見出し画像

人はいつ「老害」になるのか ~らーめん再遊記論「塩匠堂編」~

 ↑サムネイルは『らーめん再遊記』6巻 No.110より

 今の世の中で最も嫌われているもの、それは老害である。

 老いるというだけでも嫌なのに、それに「害」が加わるなんて、言葉だけでも本当に嫌な感じである。

 しかし、こんな比較的最近生まれた言葉が一般的になるくらい、老害というものは世間に溢れている。誰もがなろうと思って老害になるわけではないのだろうし、出来ることなら避けたいと思いつつも、多くの人が老害化してしまう。

 そんな老害について考える上で一つの参考例となる漫画が『らーめん再遊記』の5巻から7巻、話数にすると第43杯から第56杯にかけて描かれる、「塩匠堂編」である。

 このエピソードがすごいのは、中心人物である「塩匠堂」の主人、永友和平が最初から最後まで全く変化しないことだ。ほかの人物と諍いがあったり、それがやがて和解したりと表面上はドラマチックなことが起きているにも関わらず、永友和平という人物の中身は初登場時から最後まで全く変化しない。その変化しなさこそがこのエピソードが老害というものを考える上で非常に示唆に富んだものとなっていると同時に、物語としての味わい深さの大きな要因となっている。

 画期的な塩ラーメンを提供する店として、芹沢を始めとする後進たちにも大きな影響を与えた「塩匠堂」は今現在においても常に繁盛し続けている名店である。この店に憧れ、そこで働くことを通してのれん分けした独立していった弟子たちも複数人存在している。

 ここまでであれば永友和平という人物は全く非の打ちどころのない、実力があってかつ懐も深い、老害とは程遠い人物である。

『らーめん再遊記』6巻 No.222より

 しかし、問題はここからだ。若きラーメンユーチューバー、グルタこと板倉和文の視点から徐々に明らかになっていくのは、「塩匠堂」からのれん分けして独立した店舗がことごとく短期間の間に潰れていったということと、そもそもの問題として「塩匠堂」のラーメンの質自体がそこまで高くはないという事実である。そしてそのことに、芹沢はとうの昔に気付いていた。

 ここまでで既に人が老害化していく原因の一つが描かれている。永友和平というかつては画期的で先駆的なラーメンの作り手がとっくに進歩を止めてしまっていたことは、芹沢を筆頭に後進たちにも気付かれていた。だが、偉大なる先輩である永友に、わざわざリスクを承知で苦言を呈しようとは誰も思わない。そして永友の周りには常に彼を崇めたてまつり、全肯定し続ける信者たちしかいない。そして「塩匠堂」の本店の経営自体は常に繁盛しているので問題がない。永友和平という人物にはわざわざコンフォートゾーンを抜け出してまで進化、改良を続けていく動機、必然性が全く存在しないのだ。

 それでも「塩匠堂」が個人の店としてやっていくのであればそれはそれで問題がない。店は繁盛しているのだし、変化、進化していくのが常に正しいとは限らない。熱心な常連やファンに囲まれ居心地の良い自分の城を守る人生というのも悪くはないだろう。しかし、彼には弟子が存在する。そしてのれん分けして独立した弟子の1人、赤田の店はいつも閑古鳥が鳴いており、閉店の危機に瀕している。

 そんな危機的状況にある弟子に対して、永友はまったく効果の出ない、細かすぎたり精神論すぎる助言を送ることしかできない。そしてそれに周囲の信者たちは同調して乗っかり赤田の不出来を責め立てる始末だ。背に腹変えられない赤田は塩ラーメン以外のラーメンやサイドメニューの提供を師匠に提案するが、それはかえって永友の逆鱗に触れ、のれん分けを撤回し、破門を宣告されてしまう。

『らーめん再遊記』6巻 No.113より

 はいここ!ここにこそ人が老害になる瞬間がある。人はいつ老害になるのか。それは後進の成長を阻害した時である。暴言を吐いたり酷い振る舞いをするのは老いてようが若かろうが関係なくハラスメントであり害なのだが、先に年を重ねて(老いて)いる先達が、その影響力の範囲内にある存在に対して成長を阻害する振る舞いをしたとき、人は老害になる。

 その後、赤田は途方に暮れつつもグルタに相談しながら、「塩匠堂」のスープを改良し、醤油ダレにゴボウを加えた「醤油拉麺」を作ることで、閉店寸前だった赤田の店は息を吹き返す。

 一方で芹沢たちは「塩匠堂」のラーメンの質ではなく、ブランド価値に目をつけ、それを最大限利用するために永友と赤田がテレビ番組上で和解するという場を設ける。そんなホイホイ都合よくテレビ番組がセッティング出来るものかとも思うのだけどABEMA(劇中ではアメーバネット)ならありそうかっていう感じもするのでまあいいか。

 そんなこんなで、赤田も自身のオリジナルメニューを作ることで店は繁盛し、永友とも和解が出来たことでめでたしめでたしということでこのエピソードは幕を閉じそうになるのだが、ここではまだ終わらない。

 一応、仲違いした弟子と和解したとはいえ、既に述べたように永友は最初から最後まで全く変化しない。彼は今後も信者たちに囲まれて「塩匠堂」の店主を続け、変わらない/進化しない味を守り続け、弟子がたまに独立しては失敗するのだろう。

 実はこのエピソードの最後に少しだけ変化するのは芹沢である。かつて自身の店が赤田と同様に閉店の危機に瀕していた時、誰よりも理解し賞賛してくれたのは永友和平その人だった。そして、芹沢が起死回生の濃口ラーメンで店が大繁盛した時、そのラーメンの問題点を鋭く見抜き、それでもなお芹沢を断罪するどころかさらなる成長にむけて鼓舞してくれたのもまた彼だった。

 そんなラーメンへの鋭い視点と優しさの両方を持ち合わせたかつての永友はもういない。彼は赤田が作った「醤油拉麺」が実は「塩匠堂」のスープを改良した上で醤油ダレにゴボウを加えているということに、まったく気づくことすら出来なかった。エピソード中の短い時間の間ではほぼ変化のない永友が、芹沢がラーメンと共に生きていた長い時間においては、永友は天から地に落ちたといっていいほどに大きく変化、劣化していたのである。そして当の本人はそのことに気付く気配もない。

 芹沢はどこかで期待していたのではないか。かつての永友和平が自分にしてくれたように、本質を鋭く見抜き、それを自身の成長の糧としてくれるのではないかと。その望みはあえなく絶たれる。芹沢に起きた少しばかりの変化とは、永友に抱いていたほんの少しの期待すらも諦めるということだ。最後に飲み屋で佇む諦念と悲哀に満ちた芹沢の後ろ姿を映して物語は幕を閉じる。

 私はこの苦い後味を残すエピソードをこれからも何度も読み返すだろう。これからの自分の歩む道のりとそれに続く後進のことを考えながら、そしてかつての自分を導いてくれた先達を思い出しながら。


いいなと思ったら応援しよう!