昭和、男もつらかった 57 勉強をする

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。

 父親の吉太郎(祖父)の反対を母親のハル(祖母)が押し切って、昭和15(1940)年に進学した高等小学校で二夫は元気に学ぶ一方、学校から戻るとすぐ家の田畑へ行って両親を手伝い暗くなって作業ができなくなるまで働いた

 二夫は当時珍しい一人っ子、親子3人の簡素な夕餉が終わると囲炉裏端に学校で使う帳面(ノート)を持って来た。

 吉太郎が独身の頃に買った屋敷は広い〈347〉。床の間がある表の間をはじめいくつも部屋がある。しかし一家が使うのは、いまふうに言えば居間に相当する囲炉裏のある部屋がほとんどだ。電灯は、梁から下げた裸電球がこの部屋にしかないから、自然とここが活動の中心になるのだ。その電灯も「電気代がかかる」という理由から、よほどのことがないと吉太郎は点けない。

 もちろんいまでいう子供部屋はない。そんなものは、子供は勉強が仕事とされ、親の仕事や生活とある意味切り離されるようになる昭和の半ば――概ね40年代後半ぐらいだろう――にぼつぼつ出始めるが、それまでは食べるのも寝るのも親子いっしょの部屋、子供の勉強も同じ部屋というのがふつうの庶民の暮らしだった。

 二夫が囲炉裏端に「勉強道具」を持ってくるのは、囲炉裏の火で明かりをとるためだ。「54 続・田畑を手伝う」で触れたような、学校で学んだことを家の田畑での「実践」で確認するときに浮かんだ疑問を、先生に質問するのに忘れないよう書き留めておいたりするためだった。

 だが、吉太郎は二夫が勉強するのは気に入らなかった。吉太郎自身文盲で、二夫が読み書きする内容がまったくわからないことによる一種の苛立たしさもあったが、それ以上に、どんなに勉強しても、いずれ自分と同じ百姓になる、学校に行くのは時間の無駄だという気持ちのほうが強かった。まして電灯を点けて勉強するなど、もってのほかだ。昼間学校に行けるだけでも「ぜいたく」なこと、勉強は学校でやっておけ、と思ったりもした。

 だから二夫は最低限のメモだけつけると帳面をカバンにしまった。囲炉裏端では吉太郎がうとうとしていればこっそり教科書を出して読むこともあるが、吉太郎がそれほど疲れておらず、縄を綯(な)ったりわらじを作ったりしていれば、二夫もそれにつきあった。

 二夫は家でほとんど勉強できないから宿題はできるだけ学校ですませた。休み時間、昼休み、それで足りなければ放課後少しだけ残って。授業の中身がそれほど難しくなければ、ほかの教科の宿題をこっそり「内職」することもある。幸い、きょうだい同然に育っている近所のいとこたちの中にも高等小学校に進む者が、ほんの少しだがいたから、彼らの教科書を読んで「先取り」してもいた。

 つまり二夫は勉強がよくできる、器用な生徒だったと言える。

〈347〉吉太郎が独身時代に買った家については、二夫の妻となったミヨ子(母)の生涯を綴った「文字を持たなかった昭和」の「八十一(屋敷)」や、吉太郎の生涯を綴った「文字を持たなかった明治 吉太郎」の「33 家を買う①(嫁の来手)」で述べている。

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