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温故知新(62)安房神社 ギョベクリ・テペ 天太玉命神社 テルロー遺跡 縄文人 シュメール人 忌部氏 三木氏

菜畑遺跡 幣立神宮 アテネ 天太玉命神社 剣山 天岩戸別神社 粟鹿神社 丹生都比売神社 聖ミカエルの山 洲崎神社 乗鞍大権現 鳴神社 亀ヶ岡石器時代遺跡 石清水八幡宮 阿波命神社 三嶋大社 焼津神社 身延山久遠寺 モン・サン・ミシェル 粟井神社 大山祇神社 由加山 忌部神社 スカラ・ブレイ 鳴神社 御所神社 長深御厨神明社 大麻比古神社 眞名井神社 大宮八幡宮

縄文人と忌部氏
 縄文晩期の菜畑遺跡(佐賀県唐津市)から日本最古の水田跡が見つかり、水田稲作を始めたのは約4万年前に日本にやってきた縄文人(Y染色体ハプログループC、D系統)だったことがわかっています1)。阿波(徳島県)や安房(千葉県)には、古くから「麻」が自生していて、縄文人は暮らしの中に取り入れていました2)。渡来の忌部氏はそれを組織的に栽培するように指導し、朝廷の祭祀にも深くかかわったとされています2)。

 菜畑遺跡は、アテネと幣立神宮(熊本県上益城郡山都町)を結ぶラインの近くにあり(図1)、幣立神宮は、おのころ島神社鹿島神宮、丹生都比売神社、丹生川上神社とレイラインでつながっています。

図1 アテネと幣立神宮を結ぶラインと菜畑遺跡

幣立神宮と天太玉命神社
 忌部氏の氏神である天太玉命神社(奈良県橿原市忌部町)と幣立神宮を結ぶラインは、剣山天岩戸別神社(徳島県名東郡佐那河内村上)の近くを通り、丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)と聖ミカエルの山を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図2)。後者のラインは、粟鹿神社(兵庫県朝来市)の近くを通ります(図2)。これらのラインから、幣立神宮は忌部氏と関係があると推定されます。

図2 丹生都比売神社、天太玉命神社、幣立神宮を結ぶ三角形のラインと天岩戸別神社、剣山、丹生都比売神社と聖ミカエルの山を結ぶラインと粟鹿神社

忌部氏と天太玉命(伊弉諾尊、孝安天皇)
 忌部氏は、記紀の天岩戸の段に登場する天太玉命(伊弉諾尊、第6代孝安天皇と推定)を祖とします。橿原の忌部を本貫地とし、各地の忌部を統率して朝廷の祭司をつかさどりました2)。『古語拾遺』では、天太玉命に従った五柱の神を「忌部五部神」として、各忌部の祖としています2)。伊勢の忌部は、刀・斧の貢納を役割とし、祖神を天目一箇命とし、長深御厨神明社(三重県員弁(いなべ)郡東員町)を氏神社としています。紀伊の忌部は、木材の貢納を役割とし、祖神を彦狭知命とし、鳴神社(和歌山市鳴神)を氏神社としています。阿波の忌部は、木綿・麻布の貢納を役割とし、祖神を天日鷲命とし、阿波国一宮 大麻比古神社(徳島県鳴門市)を氏神社としています。讃岐の忌部は、楯の貢納を役割とし、祖神を手置帆負命とし、粟井神社(香川県観音寺市)を氏神社としています。出雲の忌部は、玉の奉納を役割とし、祖神を櫛明玉命とし、忌部神社(島根県松江市)を氏神社としています2)。

