【小説】ブルーシートの死角 〜東京都北橋区・指定避難所のリアルをシミュレーション〜【第1幕:日常からの分離】第3章:「美しい被災者」の虚像
※(重要)読者の皆様へ
本作は、架空の首都直下型地震を舞台にしたフィクションですが、過去の災害で実際に報告されている避難所での過酷な現実(ジェンダーに起因する問題、被災者同士のトラブルや性犯罪、劣悪な衛生環境など)に基づいた描写が含まれます。ご自身の過去の被災体験と重なりフラッシュバックなどを起こす可能性がある方は、ご自身の心身の状況に合わせてご無理のない範囲でお読みください。
なお、この小説の内容は、実在人物・団体には全く関係ありません。
発災から六時間。深夜二時を過ぎた。
体育館の中は、異様な熱気と、何千人もの人間の汗、土足の泥、そして断水したトイレから漂い始めた悪臭が混じり合い、息苦しいほどの空気に包まれていた。
スマートフォンのライトが時折、暗闇を切り裂く。その光に照らされるのは、疲れ果てた顔、顔、顔だ。
窓原は、体育館の隅にある演台の脇に、パイプ椅子を置いて臨時の受付としていたが、そこには絶えず避難者からの苦情と要求が押し寄せていた。
「おい、職員さん! あっちの連中、ブルーシートを二枚も重ねて敷いてるぞ。こっちは床に直接座ってるんだ、一枚寄こせって言ってくれ!」
「あの、すいません……。子供が熱っぽくて。毛布、もう一枚だけでも、なんとかなりませんか」
窓原は、そのたびに「申し訳ありません、在庫が全て尽きまして……」と、ロボットのように繰り返すしかなかった。
心臓が、罪悪感と無力感で潰れそうになる。
(……譲り合い、助け合い。そんな美しい光景は、ここにはない)
窓原は、暗闇の中で蠢く無数の影を見つめた。
かつてテレビのニュースで見た災害現場では、被災者たちが規律正しく列を作り、静かに不便に耐えている姿が強調されていた。しかし、現実になってみると全くと言ってもいいほど違った。
極限状態に置かれた人間は、まず自分と、自分の家族を守ることに必死になる。それ自体は責められるべきことではない。だが、その本能が、過密なこの空間では、鋭利な刃物となって他人を傷つけ始めていた。
場所取りの喧嘩は、あちこちで起きていた。
少しでも広いスペースを確保しようと、自分の荷物を広げる者。
地元住民と帰宅困難者の間で、
「ここは俺たちの地域の避難所だ」
「俺たちだって被害者だ」
という不毛な対立さえも生まれていた。

そして、最も深刻な軋轢は、物資を巡って起きていた。
「……ずるい」
誰かが、低く、しかしはっきりとした声で呟いた。
窓原の視線の先。
体育館の中央付近で、一組の家族が、自分たちのリュックサックから取り出したアルミ製の防寒シートに包まり、静かに非常食のパンを、ほんの少しずつ、食べていた。
この家族は平時から、完璧な防災セットを用意していたのだ。
だが、その様子を、周囲の毛布も食料もない避難者たちが、暗闇の中から冷ややかな視線で凝視していた。
「自分たちだけ、いい準備をして……。少しぐらい、分けてくれたっていいじゃないか」
「みんな我慢してるのに」
その視線は、明確な「暴力」だった。
十分な用意をせずそのため持たざることになった者が、事前に十分な用意をしていてそのため持てている者を、「平等」という名の刃で切りつける。
窓原は、その同調圧力の恐ろしさに、背筋が凍る思いがした。
防災意識が日頃から高かった人間が、なぜ防災意識の低い人間に責められなければならないのか。
その時だった。
「はいはい、静かに! 皆さん、聞いてください!」
体育館に、拡声器を通した大声が響いた。
この地域の古参の町内会長、源三(70代)だった。
彼は、混乱する体育館の中で、いち早く地元の老人会や青年部を掌握し、独自に動き始めていた。
「窓原さん、区の職員さんは頼りにならんから、俺たちが仕切る。いいな?」
源三は窓原に有無を言わせぬ口調で告げると、再び拡声器を構えた。
「今の状況は、誰もが苦しい。だからこそ、特定の人だけが特別なことをするのは、和を乱すことになる。今日から、水も食料も、毛布も、全て俺たちが管理する。個人で持っているものも、一旦全部出してもらう。それを、全員に平等に分配する! いいな、みんな我慢だ。我慢して、協力し合うんだ!」
体育館の一部から、賛同の拍手が起きた。
源三の言葉は、表面上だけは、秩序を取り戻すための力強い宣言の様に聞こえた。
だが、窓原には、それが「思考停止の悪平等主義」の始まりにしか聞こえなかった。
(……みんな我慢しろ、か)
それは、個人の尊厳を圧殺し、弱者の声を封じ込める言葉だ。
特に、この過密状態で、「女性特有の問題」や「自分が生きて行くのに家族同様に欠かせないペットを連れていることの困難」を抱える人々が、源三という男の言う「和」のために、さらに追い詰められていく、この現在進行中の事態。
窓原は、確実な予感と共に、激しい葛藤に襲われていた。
いつかの大災害の時の避難所で、「日本人らしく秩序正しい姿を見せていた」と国内マスコミが報道し称賛していた「美しい被災者」の虚像は剥がれ落ち、避難所は、同調圧力という名の底なし沼へと沈み込もうとしていた。
