奥歯だけで食べる寿司
「積読と耳読」の日には、書かなかった寄り道があります。本と、仮歯と、回転寿司の話。


先日の「積読と耳読」には、書かなかった寄り道がある。
村上春樹の新刊を抱えて、炎天下を歩いて帰る途中の話だ。耳ではマインが本を作っていて、腕の中では『夏帆』が重くなっていて、そして腹が、減っていた。考えてみれば昼を食べていなかった。
ちょうどそこに、くら寿司があった。吸い込まれた。
ここでひとつ告白すると、私はいま前歯が仮歯である。午前中に歯医者で土台というものが入ったばかりで、次回ようやく完成する。つまり前歯で噛み切る系の食べ物には、少々の緊張感がある。それでも寿司を選んだのは、寿司がだいたい奥歯の食べ物だからだ。

一皿目、にしん。正確には「とろにしん」である。にしんにとろ。聞いたことのない組み合わせだが、回転寿司ににしんがいること自体、思っていなかった。マグロでもサーモンでもなく、初手ににしんを取る客も客だが、置いてある店も店である。皮目に飾り包丁が入っていて、銀色が照明を照り返していた。奥歯で噛むと、なるほど「とろ」を名乗るだけの脂が、酸味と半々でじわっと出てくる。青魚の匂いが鼻に抜けて、ああ魚を食べている、という気になる。

えんがわは、白かった。ヒレの付け根の、あのコリコリしたところ。仮歯の身にはやや挑戦的な歯ごたえだが、これも奥歯の仕事なので問題ない。コリ、と音が頭の内側で鳴って、後から脂が追いかけてくる。二貫あるのがありがたい。一貫目は歯ごたえを、二貫目は脂を担当する。

炙りほっけには、ネギとおろしが載っていた。ほっけというと居酒屋で開きになって出てくる姿しか知らなかったので、寿司になっているのを見て、一瞬誰だかわからなかった。炙った皮目の香ばしさに、おろしの冷たさが重なる。焼き魚定食を一口に圧縮したような味がした。これはずるい。
会計を済ませて、また炎天下に出る。腹が満ちると、本の重さが少しだけ軽くなった気がした。気がしただけで、352ページは352ページのままである。
前歯が完成したら、今度は光り物を前歯でかじってみたい。
*漫画は新宇佐美式六号で描きました。
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