【小説】ブルーシートの死角 〜東京都北橋区・指定避難所のリアルをシミュレーション〜【第2幕:試練・通過儀礼】第7章:決断の夜
※(重要)読者の皆様へ
本作は、架空の首都直下型地震を舞台にしたフィクションですが、過去の災害で実際に報告されている避難所での過酷な現実(ジェンダーに起因する問題、被災者同士のトラブルや性犯罪、劣悪な衛生環境など)に基づいた描写が含まれます。ご自身の過去の被災体験と重なりフラッシュバックなどを起こす可能性がある方は、ご自身の心身の状況に合わせてご無理のない範囲でお読みください。
なお、この小説の内容は、実在人物・団体には全く関係ありません。
(最初から読む)
台湾のボランティア・リンから「別の正解」を聞かされ、窓原が呆然と立ち尽くしていたその時だった。
「——っ! やめて!!」
校舎の奥、体育館からトイレへと続く真っ暗な渡り廊下の方から、女性の短い悲鳴が鋭く響いた。
窓原の全身の血が逆流した。
彼は弾かれたように駆け出し、手に持った懐中電灯のスイッチを押し込んだ。
緑色の非常口ランプしか点いていない暗黒の廊下。
ライトの強烈な光の先で、窓原は信じられない光景を目の当たりにした。
階段の踊り場の死角に、二十代くらいの若い女性が無理やり引きずり込まれそうになっていたのだ。
腕を強く掴んでいるのは、よれよれのジャンパーを着た中年の男だった。
「何をしている!!」
窓原は怒声と共に駆け寄り、男と女性の間に力任せに割って入った。
「あ……いや、暗くて転びそうになってたから、助けてやろうと……」
光を浴びた男は、舌打ちをして手を離すと、ニヤリと卑猥な笑みを浮かべ、そのまま暗闇の奥へと足早に消えていった。
「大丈夫ですか! 怪我は!」
窓原が声をかけると、女性はその場にへたり込み、ガタガタと激しく震えながら顔を覆った。
「……ずっと、我慢してたんです……でも、もう限界で……。なるべく人がいない時間を狙って来たのに、あの人が壁の影から急に……っ!」
限界まで水分を絶ち、それでも生理現象に抗えずに命がけで暗闇のトイレへ向かった結果がこれだ。
窓原は、怒りで歯の根が合わなくなるのを感じた。
そこへ、騒ぎを聞きつけた町内会長の源三が、のそりのそりとやって来た。
「なんだなんだ、うるさいな。こんな夜更けに大声を出して、みんな起きちまうだろうが」
源三はへたり込む女性を一瞥すると、顔をしかめて言った。
「お嬢ちゃん、暗い中を一人でウロウロするからいけないんだ。トイレなら明るくなってから行きなさい。ほら、波風立てずに自分の場所へ戻って」
(——波風立てずに?)
窓原の中で、何かが決定的にちぎれる音がした。
「源三さん」
低く、地を這うような声が出た。
そう声を出した窓原自身が自分でも驚くほど、冷たく研ぎ澄まされた声だった。
「明るくなってから行け、だと? 人間が、排泄を明日の朝までコントロールできるとでも思っているんですか」
「な、なんだ窓原さん、急に食ってかかって……」
「この人は、襲われかけたんです! ここが暗くて、身を隠す場所がないからです! この異常な環境を放置して、『ウロウロするからいけない』だと? ふざけんな!!」
体育館中に響き渡るような窓原の怒号に、源三は言葉を失い、周囲の避難者たちも水を打ったように静まり返った。
その静寂を破るように、入り口の方からリンが駆け込んで来た。
彼女の腕の中には、あの若い母親と、毛布にくるまれたキャリーバッグがあった。
「窓原さん! 子猫の呼吸が弱くなっています。このまま外にいたら、お母さんも猫も凍死してしまいます!」
母親は青ざめた顔で、声も出せずにボロボロと涙をこぼしていた。

襲われかけた女性の嗚咽。 寒さで命を落としかけている小さな命と、絶望する母親。
そして、それを見てもなお「ルール」を盾に現状を維持しようとする大人ども。
窓原の脳裏に、自宅の暖かいリビングで、愛猫のミーナを抱きしめて笑う妻と娘の姿が鮮明にフラッシュバックした。
もし、妻が夜のトイレで男に腕を掴まれたら。
もし、娘が着替えを覗き見られそうになったら。
もし、ミーナが「臭いから」と氷点下の外に放り出されたら。
俺は、源三と同じように「みんな我慢してるんだから」と、家族に泣き寝入りを強要するのか?
(冗談じゃない。絶対に、冗談じゃない)
マニュアルなんか、クソ食らえだ。
全員が平等に地獄を見るルールなど、今この瞬間から俺がぶっ壊す。
窓原は、呆然とする源三と、奥から出てきた区の危機管理課長に向かって、明確な殺意すら込めた眼差しで言い放った。
「たった今から、私がこの避難所のレイアウトを強制的に変更します。文句があるなら、後で私のクビを飛ばせばいい」
「ま、窓原君! 何を勝手なことを……!」
「黙れ!!!」
課長の制止を怒声で叩き斬り、窓原は振り返ってリンを見た。
「リンさん。台湾のやり方を、今すぐここでやります。知恵を貸してください」
「……はい、もちろん」
リンは力強く頷いた。
窓原は、身につけていた特別区職員の腕章を乱暴に引きちぎり、床に投げ捨てた。
「全員、起きてください! これから、女性と乳児専用の安全区画と、ペット同伴エリアを作ります! 動ける大人の方は、力を貸してください!!」
マニュアルという名の分厚い壁が、崩れ落ちた瞬間だった。
北橋区の指定避難所の一つで、最も過酷で、最も熱い「反逆の夜」が幕を開けた。
