見出し画像

【小説】ブルーシートの死角 〜東京都北橋区・指定避難所のリアルをシミュレーション〜【第2幕:試練・通過儀礼】第4章:暗がりの悲鳴

※(重要)読者の皆様へ
 本作は、架空の首都直下型地震を舞台にしたフィクションですが、過去の災害で実際に報告されている避難所での過酷な現実(ジェンダーに起因する問題、被災者同士のトラブルや性犯罪、劣悪な衛生環境など)に基づいた描写が含まれます。ご自身の過去の被災体験と重なりフラッシュバックなどを起こす可能性がある方は、ご自身の心身の状況に合わせてご無理のない範囲でお読みください。
 なお、この小説の内容は、実在人物・団体には全く関係ありません。

(最初から読む)

 発災の日の深夜、午前三時。
 底冷えする体育館は、疲労による重い寝息と、時折響く咳払いに支配されていた。

 懐中電灯に赤いセロハンを貼り、光を抑えて見回りをしていた窓原は、重苦しい空気の中に異臭が混じっているのを感じていた。
 断水したトイレだ。
 排泄物が流せない便器は数時間で限界を迎え、汚物で溢れかえっている。清掃する道具も水もない。

「……っ、ふぇぇ……っ」

 壁際の暗がりから、押し殺したような赤ん坊の泣き声が聞こえた。
 窓原が視線を向けると、若い母親がコートの陰に赤ん坊を隠すように抱きかかえ、必死に背中をさすっていた。
 その傍らには、毛布でぐるぐる巻きにされた小さなキャリーバッグがある。
 中から、微かに「ミャア」と仔猫の鳴き声が漏れた。

『うるせえな、寝られないだろ!』
 少し離れた場所に寝転がっていた初老の男が、舌打ちと共に怒鳴った。
 母親はビクッと肩を震わせ、「すみません、すみません」と何度も頭を下げる。

 その光景に、窓原の胸が締め付けられた。
 かつて、自分の娘がまだ赤ん坊だった頃。
 まだ自分の住まいが集合住宅だったその頃、妻は娘の夜泣きのたびに「近所迷惑になるから」と、真冬の深夜にもかかわらず娘を抱いて外を歩き回っていた。
 平和な日常でさえ、子育て中の母親は周囲の目に怯え、孤独な戦いを強いられている。
 ましてや、ここは逃げ場のない極限の空間だ。
 源三が敷いた「みんな我慢しろ」というルールの下では、赤ん坊の泣き声も、ペットの存在も「和を乱す身勝手なノイズ」として糾弾されてしまう。

 窓原は母親に声をかけようと一歩踏み出したが、ふと、別の異様な気配に気づいて足を止めた。

 すぐ斜め後ろの暗がり。
 二十代くらいの女性が、壁を背にして毛布を頭から被り、その中でゴソゴソと着替えか、あるいは授乳らしきことをしようとしていた。
 問題は、そのすぐ数メートル先だ。

 暗闇に紛れ、複数の男たちが、毛布の隙間から何とか中を覗き見ようと、ギラギラとした目を向けていたのだ。
 彼らはヒソヒソと卑猥な言葉を囁き合い、あからさまに身を乗り出している。

(……なんだ、あれは)

 背筋に冷たい汗が流れた。
 窓原は慌ててその場を離れ、校舎のトイレへと続く渡り廊下へ向かった。
 そこは、体育館以上に深い闇に包まれていた。
 照明は一切なく、非常口の緑色のランプだけが不気味に浮かび上がっている。

 廊下の奥から、足早に戻ってくる女性の姿があった。
 その表情は、恐怖で強張こわばっていた。
 彼女がすれ違った暗がりには、用を足すわけでもなく、ただ壁に寄りかかってタバコをふかしている男が数人、たむろしていたのだ。

 窓原の脳裏に、以前、かつて被災地となった他県に防災研修で行った時に聞いた言葉がフラッシュバックした。
『避難所の夜は、無法地帯になり得る。女性への痴漢、トイレでの待ち伏せ、着替えの覗き見。表沙汰にならない性被害が、過去の災害では確実に起きている』

 研修の時は、「いくらなんでも、被災して苦しい時にそんなことをする人間がいるはずがない」と、どこか他人事のように聞き流してしまっていた。
 だが、現実はどうだ。

「平等」や「我慢」という言葉で縛られたこの暗い箱の中では、女性の多くは声を上げることさえもできない。
「こんな大変な時に波風を立てるな」と言われるのが目に見えているからだ。
 だから彼女らは覗き見の恐怖に耐え、危険な夜のトイレに行かなくて済むように、ただでさえ配給の少ない水を飲むことすら我慢している。
 このままでは、エコノミークラス症候群や脱水症状で命を落とす危険さえ十分にあり得る。

(俺たちは……何を守っているんだ?)

 マニュアル通りの設営。波風を立てないための平等。
 それが今、目の前で、多くの女性から人間としての尊厳を奪い、さらには「性暴力」という取り返しのつかないことさえ起こり得る危険性をも放置する隠れ蓑になっている。

 自分の妻が、娘が、もしこの場にいたら。
 そう想像した瞬間、窓原の奥歯がギリッと鳴った。
 以前の大災害時に報道で流れていた「美しい秩序」の裏側で、声なき悲鳴がこの暗がりに充満していることに、彼はついに気づいてしまったのだ。

(第5章へ進む)