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自分が思っていたより無能であることに気付かされる恐怖 ~『ワールドトリガー』28巻のすごさについて~

 生きていて恐ろしいことは色々あるものだが、その中の一つに自分が思っていたよりも周囲の評価が厳しかったり、要求していたものが遥かに高かったという自分と他者との評価や認識のズレというものがある。

 自信満々で臨んだら全然通用しなかったとか、自分のクラスでは頭一つ抜けた存在だったのに、進学などで環境が変わったら新しいクラスメートのほうが自分よりも全然すごかったみたいな、自分が優秀な存在だと思っていたらまだまだ上には上がいたという経験をした人は数多いのではないかと思う。普遍的な出来事ではあるが、これは実際経験してみるとなかなかに辛い経験である。

 だが、それよりも遥かに辛いのは自分としてはそんなに調子こいたりせずにそれなりの評価を自分にしていたつもりだったのに、それよりもさらに下回る評価がついてしまった時ではないだろうか。謙遜している自己認識すらも破壊されてしまうという経験、これ以上に恐ろしいことってなかなか想像できない。

 『ゴッドタン』や『あちこちオードリー』の総合演出であり、Netflixでも『トークサバイバー』や『LIGHT HOUSE』など様々な媒体でヒットを連発しており、各種エンタメへの造詣も深い、元テレビ東京の佐久間宣行氏がこんなつぶやきをしていた。

 そうか、ついに佐久間さんも気付いてしまいましたか……。『ワールドトリガー』28巻のすごさに……。

 『ワールドトリガー』28巻はなぜすごいのか。それを自分なりの言葉で説明するのであれば、冒頭で述べたような、自分が思っていたよりも自分が無能であることに気付かされる、それも自分自身そこまで高く自己評価していたわけじゃないのにそれを遥かに下回る位置に自分がいるということを徹底的に自覚させられるまでを見事に描いているからである。

 そもそもこの28巻に至る前段というか、閉鎖環境試験というものが始まっていて、そのなかで臨時に編成された5人のチームで課題をこなしながら閉ざされた空間で7日間過ごしているみたいなことについては下記の記事に書いたので読んでみてほしい。

 そんな閉鎖環境試験が佳境に差し掛かり、自身のおかれた境遇と試験での成績に疑問と葛藤を抱える一人の隊長が、その疑問を別の隊員に問いかけることから、このエピソードは始まる。ちなみにガンガン内容ネタバレしているのでご注意あれ……!

『ワールドトリガー』では珍しい「活躍」が描写されない人物

 そんな特殊な環境下での試験において、11人の隊長の一人に任命されながら自分がなぜ隊長に選ばれたのかが自分でも理解できない。つまりは自分の能力がそれほど高いとは自分自身でも思っていないキャラクターが、28巻の245話、246話、247話の主役となる人物、若村麓郎である。

隊長に選ばれたことが自分でも意外な若村
葦原大介『ワールドトリガー』23巻 No.170より

 『ワールドトリガー』のB級ランク戦に登場したメンバー、とくにB級中位以上のメンバーで、ここまでまったく活躍していないキャラクターはほぼいない。全員なにかしら見せ場を作っている。香取隊のチームメンバーである三浦ですら、身を挺して香取を庇うという貢献はしている。だが、若村麓郎というキャラクターは実はこれまで活躍らしい活躍というものが全く描かれていない。これは本作においてかなり珍しいことである。

 若村自身、自分でも隊長を務めるだけの力量も経験も意欲もないことを自覚しながらも直近でランクを下げたとはいえ以前はB級上位に入っていた香取隊のメンバーでもある彼は自分の実力をマスタークラスという上級クラスにこそ届かないものの、正隊員としてのそれなりの腕はあると認識している。

 組織の中でも隊長やチーム内のエースを務めたり、自分がランクするB級のさらに上のA級の猛者たちには敵わないものの、自分と同じくらいの実力の仲間は沢山いるし、自分だってそのなかではそこまで劣っているわけでもない。だが、そんな若村の視点から見ても自分と大きく差があるとは思えない、個人の強さで言えば自分の方に分があるとみている、本作の本当の主人公、三雲修がチームでの働きにおいては自分を圧倒する成績を収めていることに彼は疑問を持つ。自分と三雲で何がそんなに違うのかと。

本作の主人公、三雲修
葦原大介『ワールドトリガー』23巻 No.185より

 出てくる登場人物が誰も彼も異常に成熟していて、考え方も達観している『ワールドトリガー』において、若村麓郎というキャラクターはわかりやすく葛藤をしているキャラクターである。そんな彼だからこそドラマの中心にはなりやすい。

