昭和、男もつらかった 56 夕餉
昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。
父親の吉太郎(祖父)の反対を母親のハル(祖母)が押し切って、昭和15(1940)年に進学した高等小学校で二夫は元気に学ぶ一方、学校から戻るとすぐ家の田畑へ行って両親を手伝い、暗くなって作業ができなくなるまで働き、吉太郎とともに帰宅するのが常だった。
ハルはひと足早く帰って夕餉の支度を始めていた。土間の台所の竈には火が熾(おこ)り、羽釜からはご飯の匂いが立ち上っている。少し焦げた匂いがするがいつものことだ。羽釜でご飯を炊くと底が焦げるものと決まっている。囲炉裏の上に下がる自在鉤には、味噌汁が入った鍋のツル(持ちて)が掛けられている。
夕餉と言っても、麦ごはんに味噌汁、せいぜい野菜の煮物である。おかずの代わりに、いまふうに言えば「保存食品」、それもすべてハル手作りの漬物、梅干し、山椒の実の醤油漬けなどが並ぶこともある。
魚がつけば上等だが、それもまず干物で、しかも出てくるのは極めて稀だ。干物だろうが、鹿児島弁でいう「ぶえん(無塩)」、つまり鮮魚だろうが、お金を出して買う魚はよほどのときでなければお膳に並ばない。「よほどのとき」は、正月や何かのお祝いなど年に数えるほどだ。
戦後80年を経た日本人の食生活観からすれば、せいぜい100年近く前のこんな食卓は、栄養バランスはおろか、栄養そのものが足りていないと思われるだろうが、べつに二夫の家が貧しかったわけではない。都市部を含むおおかたの庶民の食事はこんなもの、あるいはもっと貧しく、その日の食事に困る家庭も少なくなかった。
吉太郎は地所をたくさん持ち、ときに手伝いを頼まないと農作業が回らないほど作物も穫れたのだから、家庭の食事はぜいたくとはいかなくても潤沢にすることはできた――はずだ。ただし、吉太郎が「もっと地所を広げたいという野望」を捨てれば。
だが吉太郎は相変わらず倹約家、つまりケチで、作物はできるだけ売り、売って得たカネはほとんど自分で管理したから、家で食べるものはいつも質素だった。コメも、一家たった3人が食べる量の白米は確保しようと思えばできたはずだが、売ればカネになるコメをわざわざ自家消費する道理はなかった。
一方で二夫も「食事とはそんなもの」と思って育った。尋常小学校時代、他の子が持ってくる弁当には、二夫の麦飯よりもっと貧しいものがたくさんあったし、持って来られない子供も少なくなかった。そんな子供の家は、高等小学校に進ませるような経済力も、子供への期待もなかったから、高等小学校の同級生に弁当を持って来ない子供はいなかったが。
囲炉裏端に3人が座り、それぞれのお膳を傍らに置く。ハルが麦飯をお櫃から、味噌汁を自在にかけた鍋からよそって、まず吉太郎に、続いて二夫に手渡す。吉太郎は揃えた箸を両手で持ち、心待ち頭を垂れ目を閉じて「いただきます」と口のなかでつぶやいた。
二夫も吉太郎に倣って目の前の食事に感謝を捧げる。その仕草は、晩年まで変わらなかった。
