【小説】ブルーシートの死角 〜東京都北橋区・指定避難所のリアルをシミュレーション〜【第3幕:帰還・変革】第10章:被災地から育つ種(エピローグ)
※(重要)読者の皆様へ
本作は、架空の首都直下型地震を舞台にしたフィクションですが、過去の災害で実際に報告されている避難所での過酷な現実(ジェンダーに起因する問題、被災者同士のトラブルや性犯罪、劣悪な衛生環境など)に基づいた描写が含まれます。ご自身の過去の被災体験と重なりフラッシュバックなどを起こす可能性がある方は、ご自身の心身の状況に合わせてご無理のない範囲でお読みください。
なお、この小説の内容は、実在人物・団体には全く関係ありません。
首都直下型地震の発災から、三週間が経過した。
電気や水道といったインフラが徐々に復旧し、避難所にいた被災者は徐々に「みなし仮設(民間アパートの借り上げ)」などのより安定した住環境へと移り始めた。
それに伴い、北橋第三中学校の指定避難所も、その役目を終えて閉鎖されることになった。
最後の避難者を見送った体育館で、窓原は台湾人ボランティアのリンと、静かに向かい合っていた。
「リンさん。あなたの助言がなかったら、私たちは『平等』という言葉に殺されていました。本当に、何と感謝していいか……」
窓原が深く頭を下げると、リンは柔らかく微笑んで首を振った。
「私はきっかけを作れただけです。あの古いシステムを壊して、人々を動かしたのは、窓原さんがこの区の職員の立場で見せてくれた『大切なものを守りたい』という強い意志ですよ。……日本は、まだまだこれから良くなれます」
リンと固い握手を交わし、彼女の背中を見送った後、窓原は実に三週間ぶりに自宅へと帰路についた。 幸いにも彼の自宅は倒壊や大きな損傷を免れ、家族は無事に「在宅避難」を続けていた。
玄関のドアを開けると、
「パパ!」
・・・という大きな声と共に、中学生の娘が泣きながら飛びついてきた。その後ろで、妻が目を赤くして安堵の笑みを浮かべている。
「あなた、お疲れ様……。怪我も病気もなくて本当に良かった」
妻の足元から、「ミャア」と愛らしい声がした。 左耳にだけ三毛の模様がある、蒼い瞳の白いフワフワの仔猫。愛猫のミーナだ。
窓原は床に膝をつき、ミーナを両手でそっと抱き上げた。
温かく、柔らかな命の鼓動が掌から伝わってくる。
(ああ……俺は、これを守りたかったんだ)

翌週。
区役所に復帰した窓原を待っていたのは、区の幹部たちによる懲罰委員会だった。
マニュアルを無視し、無断でホームセンターから資材を調達し、特定の避難者を「特別扱い」した責任を問われたのだ。
しかし、窓原はクビにはならなかった。
北橋第三中学校の避難所からは、エコノミークラス症候群による重症者も、災害関連死も、そして性犯罪の被害届も『一件も出なかった』という圧倒的な事実があったからだ。
さらに、町内会長の源三を中心とする地域の多くの住民から、「窓原職員の独自の判断が、多くの命と尊厳を救った」という何百人もの署名が区長宛てに提出されていたのである。
春の陽気が差し込む危機管理課のデスクで、窓原は真新しいファイルを開いていた。
表紙には『新防災手順案:民間連携および要配慮者への迅速なゾーニング』と書かれている。
彼は今、台湾のシステムを北橋区に導入するため、平時からの「災害時協定」作りに奔走していた。
行政の備蓄だけに頼るのではなく、あのホームセンターや、地元の運送会社、その他多くの地元企業やNPO法人などと事前に協定を結び、「発災と同時に、行政の指示を待たずに民間が動ける仕組み」を構築しようとしているのだ。
「……みんなで平等に我慢する時代は、もう終わりにしよう」
窓原はパソコンの画面に向かい、力強くキーボードを叩き始めた。
被災地の冷たいブルーシートの上から育った小さな種は、今、確実に根を張り、古いコンクリートを突き破ろうとしている。
(このお話を読んで下さった皆様へ)
いつか、突然やって来る、その日。
私たちが逃げ込む避難所は、冷たい床でただひたすらに耐え忍ぶ「平等な地獄」のままで良いのでしょうか。
それとも、知恵と事前の準備によって「個人の尊厳をお互いに守り合える空間」へとあらかじめ変えておくことは出来るのでしょうか。
実際に災害が起こってしまった時、本当に恐ろしいのは地震そのものだけではありません。
「波風を立てるな」という私たちの心の中にある同調圧力こそが、最も鋭い凶器になり得ます。
あなたの地域の広域指定避難所には、プライバシーを守るテントの備蓄のようなものはあるのでしょうか?
女性や乳児、何らかの固有の事情を抱えた人、そして人間同等に大切な家族の一員であるペットを守るための「区別」を、許容できる社会の余裕はあるのでしょうか?
もし無いのであれば。
どうか「仕方がない」と諦めず、今日から、あなたの街の行政に、議員に、そして周囲の身近な方々やご自身にも問いかけてみてください。
この様な大災害に限らず全ての場合においてマニュアルの死角で泣き寝入りする人を、これ以上、一人も出さないために。
(あの東日本大震災から15年の日を明日に控えたこの日に記す。友吾)
(了)