阿波忌部氏とギョベクリ・テペ
 安房神社(千葉県館山市)とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに洲崎神社(館山市)、神津島とレイラインでつながっている乗鞍大権現(岐阜県高山市)があり、このラインは、鳴神社と亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図3)。鳴神社と亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶラインの近くには、石清水八幡宮(京都府八幡市)、チャタル・ヒュユクやパレルモとつながっている比叡山があり、亀ヶ岡石器時代遺跡と安房神社を結ぶラインの近くにはオリンポス山とつながっている岩木山最勝寺(茨城県筑西市)があります(図3)。安房神社は、ジェベル・イルード遺跡ともレイラインでつながっています阿波忌部氏は縄文人と血縁関係があったと推定されます。

図3 安房神社、鳴神社、亀ヶ岡石器時代遺跡を結ぶ三角形のラインと石清水八幡宮、比叡山、岩木山、最勝寺、安房神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと洲崎神社、乗鞍大権現

阿波忌部氏と倭建命(成務天皇)
 『続日本後紀』によると、神津島の阿波命神社の祭神の阿波咩命は、三嶋大社(静岡県三島市)に祀られている神の本后とされています。三嶋大社に祀られている三嶋大明神は、大山祇命積羽八重事代主神の御二柱の神です。阿波命神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインは、三嶋大社と焼津神社を結ぶラインとほぼ直角に交差し、身延山 久遠寺(山梨県南巨摩郡身延町)の近くを通ります(図4)。このラインは、阿波忌部氏と倭建命(第13代成務天皇と推定)の関係を示していると推定されます。

図4 阿波命神社、三嶋大社、焼津神社を結ぶ三角形のライン、阿波命神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと身延山 久遠寺

天太玉命(孝安天皇)と須佐之男命(孝霊天皇)
 天太玉命(伊弉諾尊、第6代孝安天皇と推定)を主祭神とする粟井神社(香川県観音寺市)とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くに、天太玉命を主祭神とする忌部神社(松江市)があります(図5)。このラインは、大山祇命(第7代孝霊天皇と推定)を祀る大山祇神社(愛媛県今治市)と瑜伽山(由加山)(岡山県倉敷市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図5)。粟井神社とスカラ・ブレイを結ぶラインの近くには、大井神社(広島県庄原市)、素戔嗚尊(第7代孝霊天皇と推定)を祀る盤船神社(島根県安来市)、出雲国一之宮 熊野大社(島根県松江市)などがあります(図5)。

図5 粟井神社、大山祇神社、由加山を結ぶ三角形のライン、粟井神社とスカラ・ブレイを結ぶラインと大井神社、盤船神社、熊野大社、忌部神社(島根県松江市)

鳴神社、忌部神社(御所神社)、長深御厨神明社、モン・サン・ミシェル
 天太玉命を祀る鳴神社(和歌山市鳴神)、忌部氏の後裔氏族である三木氏が奉斎した忌部神社(御所神社)(徳島県美馬郡つるぎ町)、長深御厨神明社(三重県員弁(いなべ)郡東員町)を結ぶ三角形のラインを描くと、ラインの近くに天太玉命を祀る阿波国一宮 大麻比古神社、伊勢国一の宮 椿大神社(三重県鈴鹿市)があります(図6)。

 鳴神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインは、忌部神社(御所神社)と長深御厨神明社を結ぶラインとほぼ直角に交差し、鳴神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインの近くには住吉神社(魚住住吉神社)(兵庫県明石市)、庭田神社(兵庫県宍粟市)、酒賀神社(鳥取市国府町)があります(図6)。

図6 鳴神社、忌部神社(御所神社)、長深御厨神明社を結ぶ三角形のラインと大麻比古神社、物部(洲本市)、椿大神社、鳴神社とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと住吉神社、庭田神社、酒賀神社

忌部氏と物部氏
 忌部神社(御所神社)と長深御厨神明社を結ぶライン上には、物部(ものべ)(兵庫県洲本市)という地名があります(図5)。ブログ「神秘と感動の絶景を探し歩いて」によると、「物部」の地名について『日本姓氏語源辞典』には以下の記載があるようです。

