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昭和、男もつらかった 54 続・田畑を手伝う

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 昭和15(1940)年、父親の吉太郎(祖父)の反対を母親のハル(祖母)が押し切って進学できた高等小学校で二夫は元気に学んでいたが、学校から戻るとすぐ家の田畑へ行き、両親を手伝ったことは前項で述べた。

 高等小学校では、修身や算術などの科目はもちろん、主な産業の特徴やそれぞれの基本的な仕事について、農業、商業、工業など種類別の教科書で学んだ。あるいは農村地帯がほとんどの二夫たちの町の場合、農業を重点的に学んだかもしれない。そこには種子の選別や土壌づくり、施肥などの実践的な内容が豊富に含まれていたことは「高等小学校の教科書」で触れたとおりである。

 二夫自身も田畑に出ることで、学校の教科書で習った知識や理論を実践上で確認できた。手元、足元の土の上で展開される世界が教科書どおりであると、やっぱり本に書いてあるのは正しいと感心した。

 一方、教科書どおりでないことやわからないこともあった。無口な吉太郎は質問しても答えないか、そもそも理論まで知らなかったりした。その反応が予測できるようになると、二夫は「疑問」は学校へ「持ち帰り」、先生に尋ねるようになった。

「こやゆぅわからんで、明日先生に尋(たん)ねんなら」
(これはよくわからないから、明日先生に質問しなくちゃ)
二夫は家に帰ると、囲炉裏の火を明かり代わりに几帳面な字で帳面(ノート)に書きつけた。

 二夫にとって学校で学ぶことと田畑や家で行うことは有機的に結びつき、ふたつの世界は循環しているようだった。国語で習う難しい文字や文章は、ほかの教科書や、先生が板書する熟語や漢文を読みこなすのに役立った。算術は、いずれ自分が家の田畑を任されるときに、種や肥料などの元手と取れ高を計算するのに役に立ちそうだった。理科も地理も歴史も、自分の知らない世界を広げてくれる。学校で習うこと、新しく知ることに無駄なものは何もないように思えた。それを田畑の仕事にどう「応用」するか、二夫は想像しては楽しんだ。

 吉太郎は働き者だし、仕事も同年代の男たちよりは速い。しかし、江戸期のやりかたをひきずった明治時代の農業で育ち、独立してからそれを守ってきたような吉太郎には、新しい発想はなかなか浮かばなかった。そもそもそんな必要はないまま年を取ったとも言え、すでに還暦を迎えてもいた。当時なら十分老人である。

 裸一貫から立派に独立し土地も屋敷も山も買った吉太郎を二夫は尊敬しているが、
「ちゃんの仕様(しよ)は、かった古(ふん)のかとかんしれん」
(お父ちゃんのやりかたは、おおかた古いのかもしれない)
と思うこともあった。

 いまならもう中学生、親のすることを少し距離を置いて眺められるようになる年頃に、二夫はなりつつあった。

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