昭和、男もつらかった 42 学業
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
昭和9(1934)年の春尋常小学校(小学校)へ上がった一人っ子の二夫は、当時は当然だった男女別々の学級で元気に学んだ。年上のいとこや地域の「兄(あん)さん」たちに囲まれていたため、周囲を観察して失敗を避ける利口さを身につけていたことは、のちの二夫の性格からおおよそ想像がつく。
そうやって学年が進む間も、父親の吉太郎(祖父)はあいかわらず倹約家、つまりケチで、家の中には新聞も教科書以外の本もなく、お世辞にも勉強に適した環境とは言えなかった。しかし、いとこたちは常に二夫より上の学年に進むので、遊びにいったときその教科書を見せてもらえば、数年後の学習内容を「先取り」できた。
一方、勝気で記憶力がいい母親のハル(祖母)は、途中までしか出ていない小学校で習ったことを二夫にしばしば教えて聞かせた。若い頃奉公に出た先の東京の上流家庭で体験したこと、奉公先の近所の様子などもよく話題にした。ただし、吉太郎がいないところで。徹底した現実主義者――拝金主義だったかもしれない――の吉太郎にとって、耕作の足しにも地所を買い広げる役にも立たない(と思われた)妻の若い頃の話などに興味はなかったのだ。
もともとが母親っ子である二夫は、長じてからもハルの話を熱心に聞いた。自分が知らない世界、体験はとてもおもしろかった。神話の類の「お話」もよく聞いた。天皇陛下の祖先にあたる神様が活躍する話を、ハルは生き生きと語った。二夫もそれをよく覚え、中身によっては学校の勉強に活かしたし、綴り方(作文)の題材にすることもあった。
そんなふうに、周囲の大人や年上のひとたちの「エキス」を上手に取り入れて育ったものだから、二夫の成績はいつもよかった。いまでいう学年トップクラスは、町のほうの商家の子、農家や漁師でも代々が地主、網元のような家の子で、本や辞典も好きなだけ与えてもらえ、家の手伝いなどしなくていい、つまり勉強に専念できる環境の子ばかりだったが、二夫は次点集団のような中にいたし、科目によってはトップグループに割って入ることもあった。
級長(学級委員長)は名家の子供に「割り振られ」たが、副級長にはなることもあった。勉強でも運動でもそこそこ活躍し、奉仕活動などにはまじめに取り組み、けして羽目は外さない二夫は、学校の先生たちへの覚えもよかったのである。
