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#565[短編]黒曜石の光る前──琥珀色の間・番外編

仕事も生活も、ただこなすだけの日々に心をすり減らせた大翔は、恩師の家に招かれ “時間の積み重ね” に触れる。恩師の所作と、家族の歴史に照らされたとき、大翔の胸に静かに宿ったものとは。今を生きることを忘れた大人へ贈る、“原点” の物語。連載第23回。


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※ 連載ですが、どのお話からも読めます。



夏休みの宝石

原田先生が言うには、俺のいい所は「光を当てたら輝く」ことらしい。高3の夏休みに、講習で一度だけ先生に言われたことがあった。

中高の6年間、社会人になるまでの間に、俺は何が変わったんだろう。着るものと居る場所が違うだけで、心はどこか置き去りのまま、毎日をただ消化しているに過ぎないと、大翔は思っていた。

「原田先生、今日はありがとうございました。三上に会えました
大翔は恩師に電話口で告げ、ことの顛末を簡単に話し終えると、先生は意外なことを口にした。

『……そうだったの。ところで新羽にっぱくん、来週うちに来れるかしら』
先生は「いちど仕事をした仲間は同僚」と、教え子である大翔を自宅に招いてくれるという。

郊外の駅に着いた大翔は、原田先生にメッセージを入れた。先生の家までは坂道がきつく、駅まで迎えに来てくれることになっていた。

先生の最寄駅に着いて、ロータリーのある出口を駅員に確かめた。階段を降りると白い車が1台、ハザードランプを点けて停まっていた。

運転席の原田先生が手を振ると、大翔は軽く会釈した。小走りに近づいて助手席に乗り込むと、先生は「遠かったでしょ」と言って駅を出た。

春のアトリエ

坂道を上って10分ほどで先生の家に着いた。車を入れ、先生は先に玄関へ向かう。大翔は白い家の奥の、庭へ続く小さなアーチに目がいった。先生は旦那さんの庭だといって、家に入っていった。

「お邪魔します」大翔は扉に向き直ってゆっくりと閉めると、「はい、どうぞ」と、先生は玄関で大翔を出迎えた。

沓脱石の使い方を教えてもらい、あがかまちから靴を揃えようとした時だった。先生が突然、大翔に言う。

「まあ、いけないわね。泥のついた靴は」大翔はビクッとする。靴底の縁から上に向けて、少し泥が跳ねていた。咄嗟に小さな言い訳をする大翔に、先生は静かに首を振った。

「人の家を訪問するときは、よく靴を磨いた方がいいわ。足元を見られるの。あなたに値段をつけられるのと同じなのよ」先生はユーモラスに言う。

原田先生──原田奈緒なおは礼法の教諭で、所作には厳しかった。高校時代と変わらない先生の言葉は、ふしぎと素直に聞けた。

先生の家は少し変わった造りだった。外は洋風、玄関は和風、廊下はフローリング。それに、ほのかにまきの燃えた香りがする。

にゃー……。
突然、頭上から猫の甘い声がした。大翔が階段を見上げると、毛の長い大きな黒猫が、仁王立ちのように気高くスンと澄ましている。

「カラダと声が一致しないでしょ。誰が来たか確認しているのよ、でも臆病だから降りてこないの。さ、どうぞ」北欧風のリビングに通され、ダイニングチェアを軽く引いて大翔を促すと、先生はキッチンへ入った。

陽の当たる窓辺にはキャビネットが並び、ストックのプランターに咲いた白い花が、春のほのかな香りを漂わせていた。その下には卒業生用の和紙の花飾りコサージュが入った紙袋が置かれ、部屋の隅には登山用の古いザックがある。

大翔はそれとなく、キッチンにつながる壁の小さな暖炉に目がいった。暖炉の奥に残った煤の香りが、昔の名残のように漂う。
「もう何年も点けていないのよ」と先生は呆れて笑った。