推定では福岡県久留米市御井町の高良大社を氏神として古墳時代以前に奈良県を根拠地とした後に岡山県に来住。兵庫県洲本市物部は経由地。奈良時代に記録のある地名。地名は物部氏の人名からと伝える。

出典:「神秘と感動の絶景を探し歩いて

 これは、高良大社の祭神の高良玉垂命(卑弥呼 豊玉姫命 倭迹迹日百襲姫命と推定)と、物部氏の祖の宇摩志麻遅命(大国主命 天日鷲命 大綜麻杵命 第8代天皇 孝元天皇と推定)の関係や、孝元天皇の陵墓が備前車塚古墳と推定されることと整合します。また、物部氏は忌部氏と関係があると推定されることと整合します。

忌部氏とシュメール人
 アッカド王国時代(紀元前2300年~2150年頃)のシュメールの遺跡ギルス(現在のテルロー)では、多くの粘土板や印章が発見されています。テルロー遺跡(Girsu Tello Archaeological Site)と奈良県橿原市忌部町の天太玉命神社を結ぶラインは、佐太神社(島根県松江市)、白髭神社(兵庫県姫路市林田町)、大宮八幡宮(三木市)の近くを通ります(図7、8)。

図7 テルロー遺跡(Girsu Tello Archaeological Site)と天太玉命神社(橿原市忌部町)を結ぶラインと佐太神社

 阿波国一宮 大麻比古神社眞名井神社(籠神社奥宮)を結ぶラインは、図5のラインとほぼ直角に交差し、兵庫県丹波市の延命寺(高野山真言宗 如意山)の近くを通ります(図8)。天太玉命(伊弉諾尊、孝安天皇と推定)は、阿波忌部氏の祖神なので、これらのラインは、忌部氏とシュメール人の関係と示していると推定されます。

図8 天太玉命神社、大麻比古神社、眞名井神社(籠神社奥宮)を結ぶ三角形のラインと延命寺(高野山真言宗 如意山)、天太玉命神社とテルロー遺跡(Girsu Tello Archaeological Site)を結ぶラインと大宮八幡宮(三木市)、白髭神社(姫路市林田町)、佐太神社

阿波三木氏と大宮八幡宮
 三木市にある大宮八幡宮(図9)には、古代より山上(現八量敷)に磐境(古代祭祀様式)があります。兵庫県小野市は和珥氏と関係があると推定されることから、三木市は阿波三木氏と関係があると思われたので、三木氏が奉斎した忌部神社(御所神社)と大宮八幡宮(三木市)を結ぶラインを引くと、鳴神社とパレルモを結ぶラインとほぼ直角に交差しました(図9)。鳴神社とパレルモを結ぶラインの近くには加茂神社(岡山県津山市)や天乃神奈斐神社(鳥取県東伯郡琴浦町)があります(図9)。このことから、兵庫県三木市の「三木」の由来は、阿波三木氏と推定されます。

図9 鳴神社、忌部神社(御所神社)、大宮八幡宮(三木市)を結ぶライン、鳴神社とパレルモを結ぶラインと加茂神社、天乃神奈斐神社

忌部氏と中臣氏
 
大化の改新以後は、藤原氏の権力を背景に、忌部氏に代わって中臣氏が朝廷祭祀の主力となりました2)。中臣氏(藤原氏)の係わった『日本書紀』が720年に成立しています。宝亀元年(770年)に称徳天皇が亡くなり、壬申の乱以来続いた天武天皇の皇統は途絶え、新たに天智天皇の孫にあたる光仁天皇が皇統を継ぎました。807年に、忌部氏(斎部氏)の斎部広成が『古語拾遺』を著し、忌部氏の上位性を説きましたが、伊勢神宮奉幣使としての正当性は認められたものの、忌部氏(斎部氏)の復活はなりませんでした2)。

文献
1)長浜浩明 2021 「日本人の祖先は縄文人だった!」 展転社
2)戸矢 学 2021 「神々の子孫 「新撰姓氏録」から解き明かす日本人の血脈」 方丈社