友達が少なかったとかではない。むしろ外向的だったし、小柄ながら足が速く動きも俊敏だったから、外遊びは大好きだった。そもそもゲームのような屋内で遊ぶ「道具」がほとんどなかった時代、「遊び」と言えば男の子の場合野山を走り回るのと同義だった。
「19 いとこたち」でも述べたとおり、二夫の家はきょうだい同然に育ったいとこたちの家数軒とほとんど同じ場所にあったから、一人っ子とは言え、遊び相手には事欠かなかった。多産の時代、小さな集落でも同じくらいの年齢の子供もたくさんいたから、幼少期から近所の男の子たちと集まっては、いろいろな遊びをして育ったことは「25 幼少期①」でも触れた。
そんな環境なので、いまふうに言えば「集団の中でのポジショニング」はどの子供も自然に身についていた。もとよりふだんからいっしょにいる子供どうし、性格や特長による役割分担もできていた。その中で二夫は屈託なく遊んだ。これと言った道具はない。棒きれを持って走り回る、昆虫を見つければつかまえる、カエルやヘビなど見かければ追い回す、といった類の遊びだ。
昭和12(1937)年に支那の北平(現北京)郊外で日本と支那の兵隊が衝突して始まった戦争はずっと続いており、時節柄チャンバラごっこなどもよくやった。もちろん敵と味方に分かれて戦うのだが、これまた棒きれを持って小突き合うか、せいぜい取っ組み合いする程度だ。
二夫は俊足を活かして「敵を翻弄する」のが得意だった。「敵」の猛追を振り切って、茂みや藪などに身を隠す。わりあい小柄だから隠れるにも有利だ。日差しや風の方向も計算に入れて、身を隠しやすい位置を考えるのも得意だった。そして「敵」が通り過ぎるところを背後から襲う。 もっとも大将にはならない。全体をまとめることはできないわけではないが、いまひとつ押しが弱いのだ。いつも大人や年上に囲まれ、ある意味守られて育ったため、押し出しが必要な立場には向かないのだった。相手と正対した場合は穏やかに交渉するほうを好んだ。
そしてそのスタイルは晩年まで続いた。