「主人に声をかけてあげてもらってもいいかしら?」キッチンから顔を出して、先生が言った。

大翔はご挨拶を忘れて座りかけたと思い、下ろしかけた腰をもう一度上げた。先生が指したのは、和室にある小さな仏壇だった。

リビングから和室へ行くと、少し温度が下がる。
壁の大きな額縁には、登山の写真がいくつも飾られていた。
旦那さんと、高校生くらいの──生徒さんだろうか。先生と家族の歴史が刻まれたこの部屋は、どこか温かい空気が流れていた。

異国のお茶会

仏壇に手を合わせている間に、先生は「ありがとうね」と言いながら、大翔が希望した紅茶を淹れた。飲み慣れない大翔が、思い切り砂糖とミルクを入れると、先生は穏やかに笑い返す──他愛もない話に花が咲いた。

「それで、三上さんとはどうしたの?」
高校時代の話が尽きた頃、先生は大翔に尋ねた。話し終えた大翔に「なるほど」と頷いて、「とっておきのお茶がある」と席を立つと、再びキッチンへ入った。

手持ち無沙汰になった大翔が何気なく部屋を見渡すと、窓辺のキャビネットの端に、埃をかぶった登山の小物を見つけた。まるで、そこだけ時間が止まっているようだと、大翔は思った。

先生はふしぎな箱を持って戻ってきた。

「先生、これは……?」
大翔は小さな茶器の乗ったお盆と、スリットの入った竹の箱を指した。

「これはね、中国のお茶なの。おもしろいでしょう?」
先生は母親のような笑顔で言った。

小さな急須と、いくつかの小さなカップ。
大翔は先生の所作が不思議でたまらなかった。

茶海に茶壺を返すと、緑茶に似たいい香りが立った。
急須が逆さになって壺に入るような格好がなんとも言えない。

ふいに先生の手先に目が留まる。
少し血管の浮いた薄い手と、節の目立つ細い指、その手には大き過ぎる傷だらけの大きな時計──先生のシンボルに憧れて、大翔も時計を購入していた。