 葛藤を抱える若村は、三雲と自分では何が違うのかという問いを自分が率いる臨時部隊のメンバーであり、通常時は三雲修のチームメンバーであるヒュースにぶつける。このヒュースというキャラクターは以前の戦いにおいて敵として登場したが色々あって今は仲間になっていたりといった事情が複雑なのだが、説明しているとキリがないのでここでは割愛しておく。とにかくめちゃくちゃ真面目で有能なキャラクターだと思ってもらえばいい。

若村に指名されるヒュース
葦原大介『ワールドトリガー』23巻 No.192より

 そしてここから閉鎖環境試験編の最大のハイライト、ヒュースによる「努力論」が展開されるのである。

自分が思っていたより自分が無能であるという衝撃

 ここから始まる「実力」とは何か?という話であったり、目標に期限を設定しないと失敗を正しく認識出来ずに「足踏み」に陥るという話はまあこれだけでも滅茶苦茶面白いし全くもって正論なのだが、本番はこの先である。

 自分の現状を変えてくれる「何か」を求める若村に対してヒュースは、一つの考えとして若村が所属する香取隊を抜けることを提案し、その上で個人戦と、集団戦での若村の戦闘能力について説明をしていく。

 ここでヒュースが上手いのが、強さの説明をするにあたって若村以外の隊員(香取やA級個人ランク1位の太刀川、三雲修など)を並べて相対的に若村の強さを明示した上で、若村にも意見を求め、彼の意見を反映しながら持論を展開している点である。そうすることで一方的に言いたいことを捲し立てるのではなく、若村の意見を傾聴した上で自分の話もするという対話が成立する。

 そうしてヒュースは、若村が個人戦ではそこそこの戦闘能力をもちつつも、チーム戦においては最底辺のC級クラスの能力しか持っていないというショッキングな見立てを若村に告げる。若村自身は個人戦と同様にチーム戦においてもB級中位程度の実力があると自己認識しているにも関わらずだ。

 このヒュースの率直過ぎる見立ては若村を少なからず動揺させる。そして若村がチーム戦において、ろくに成長出来ていない最大の理由は隊長である香取が「強すぎる」ことにあると指摘する。

 若村自身は香取隊がランク戦において停滞している最大の原因は、隊長である香取にあると考えていた。確かに香取は戦闘能力やセンスは高いものの、言動やふるまいに短絡的だったりムラっ気があったりと、ぱっと見の印象ではチームの足を引っ張っているように見える。だがよくよく香取隊の戦いを見てみると、なんだかんだで敵を撃破してポイントを稼いで貢献している香取に比べると、若村は全然効果的な立ち回りが出来ていないのである。『ワールドトリガー』は本当にこの辺の描写が巧妙だ。

 そして、閉鎖環境試験において、自分でも予想もしていなかった隊長に指名され、限られた時間とはいえ慣れないチームの指揮を経験することで、自身の至らなさに気づき始めていた若村にこのヒュースからの指摘は見事にぶっ刺さってしまう。以前の彼なら言っていることを理解することすら出来なかったのかもしれないのだから、話を理解出来ること自体が成長と言えなくもないのだが、それでもこのヒュースの指摘はあまりに酷な指摘である。

 突如として突きつけられた自分のチーム戦における実力不足に直面し、戸惑いが隠せない若村に対し、ヒュースが言う。

刻むんだ・・・・
目の前の一段を登るために必要な要素を
一段の中でさらに刻んで
自分が登れる小さいステップを作るんだ

葦原大介『ワールドトリガー』28巻 No.238より

 このヒュースの言葉は、極めて普遍的な努力についての考え方で、はっきり言ってしまえば、物語を超えて読者である我々にとっても「役に立つ」。だが、ここで重要なのは、そんな非常に端的で真っ当な言葉すらも今の若村にとってはより彼を追い詰める要因にしかなっていないということだ。この時の若村を映すコマ割りがこのエピソードの印象をさらに増幅させている。

ページの全てのコマが斜めに断ち切られている
葦原大介『ワールドトリガー』28巻 No.239より

 『ワールドトリガー』は通常の会話シーンはコマのフレームが水平に区分けされており、基本的に安定感のあるコマ割りで話が展開される。

通常の会話シーンの安定したコマ割り
葦原大介『ワールドトリガー』28巻 No.131より

 だが、この時は珍しく縦長のコマに真っ黒な背景、そして不安定な斜めに区切られたなかにポツンと佇む若村の姿が映され、はっきりと内面的な動揺がビジュアルのみで伝わってくるビジュアル設計になっている。

 このコマ割り以前にも基本的にヒュースと若村との対話中、若村の内面が激しく動揺したタイミングでは度々フレームが斜めに断ち切られている。気になる人は改めて28巻を読んでみて欲しい。若村の足元から崩れていくコマなどは、なかなかに印象的だ。

