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【小説】ブルーシートの死角 〜東京都北橋区・指定避難所のリアルをシミュレーション〜【第2幕:試練・通過儀礼】第6章:海を越えた視点

※(重要)読者の皆様へ
 本作は、架空の首都直下型地震を舞台にしたフィクションですが、過去の災害で実際に報告されている避難所での過酷な現実(ジェンダーに起因する問題、被災者同士のトラブルや性犯罪、劣悪な衛生環境など)に基づいた描写が含まれます。ご自身の過去の被災体験と重なりフラッシュバックなどを起こす可能性がある方は、ご自身の心身の状況に合わせてご無理のない範囲でお読みください。
 なお、この小説の内容は、実在人物・団体には全く関係ありません。

最初から読む

 その女性が救急搬送もされず、ただ冷たい床で荒い息を吐き続けている。
 そんな絶望的な光景から逃れるように、窓原はよろける足取りで体育館の外へ出た。

 刃物のような冬の夜風が、汗ばんだ防災服を突き抜ける。
 暗がりの中、駐輪場の屋根の下に小さな人影があった。
 先ほどの若い母親だ。
 彼女は膝を抱え、足元に置いたキャリーバッグを自分のコートの裾で必死に温めようとしていた。
 中からは、寒さに震える仔猫の弱々しい鳴き声が聞こえる。

 窓原が声をかけようとしたその時、横からスッと別の人影が近づいた。
 ボランティアの腕章をつけた、三十代くらいの女性だった。
 彼女はリュックから自分の保温シートを取り出すと、手際よくキャリーバッグ全体を包み込み、母親に温かいお茶の入った小さな水筒を差し出した。

「これ、飲んで。赤ちゃんにお乳をあげるためにも、お母さんが水分を取らないとダメよ」
 少しだけイントネーションに癖のある、しかし流暢な日本語だった。
「ありがとうございます……でも、猫が臭いって怒鳴られて……」
「気にしないで。家族を守るのは当たり前のこと。あなたも、この子も、何も悪くない」

 そのきっぱりとした声に、窓原は思わず歩み寄った。
「あの、あなたは……」
「台湾から日本に働きに来ている、リンと言います。今回はたまたま、この近くの友人の家にいて地震に遭いました」
 彼女は窓原が身につけている区職員としての腕章をちらりと見ると、真っ直ぐに目を合わせた。
 その瞳には、体育館の中の惨状に対する静かな怒りが宿っていた。

「職員さん。私の国では、こんな光景はあり得ません」

 リンの言葉は、冷たい夜気を切り裂くように響いた。
「……あり得ない?」
「ええ。台湾で大きな地震が起きたら、発災から数時間ほどで、体育館の中には家族単位で過ごせる『プライバシーテント』が整然と並びます。温かい食事が振る舞われて、明るくて清潔な移動式の水洗トイレとかシャワー室とかがすぐに設置されます。女性が暗闇で着替えを覗かれたり、トイレを我慢して倒れたりするなんて、絶対にさせません」

 窓原は息を呑んだ。
「数時間でテント……? バカな。行政がそんなスピードで動けるはずがない。予算も、手続きも……」
「行政がやるのではないんです」
 リンは首を振った。
「民間です。巨大な慈善団体と、NPO、それから企業が、日頃から物資を備蓄していて、訓練しているんです。一旦災害が起きたら、その民間の団体はすぐに自分たちの資金と判断で現場に突入して、一気に環境を作り上げてしまいます。行政はその後ろ盾になって、サポートに回るだけなんです」

「ペットだって同じです」と、リンは足元のキャリーバッグを見つめた。
「何年か前の、台湾の花蓮ホワリエンの地震の時には、その当日に『ペット同伴者専用のテントエリア』が作られたんです。動物が苦手な人と動線を完全に分けることで、無用なトラブルを防いで、飼い主とペットが一緒に安心して過ごせるようにしたんです。それが『命と尊厳を守る』ということなんです」

 窓原は、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。
 行政が全てを平等に配分しなければならない。だから、物資が足りないうちは全員に床で我慢させる。それが日本の「秩序」だと思い込んでいた。
 だが台湾は違った。民間の力を使ってでも、とにかく最速で「個人の尊厳」を確保する。
 プライバシー空間さえ作ってしまえば、性被害も、盗難も、周囲への気兼ねも劇的に減る。

「……でも」
 窓原は乾いた唇を舐めた。
「テントがある人とない人が出たら、『不公平だ』って暴動が起きませんか?」
 リンは悲しそうに微笑んだ。
「『平等に苦しむこと』は、平等ではありません。ただの集団処罰です。本当に守るべきはマニュアルですか? それとも、目の前で死にかけている人たちですか?」

 その言葉が、窓原の胸の奥底に鋭く突き刺さった。

 今はきっと家にいるであろう窓原の妻。娘。そしてミーナ。
 もし彼女らがこの避難所にいたら。
 暗闇で痴漢に怯えて、トイレを我慢し倒れて、愛猫が氷点下の外に追い出されて、それでも「みんな我慢しているから」と泣き寝入りさせられていたら。

 俺は、そんな社会を守るために、公務員として、特別区の職員として、働いてきたのか?

「……間違っていた」
 窓原の口から、低く、しかし確かな声が漏れた。
 自分は「仕方がない」という言葉で思考を停止して、源三たちと同じように、この地獄を黙認する共犯者になっていたのだ。

「リンさん」
 窓原は顔を上げた。
 その目からは、役人としての諦めや迷いが消え失せていた。
「教えてくれませんか。今からでも、この場所で、あなたの国のやり方に少しでも近づける方法を」

 時計の針は、午前四時を回ろうとしていた。
 北橋区の、一つの指定避難所で、一つの反逆が始まろうとしていた。

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