昭和、男もつらかった 53 田畑を手伝う

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 尋常小学校を出たら田畑の手伝いをさせたかった父親の吉太郎(祖父)を母親のハル(祖母)が押し切り、二夫は高等小学校へ進学した。昭和15(1940)年の春だった。

 「47 高等小学校とは」などで述べたように、尋常小学校より高度な内容を学ぶとされた高等小学校では、農業、工業、商業などの産業についても学んだ。卒業後社会の即戦力になると想定されていたことは想像に難くない。

 しかし二夫は学校の勉強だけしていればよかったわけではない。そもそも6人きょうだいの5男で小学校すら行かず――行けず、というのが正しいだろう――裸一貫から地所を買い広げた吉太郎は、勉強や学校に価値を認めていなかった。

 二夫は二夫で跡取りとしての自分の立場はよく弁えていたし、何より家の中の労働力といえば両親と自分の3人だけだ。農繁期は親戚や近所どうしで融通しあったが、ふだんは3人で田んぼや畑の作業を「回」さなければならない。小柄なほうであった二夫も体は青年のそれに少しずつ近づき、力もついてきていた。

 高等小学校への進学自体、家の仕事をそれまで以上に手伝う、という条件と引き換えだったが、それは二夫自身が申し出たことでもあった。

 だから二夫は、学校から帰るとすぐに着ているものを着替え、田畑へ向かった。作業する場所や中身は日によって違う。今日両親はどのあたりにいるのか、この時季ならどんな作業なのか、二夫は予想して出かけるか、予想がつきにくいときは学校へ行く前ハルに
「今日(きゅ)はどけ行っとな」(今日はどこへ行くの)
と聞いておいた。ハルが短くその場所を告げれば、今日あたり何の作業か、二夫は見当をつけた。

 そう、吉太郎が少しずつ買い広げた田んぼや畑はあちこちに分散していた。集落の中や近くにあるものもあったが、少し離れた場所にもあった。「目的地」はきちんと確かめておかねばならない。

 当時の平均的な農民の常として、移動の基本は徒歩だ。自転車なんて、何かを配達する商売人か、ハイカラな勤め人ぐらいしか持っていない。農具や、収穫期なら収穫した作物などは荷車に積んで人間が引き、別の人間がうしろから押して運ぶのだ。

 明治13(1880)年生れで再婚の吉太郎に二夫が生まれたのは50代も後半のこと。二夫が高等小学校へ行く頃には還暦を迎えつつあった。二夫よりも小柄だが体は丈夫な吉太郎も、寄る年波を意識しつつもあった。

 そんな「ちゃん」(おとうちゃん)を、二夫はよく助けた。二夫が田畑に入ると、いまでいうシニアに近い夫婦だけで行っていた作業はまたたく間に片付いた。田畑の仕事は周りが見えづらいほど暗くなるまで続いてからやっとその日の分を終える。

 帰りの荷車は二夫が引き、吉太郎は後ろから軽く押すだけでよかった。荷物が少ないときは
「車(くいま)はおいが引(ひ)て戻っで、ちゃんは先(さ)き戻っちょらんな」
(車は俺が引いて帰るから、おとうちゃんは先にお帰りよ)
と声をかけ、先に帰すこともあった。

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