積読と耳読
本を買った。読んでいない。積読と耳読の一日でした。



午前中、歯医者に行った。前歯の治療中で、今日は土台というものが入った。次で完成らしい。今はまだ仮歯である。口の中に工事現場を抱えたまま、午後の用事に出た。
用事というのはお中元だ。二軒分、そうめんとカステラを送る。伝票を書いて、送料を払って、それで今日の任務は終わりのはずだった。
ところが、なんとなく本屋に寄った。この「なんとなく」がよくない。
入口の平積みに、村上春樹の新刊があった。『夏帆─The Tale of KAHO─』。三年ぶりの長編だ。
出ることは知っていた。知っていて、迷っていたのだ。Kindleで買うか、Audible化されるのを待つか。私は本をもっぱら耳で聴く人間になって久しい。歩きながら聴ける。編み物をしながら聴ける。本棚も減らない。紙の本を買う理由は、もうほとんど残っていなかった。
はずだった。
現物を見たら、手が伸びていた。持ち上げると、ずしりと重い。帯にはありくいの木彫りの写真が載っていて、その横に「あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。」と書いてある。何の話なのか、まったくわからない。わからないが、こういうことを言ってくる本には勝てない。気がついたらレジに並んでいた。2,860円。迷っていた期間は二ヶ月くらいあったのに、決着は三十秒でついた。

紙の本を買ったのは、いつ以来だろう。思い出せない。思い出せないくらい前なのである。
帰りは歩いた。暑い。もう完全に夏だ。日差しが頭のてっぺんに刺さる。
耳ではAudibleで『本好きの下剋上』を聴いている。本が好きすぎる主人公が、本のない世界に転生して、紙を作るところから始める話だ。もう20巻まで来た。
本を作る話を耳で聴きながら、買ったばかりの紙の本を抱えて坂を歩く。マインが見たら、たいそう羨ましがるだろう。本屋に寄れば本が積んであって、二千円ちょっとで持って帰れる世界。
その本が、だんだん重くなってくる。352ページ。腕と本のあいだに汗をかく。マインには悪いが、紙の本とは、つまりこういうものである。
家に着いて、本は机の上に置いた。まだ開いていない。耳の続きがあるからだ。マインの下剋上は、まだ終わっていない。
*漫画は新宇佐美式六号で描きました。
いいなと思ったら応援しよう!
記事を読んでくれてありがとうございます。気が向いたら、チップで応援していただけると、次の漫画やエッセイを描く力になります。