年齢を重ねた先生の手から生まれる所作は、ふしぎな温もりが漂う。大翔は、まじまじと眺めてしまう。

茶海から聞香杯にお茶を移し、そのお茶を茶杯に移すと、先生は小さな器を大翔に手渡した。

「これは、香りを楽しむための器なのよ」
聞香杯──細長い小さな器──を、大翔に手渡した。大翔はそれを受け取って、そっと鼻に近づけた。

上品な香りが、祖母の家で出されるお茶に似ていると思った。でもどこか違う。先生は中国の緑茶だと言った。

茶杯に先生のお茶が入ると「いただきましょう」と言って2人のお茶会が始まった。

黒曜石にあたる光

三上のことを話し終えて、先生はひとこと言った。

「同僚としては満点ね。でも、異性としては零点。落第よ、新羽くん」
先生は楽しそうに笑って、二煎目を淹れた。

「きみのいい所ってどこかしら」先生は徐ろに尋ねた。大翔は少し狼狽える。

「ええ…と、粘り強い、意志が強い……」そこまで言って、先生は大笑いしながら、制止した。

「それじゃ会社の面接じゃない。そうじゃなくて、魅力よ。三上さんはあなたのどこに惹かれたの?覚えてない?」大翔は茶杯をテーブルに置いて顎に手を当てた。

「その華やかさよ」
先生は意外な言葉を口にした。
「ええっ?!」大翔は驚いて声が裏返る。

「人の気持ちを考えて動ける人。彼女たちのことをよく見ていると思ったわ」先生は続ける。

「男の子たちは、先輩や友達同士から学ぶことが多いでしょう?でも、女の子は親や先生、相談できる相手、自分を映す “鏡” が必要なの」

先生は、茶杯をくるりと回し、絵柄をそっと眺めていた。その手が、熱を帯びた茶器の滑らかさを確かめるように、愛おしそうに包み込んでいる。

「相手を見ながら徐々に仲良くなること。乱暴に話さずに、一人一人と向き合ったこと。それが、彼女たちを安心させたの」

「安心は、存在を認めてくれるってこと。
“ここにいてもいいよ” っていう思いが、信頼につながる。

勝ち気で、ストイックで。
でもそれを楽しそうに、笑顔で。なぜか人を惹きつけてしまう──。

それがあなたの魅力ね。だからあの子達、あそこまで頑張れたんじゃないかな」
先生はアルバムをめくるように話した。

──あなたが灯した闘志、灯りでしょう?
大翔は照れくさくて、俯いて聞いた。

「一緒に試合をしたり、大会に出たり。新羽くんもイキイキしていた」

「彼女たちに根気よく接して、信頼を積み重ねてきた粘り強さ。そこまで言えたら60点ね」先生は笑う。

──生徒という光に照らされているのは、わたしたちの方なの。
大翔はドキリとした。

「守らないといけない、優しくも曖昧にもできない。彼女の将来を思って厳しく言った。これからの人生を、安全に進めるように。違う?」

「はい…」大翔は小さく頷いた。でもどこか納得がいかなかった。

大翔が視線を落とし、言葉を失くしているその沈黙を、先生は壊さないように、けれど自分に言い聞かせるように言葉を継いだ。

「生徒と線引きをすることは大切よ。でも……ちょっと、言い過ぎたかしらね」

先生の指先が、わずかに躊躇ためらうように茶杯をなぞる。その仕草に、彼女もまた正解を探して彷徨さまよっているような、微かな揺れが見えた気がした。

大翔は小さくため息をついて、冷めた聞香杯を手にした。
香りは立たなくなっていた。

「新羽くん。今日は三上さんの話じゃないでしょう?」
原田先生は落ち着いた表情で、伏せた目線をゆっくりとあげた。その瞳は、先ほどまでの教育者の厳格さを片隅に置いたまなざしだった。

「三上さんのことは終わったこと。忘れましょう?」

「でも……」

「どうしてそこまで言ったのか。わけを聞かせてもらってもいいかしら」先生には適わない、と大翔は小さくため息をついた。

「ひょっとして、誰か好きな人でもいるの?」目の前の先生は、1人の女性の顔だった。給湯室の先輩の顔で、お茶を口にしてクスクスと笑う先生は、礼法の原田先生ではない、この家の奥さんの顔が少し垣間見えた。

運命の人

大翔は年末にサワコという女性と知り合ったことを話した。
年上で、落ち着いていて、会ったのはそれきり。

連絡先も、年も知らない、ほんの数時間だけ話しただけの人が、なぜこうも気にかかるのか。自分でも分からずにモヤモヤとしていた。

「新羽くん、わたしの話をしてもいいかしら?」
大翔は「もちろんです」と言って、先生の言葉を待った。

「わたしの主人はね、あの通りもういないの」先生がザックのある部屋の隅に目線をずらした。「あ……すみません……」大翔は動揺する。
先生は首を小さく横に振って「大丈夫よ」と言って続けた。

「そこにあるザック、それは主人のものなの。古いでしょう?」

先生はご主人が登山の事故で亡くなったこと、教員だったこと、プライベートだったことを話してくれた。

「休みの朝に出発して、それきり。
前の晩までは普通に話していたけれど──びっくりしたのよ?」

「それに、わたしの主人は15歳年上でね、結婚には父が猛反対。生命保険を掛けろって、大騒ぎ。失礼しちゃうわよね」先生は屈託のない顔で笑う。

「娘は結婚して家庭を持って、息子は海外に勤務していて、今はわたし1人でこの家に住んでいるけれど、仕事に夢中になっていると気が紛れるのよ」

「すみません、俺、何にも知らなくて……」先生は小さく首を振る。

「でも、いまでも主人が家にいるような気がするの」
先生は思い出を辿るように部屋を見回した。大翔は、部屋のあちこちにある登山用品──マグカップ、カトラリー、本、写真、釣り道具……旦那さんの好きなものがそのまま並べられていることに気づいた。

「この家に来て分かったと思うけれど、変わっているでしょう?
西洋と、日本と、色んな物が混じって。全部、主人の趣味なの」
あとでお手洗いに行ってみてね、きっと驚くから。と言って先生は、続きを話し出す。

