昭和、男もつらかった 46 高等小学校へ
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
当時では珍しかった一人っ子の二夫は昭和9(1934)年の春尋常小学校(以下、小学校)へ上がった。いとこや地域の「兄(あん)さん」など年上に多く囲まれて育ったこともあり、利発で人好きのするいい子であり、勉強もよくできた。
一方父親の吉太郎(祖父)は裸一貫から地所を買い広げた苦労人で、生活に関する支出には厳しく、小学校の修学旅行ではズック靴も買ってもらえなかった。
修学旅行が終われば、卒業後の「進路」を正面から考えることになる。
と言っても、当時の農村の子供のほとんどにとっては、小学校を出たら働きに出るのが当たり前だった。家を継ぐ立場の子供なら家業の手伝いをする。上の学校に行けるのは、経済的に余裕があり世間づきあいも広い商家や、極めて少ないが医者の子供ぐらいだった。百姓や漁師の子供はまず例外なく働いた。
自身小学校も出ていない吉太郎は、息子も学校を出たら自分の手伝いをしながら百姓仕事をより詳しく覚えていくものだと、当然のように思っていた。それに、明治13(1880)年生れで、二夫から見れば祖父の年齢にも近い吉太郎は、二夫が小学校を出る頃には還暦を迎えようとしていた。人生50年の当時ならまさに老年期である。まだまだ元気ではあったが、元気なうちに息子に田畑のことをしっかり覚えさせたい、という思いもあった。
しかし、吉太郎にとっては「あいにく」と言うべきだろう、二夫は成績がよかった。小学校の担任の先生は、二夫に「高等小学校に行ってあと2年勉強してはどうか」と熱心に勧めた。二夫自身、勉強というか新しい知識を得ることは楽しかったし、学校そのものも好きだった。そして母親のハルもまた、一人息子が「できる」ことを誇りに思い、応援もしていた。
ハルはハルで、小学校の途中までしか行けなかったことは心残りで、せめて卒業していれば人生にはまた別の展開があったかもしれない、という思いがあったのだろう。奉公に出た東京でさまざまな「新しいこと」「知らないこと」に触れたときの楽しさも忘れ難かった。そういう気持ちを、たった一人の、しかもできのいい息子には味あわせてやりたいとも思った。
だから、ハルは「上の学校に行く費用は、わたしがもっと稼いでやりくりします」と吉太郎に告げた。二夫も「学校が引けたら、いままでのように田んぼや畑の手伝いをちゃんとするから」と決意表明した。こうして吉太郎はしぶしぶ進学を認めることになったのだった。
そのあたりのことは、吉太郎の生涯を綴った「文字を持たなかった明治 吉太郎」の「52 息子の進学」でも一度述べている。