 言葉の鋭さが際立っている回のようで、実は非常にクラシック且つ繊細な形で漫画的な演出が施されている回でもあるのだ。そしてこの回のコマ割りは一貫して若村の心情に沿う形で演出がなされている。

 さらに、このエピソードが本当にすごいのはここからさらにヒュースがちょっとだけ違う角度から言葉を若村に語りかけ続ける点である。

 ヒュースはここから唐突に若村に対して自転車に乗れるか?ということを尋ねる。そんな唐突な問いに戸惑いながらも若村は当然のこととして乗れると返答し、そこにヒュースが畳みかけるように、なら大丈夫だと応える。

 ここから続くヒュースの言葉は明確に若村を鼓舞するためのものだ。彼の目的は若村が率いるチームで高い成績を収めることなので、若村を正論で論破することではない。だからと言ってヒュースは歯が浮くようなお世辞を並べるような真似はしないし出来ない。

 彼が紡ぐのは小さいステップの積み重ねで、最初は出来なかった色々なことがやがて出来るようになるという人間の努力と成長というものを根源的なところで信じている人間の言葉である。誰でも当たり前に乗っている自転車にヒュース自身は乗れないという自己開示もしつつ、彼はどこまでも具体的に成長にまつわる言葉を紡ぐ。

 そのあまりに素朴かつ誠実な言葉は、その手前で打ちのめされ、どん底に突き落とされた若村にも届く。そうして若村がほんの少しだけ前を向いた状態で、ヒュースによる「努力論」は終わる。

 その直前まで、斜めに断ち切られた不安定なコマ割りから一転して、水平方向に区分けされたコマ割りに戻ることで、読んでいる側は視覚的に若村の心情が最後にちょっとだけ安定したことを理解する。この丁寧な演出があるから、このエピソードはちょっとだけ前向きな印象に着地することに成功しているのである。敢えて引用はしないので、気になる人は原作をコマ割りにも注意しながら読んでみて欲しい。

 ここまで自分なりに振り返ってみたが、すごすぎる話だと思う。少年漫画の歴史上、もっとも具体的に成長や努力について端的且つ具体的に言語化し切ったエピソードではないだろうか。そしてそれが、才能に溢れる人物に向けた言葉ではなく、作中で最も「取り柄」に乏しく、目立った活躍をまるでしていないキャラクターに対して向けた言葉なのである。そんなキャラクターにここまでスポットを当てることなんて普通ではありえない。葦原大介という漫画家はこのエピソードをもって、少年漫画における「努力」表現に一つの金字塔を打ち立てたといって良いだろう。

改めて『ワールドトリガー』28巻の衝撃とは

 『ワールドトリガー』28巻がすごい理由、それはここまで単行本にして28巻(最新刊は29巻)にわたる長尺の物語の中で、かなり以前から溜めていた若村という決して自分自身でもそこまで才能に溢れているとは思っていないキャラクターをほぼ主役級の中心的な位置に据えて物語を展開している点にある。閉鎖環境試験において、若村の出番や物語に占める比重はかなり大きい。

 そして、そんな彼が、自分で思っていた以上に自分が無能であることを突き付けられるという、描き方によっては極めて露悪的で残酷なものにしかならない主題を、丁寧且つ、漫画というメディアだからこそ出来る描き方で、なにより若村というキャラクターに最大限寄り添いつつ、最後はほんの少しだけ前向きな印象を持たせて描き切った点が本当にすごい。

 28巻といったら『鬼滅の刃』はとっくに完結しているし、『呪術廻戦』だったら宿儺の最終戦に突入している巻である。そんなタイミングで作中で全然活躍の場が無かったキャラクターに、改めてそのキャラクターが如何に無能であったかについて本人に直接突きつける話を持ってくるのだからやはり『ワールドトリガー』は異常な漫画である。

 さらにすごいのは、ここまで厳しい現実を突き付けられた若村が、反転して劇的な活躍を見せるのかといったら、現時点においてはそんなことはないということだ。そう簡単に現実は変わらない。だが、当初の迷走ぶりに比べれば改善の傾向にはあるし、なにより自分の立ち位置を自覚したことで心が折れることなく前を見据えている彼はきっとこれから何かをやってくれると思う。そんな期待感だけは間違いなくある。マジで頑張れ。

 続く29巻ではこのヒュースによる「努力論」に対するA級メンバーによる感想戦も行われているので、そちらも必見!そして28巻を読んでから改めて14巻から登場している若村のここまでの足跡を追いかけたくなるはず!これだから『ワールドトリガー』は本当に沼!最高!!


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