「この時計も、主人のものなの」先生は愛おしそうに、左腕につけたアウトドア用の大きな時計を、右手で優しく撫でた。

「この傷を見て、ガサツな人、ものを大事にしない人、色んな見方ができると思うけれど、事故の時にできた傷なの」時計には大きく斜めにこすれた傷があった。

「これを身につける人の “姿勢” が、身につける人をよくも悪くも見せる。わたしはこれがあるから、辛い時でも仕事をがんばれるの。お守りみたいなものかな」

「ねえ、新羽くん。宝石は、1人では輝けないでしょう?
誰かが磨いて、磨いて、小さな傷をたくさんつけて──。
その磨き抜かれた光が、新羽くんの持つ “輝き“ なんじゃないかな」
大翔は胸の奥で何かが動いた気がした。

「大切な人を失うとね、言葉の重さが変わるの。だからわたしも、さっきは厳しく言っちゃったのかもしれないわね。ごめんなさい」
先生はおどけて自虐混じりに笑う。大翔は半分だけ笑って、小さく首を振った。

「あなたのその時計も、型落ちしてもずっと使うとかね」大翔は先輩の影響で買ったスマートウォッチが、急に気恥ずかしくなった。先生は大翔を見透かしたように言う。

「最初は真新しくて背伸びをしたように見えても、毎日命を吹き込むことで、あなたの味になっていくのよ」先生はふっと、穏やかに笑った。

大翔の黒曜石が、淡い光を返した。

ひと粒の宝石

「その…サワコさんという方は、新羽くん人生の最初にともった光、朝日のような人なのかな」大翔は茶杯を置いて、原田先生に目線を上げた。

「こういう人を大切にしたい、この人の未来を壊したくない。だから、三上さんにも厳しく言っちゃった。どうかな」

「生徒に曖昧な態度を取るのは裏切りになる。甘い言葉では軽薄で、逃げれば追われてしまう。逃げずに前を向いて断るのが優しさだと思った。サワコさんより若い人に、ちゃんとした態度を取りたかった」

原田先生の言葉に、目頭が熱くなって、大翔は思わず上を向いた。

「わたしたち教員は正しいことを言うのが仕事でしょう?
でもね、正しいことってね、人を黙らせるの」
先生はそう言って、少しだけ苦いものを飲み込むように目を伏せた。

「正論は人を育てるけれど、同時に人を傷つけるのよ」
先生は左手の大きな腕時計の、傷の入った文字盤に触れた。まるで自分を抱きしめるように、壊れないように。大翔は胸がぎゅっとなった。

「三上さんが何も言えなくなったのは、あなたが強かったからじゃない。
 “正しすぎた” のよ。

人ってね、正しさよりも、寄り添われた記憶で変わるの。建物みたいに、形の決まったものに造り上げるわけじゃないのよ。

それに…あなたという原石だって、叩けば割れてしまう。でも、磨くから光るの」

「あなたはまだ若い。でもそれは未熟さではないの。
彼女がもう取り戻せないものを持っているあなたは、彼女の力になれる」

「あなたが夢を持って、只管ひたすらに努力をする姿を見せることが、彼女の生きる糧になる。応援したくなるの」

「自分の弱さがあらわになるほど心が動いたのなら、動いてみてもいいんじゃないかしら。あなたがこれから選ぶことは、これからの生きる軸になる。相手の未来を壊したくない、でも自分の気持ちも大切にしたい」

──それが、あなたにとっての、人を愛する「形」なんじゃないかしら。

「三上さんは卒業まで我慢して、今の気持ちをぶつけてきた。それは彼女の成熟、今のベストね。
でも新羽くんは教員としての立場と、いまの仕事での立場がある。
三上さんもいずれ社会に出れば、あなたの気持ちがわかる日が来る。
彼女の未来を、彼女自身に託したのね。

