【小説・全10章】ブルーシートの死角 〜東京都北橋区・指定避難所のリアルをシミュレーション〜【第1幕:日常からの分離】第1章:予定調和の防災訓練
※(重要)読者の皆様へ
本作は、架空の首都直下型地震を舞台にしたフィクションですが、過去の災害で実際に報告されている避難所での過酷な現実(ジェンダーに起因する問題、被災者同士のトラブルや性犯罪、劣悪な衛生環境など)に基づいた描写が含まれます。ご自身の過去の被災体験と重なりフラッシュバックなどを起こす可能性がある方は、ご自身の心身の状況に合わせてご無理のない範囲でお読みください。
なお、この小説の内容は、実在人物・団体には全く関係ありません。
「はい、皆さんお疲れ様でした。今年の避難訓練も、怪我なく非常にスムーズに終えることができました。さすがは北橋区の皆様、素晴らしい規律正しさです」
マイクを通した町内会長の余り聞きとりにくい感じの声が、冬の冷え切った中学校の体育館に響き渡った。
パイプ椅子に座る地域の住民らは、配られたペットボトルの水と乾パンの袋を膝に置き、安堵の表情で拍手をしている。
北橋区役所・危機管理課に勤める窓原永伍(42歳)は、体育館の壁際に立ち、その予定調和な光景を静かに見つめていた。
床には、区画ごとにきっちりとブルーシートが敷かれ、申し訳程度に数枚の段ボールパーテーションが立てられている。参加者は約百名。皆、笑顔で世間話をしながら帰り支度を始めている。
(……スムーズに終わるに決まっている。今日は『晴れた休日の午後』に、『事前に知らされた時間』に集まっただけなのだから)
窓原は、首から下げた職員証のストラップを無意識にいじった。
もし本当に首都直下型地震が起きれば、きっとこの体育館には想定の何倍もの人間が押し寄せる。埼玉県方面へ帰れなくなった帰宅困難者も、山手線を越えてこの北橋区に雪崩れ込んで来るかも知れない。
一人あたりの面積、トイレの数、プライバシーの確保。国際的な避難所運営の指標である「スフィア基準」のことは、窓原も職務上当然知っている。
だが、人口が密集する東京23区において、そんな基準は「物理的に不可能な理想論」として、区の防災会議でも暗黙の了解で蓋をされていた。
「窓原さん、今日も無事に終わりましたね。いやあ、やっぱり日本人は災害に強い。いざとなれば皆で助け合えますよ」
上司である課長が、満足げな顔で窓原の肩を叩いた。
「……そうですね」
窓原は曖昧に頷き、時計を見た。午後四時。底冷えする体育館の床から、冷気が足の裏を伝わってくる。

冷え切った手をこすり合わせながら、窓原はコートのポケットの中で小さく震えたスマートフォンを取り出した。 妻からのLINEだった。
訓練お疲れ様💖
帰りに、駅前のスーパーで牛乳買ってきてくれない❓
またミーナが水入れをひっくり返して、床が水浸しになっちゃった😹
メッセージの下には、申し訳なさそうに耳を伏せている愛猫・ミーナのスタンプが添えられていた。
窓原の口元が自然と緩む。
中学生になったばかりの娘が、どうしても飼いたいと泣いて頼み込み、去年の春に我が家へ迎え入れた保護猫だ。今やすっかり家族の中心となり、窓原自身も妻もミーナには甘い。
(帰ったら、ちゅ〜るでも開けてやるか)
窓原は「了解」とだけ返信し、スマホをしまった。
我が家には、水も簡易トイレも、家族三人と一匹が三日間生き延びるだけの備蓄は完璧にしてある。家具の固定も済ませた。だから、もし万が一のことがあっても、自分たちは大丈夫だ。自宅でやり過ごせる。
避難所とは、家を失った「誰か」が来る場所であり、自分や家族がこの冷たいブルーシートの上で夜を明かすことなど、絶対にない。 薄暗くなり始めた体育館の窓を見上げながら、窓原は根拠のない安心感の中にいた。
このわずか一ヶ月後。 その「万が一」が、最悪のタイミングで牙を剥くことなど、今の彼には知る由もなかった。
《参考》各幕・章へのリンク
【第1幕:日常からの分離】
第1章:予定調和の防災訓練(当ページ)
第2章:境界線上の崩壊
第3章:「美しい被災者」の虚像
【第2幕:試練・通過儀礼】
第4章:暗がりの悲鳴
第5章:マニュアルという名の凶器
第6章:海を越えた視点
第7章:決断の夜
【第3幕:帰還・変革】
第8章:反逆のレイアウト
第9章:本当の秩序
第10章:被災地から育つ種/エピローグ