万が一、悪い噂が立てば、あなただけじゃなく学校や他の教員、生徒、卒業生たちにも迷惑がかかる。そう思ったんでしょう?」

大翔の鼻が赤くなる。堪えきれずに下を向いて、か細い声で「はい……」と答えるのが、やっとだった。

「だから、同僚としては満点よ。お疲れさまです、新羽先生」

先生の声は、春の風のように柔らかかったけれど、迷いの中にいた大翔の背中を、たしかに明日へと押し出す強さを持っていた。
大翔はコクコク、と何度も頷いた。

「それにね……満点は長くは続かないものなのよ?」先生は笑った。

「いまは会社員。そんなに背負わなくて大丈夫。ね?」

「はい……」大翔は照れ笑いの混ざった声で返事をした。

原田先生は、柔らかいティッシュを差し出す。大翔が思い切り鼻をかむと、先生はそっと席を立ち、しばらくしてアップルパイを持って戻ってきた。

「昨日焼いたんだけど、よかったら一緒にどう?」
大翔は何度も頷いて、何度も鼻を拭った。
先生は白いティーカップに、セイロンティーを淹れてくれた。

アップルパイの甘さと塩辛い涙が、紅茶と混ざって喉に流れて行った──

再会、もうひとりの自分

もう一度会うのも、話すのも、暮らすのもなんとでもなる。
それよりも問題は大翔の気持ちだと、先生は言った。

「新羽くん。主人はゼネコンと都庁に受かって、教員を選んだ人なの。周りは大騒ぎしたって言ってたわ」
大翔は驚きつつも、写真の旦那さんを見てどこか納得していた。

「建設会社はお給料がいいとか、都庁はちょっとカッコいいとか。勝手よね、周りって。でも、どうして教員を選んだと思う?」先生は穏やかに言う。

──生徒と、山を登りたかったんですって。

「子ども達と一緒になって、自然の中を、季節の花を見ながら、歩いて、笑って。子どもみたいでしょ」

「素敵ですね」大翔が添えた。

「夏は登山、冬はクロスカントリー。遊んでばかりよ」先生は半分呆れて笑う。

「休みの日なんてほとんど家にいたことがないの。だからよく、喧嘩もしたのよ」温厚な原田先生のイメージではないことに、大翔は喉の奥を細めた。

「生き方ってひとつじゃないんだって。主人に教わったのね。それに……」

「こんなに早くに逝ってしまうなら、誰かの選んだ道を歩かなくてよかった人かもしれない」先生は少しだけ目を伏せて、ゆっくりと話した。

「先生、俺……」大翔は小さな声で、ゆっくりと、言葉を置くように話し始めた。

「親父に勝てないのが悔しくて……無理なんです」大翔が言うと、先生は一瞬間を置いて、意外だと驚いてくれた。

「仕事や収入は大事。社会経験が浅ければ気になるのは尚更。でもそれより、もっと大切なのは……」

──あなたが彼女を、どういう姿勢で見ているかじゃないかしら。

「結婚する、子どもを持つ、そういうことは一旦わすれて、まずは彼女と会って、よく話すことじゃないかな」

「心の中に、小さな腰掛け椅子を置いてあげてほしいの、彼女の居場所。さあどうぞって」大翔は今日この家に呼ばれた意味が初めてわかった。

「先生、俺、あの人のことをもっと知りたいです。
歳が違うのは、あんまり気にしてないです。というかよく分からないです。
その……女の人とつき合ったことって無くて……」

「あと、くだらないんですけど…俺が触れてもいいのかなって……」

迷宮の出口

「触れていいかどうかは、彼女が決めることかな。そうね、2人で確かめあっていくこと」

「新羽くんにできるのは、今を生きること。
それができているんだし、誰かの生き方にも触れられる」

「……」
大翔は考え込んだ。

「大丈夫。あなたがイキイキしていること。彼女はもっとあなたを好きになる」

「お互いにばかり光を当てても前には進めないけれど、進む方向にヘッドライトを当てると、夜道でも前に進めるでしょ?」

「やり過ぎないこと。心を預ける場所がなくなったら、1人の方がいいものね」大翔は、何度も頷いた。

「ひとつ、言わせてもらうと……」先生は続けた。

「2人とも、ちゃんとしすぎていないかしら。
自分の人生を歩くこと、地に足をつけることはとっても大切。
でも、少しくらい相手に寄りかかってもいいんじゃないかしら」

「2人で生きるということは、頼って、頼られるの。逞しすぎちゃいけないのね」

先生は息子さんが小学生の頃に、お気に入りのぬいぐるみを取り上げてしまったと話した。母親としては隠したい話。教員としても絶対に誰にも知られたくないと、大翔の胸に留めて欲しいという約束で話してくれた。

先生の意外な一面に大翔は驚いた。自分の母親にもそんなことがあったのか、思い出そうとしてもよく分からなかった。

帰り際、先生は駅まで送ってくれると言ってくれたが、大翔はバスで帰ることにした。バス停まで送ってもらい、しばらく待って、バスが坂から降りて来た。誰もいないバスの中で、大翔は今日のことを振り返っていた。

先生がいうように、お手洗いは面白かった。ロココ調の白い空間に、大翔は目を白黒させた。ここだけは、主人の趣味じゃなくてわたしだけの空間にしたかった、と先生は後から笑いながら教えてくれた。

個室にはぎっしりと絵ハガキが飾られていた。全て先生の息子さんからのものだった。学生時代から最近のものまで、旅先や勤務先の近くのものが、写真と共に短いメッセージが添えられていた。

ブダペスト、マドリード、ローマ、パリ、ロンドン──。
心の旅──息子さんが歩いた道を、先生はああやって歩くのだろうか。

手洗い器の上の鏡の横に、古びたハガキが少し傾いてピンで留め、曲がった角に埃がかぶっていた。

メッセージは、きっと先生が1番気に入っているものだと、大翔は思った。

──お母さん、母の日ありがとう。いつまでも笑っててね!

少しヨレても、傾いても、それが家族の時間、歴史なのだろうと、大翔はこの家の歴史に自分の未来を重ねていた。

大翔をバス停へ送り、奈緒は帰宅した。

「がんばりなさい」
自分の声を反芻して、食べかけのアップルパイを口にした。

傍らには淹れ直したコーヒーを──夫を亡くしてから初めて、窓辺のステンレスのカップを使ってみることにした。山の味がする、と奈緒は思った。

大翔の背中がバスロータリーに降りた。
いつの間にか先生が磨いてくれていた靴の先の光に気づいて、また涙が出そうになる。

腕に刻む時間を確かめるように、ただ真っ直ぐに駅へ向かう足取りは、春の夕日を受けて、ゆっくりと、明日へ静かに踏み出した──


執筆: 2026/3/18 - 2026/3/19 <了, 約 8,700 字>


📖お知らせ(2026/3/20 夕方🌆)

・エピソードを調整しました。
・原田先生の家を描いている時に頭で鳴っていた曲→千尋のワルツ(千と千尋の神隠し)
・これ以上弄ると字数だけ嵩みそうで、やめておきます🙈

3月、忙しいですね😥
優しい時間を過ごせますように🍀

☕️あとがき

みなさん、こんばんは。長い番外編をお読みいただきありがとうございました。恐らく、過去1番長い小説となりました。違和感も含めて楽しく書けました。

原田先生のセリフは、自分の過去記事にもっと良さそうなのがありそうでしたが、今日はこれで出すことにしました。

番外編、そろそろ終えて本編に移らないとですね。
6500字程度まで、昨日書きました。最後の数段落はすぐ書き切れると思いましたが、アイデアをまとめきれず、まさかの4時間もかかってしまい、公開が遅れました🙏

学生時代のアイデアをやっと物語にしました。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。
明日もどうぞよい風が吹きますように🍀

⚜️

引き続き、よろしくお願いいたします😊

長くてすみません、ありがとうございます🙏

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久藤 あかり | はじめまして! スキ、コメントが1番うれしいです。私の記事を元にあなたの記事を書いてもらうのも大歓迎!心が動く言葉はありましたか?ご感想お待ちしています😊