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ドラえもんと心理学12 考察材料と趣旨の再掲

前章の概説

コンプレックスなど、自分の内面つまり無意識を省察することは、適応能力を回復する過程である。そもそも自我は視野狭窄で、一面的価値に固執するきらいがある。若くて精力旺盛なころにはそれでよくとも、自分のあらゆる価値観が覆され、あるいはまたはく奪される老年期には、そんな脆弱な自意識は簡単に崩壊しかねない。

わたしたち大人は、少年のび太の愚かな選択を承認することができないかもしれない。しかし、もしそれが単に無価値にしか結びつかないのであれば、『ドラえもん』という漫画はその最大の価値である「未来」や「便利な道具」というこけおどしが威力を失うにつれ凋落していったはずである。
が、科学がずいぶんと進歩した現在も、不思議とそうはなっていない。

そればかりか世代を超えて生きのび、読みつがれているのだ。

であるから、わたしたちは老いてこそ子どもに学ばねばならないのである。あらゆる適応可能性を秘めた子どもたちに。

考察材料と趣旨の再掲

 
 ところで、先に述べたとおり、わたしの考察材料は原作者が生前に生みだした作品のみに絞っています。つまり藤子・F・不二雄氏は一九九六年に亡くなっておりますので、それ以前に創作されたエピソードを収録した以下の単行本『ドラえもん』のみということです。

  小学館てんとう虫コミックス『ドラえもん』は四十五巻まで(四十五巻は一九九六年五月二十五日初版第1刷発行)

  小学館てんとう虫コミックス『大長編ドラえもん』は十七巻まで(十七巻は一九九七年九月二十五日初版第1刷発行)

 計四十五巻である単行本『ドラえもん』においては、ドラえもんたちの日常生活が描写されています。原作者は小学生低学年から高学年までに合わせて物語の展開やユーモアの水準、登場人物の成熟度や特性まで微妙に調整していますから、全体を通じてなんらかの一貫性を見いだすことは少々困難かもしれません。

けれどもこの一貫性というものが曲者です。一貫性や整合性というものは概して主体の側の、意識態度の固着化を意味しますので、これに違和感でも認められようものなら一方的な合理化をするとか、最終的には原作者の技量に言及せざるをえなくなります。

ところが『ドラえもん』を楽しんでいる当の本人たちは、原作者の素性すら知らないのがめずらしくありません(公開された原作者の情報が、本人によるものにしろ第三者によるものにしろ、どこまで真実なものかも疑わしいところがあります)。

このことは明らかに、作品それ自体がすでに作者から解放された一つのコンプレックス、すなわち自立した心理学的価値をもつにいたったことを意味しています。これは芸術作品や文学にふつうに見られる現象です。

それゆえ原作者の技量や素性といった個人的な事柄は、本論では極力またはいっさいあつかうことがないようにしたいのです。

 また原作者が創作しつつも四十五巻までに収録されなかった逸話がありますが、これらはのちの刊行物(単行本『ドラえもんプラス』など)によって確認することができますので、考察の対象外とはしません。

 『大長編ドラえもん』の様相は、原作者の生前と逝去の後とで顕著な違いが認められます。『ドラえもん』により生ずる心的現象にのみ焦点をあてるなら、当然この違いは考察にあたり無視するべきかもしれません。わたしもいましがた根拠を挙げて、作者云々は考慮したくないと述べたばかりです。

ただし、解釈は思考の産物であるため、羽が生えるものです。ブッダやキリストに関する著述は数えきれないほどありますが、著述から彼らを無価値と解釈することも可能なわけです。

アニメーションに対する私見で先に述べたように、原作者亡きあと新たに創造された物語には想像と解釈が加えられますから、本考察では解釈の解釈という危険を回避すべく、考察材料という点では一応これを限定しようと思います。

 つぎに考察の趣旨ですが、本稿の関心事はあくまで「『ドラえもん』という作品によって人間心理に生起せらるものの熟慮」です。

なのでたとえば、未来道具の利便性や構造分析だったり、その道具の影響範囲や想定される法整備だったり、道具の適正な使用法といった問題はあつかいません。

また登場人物の系統や倫理的評価、物語の前提との整合性といったことも論じません。

『ドラえもん』という漫画は未完であります。連載当初に二十年、三十年後のことを想定して緻密な設計をおこなったとは考えられないでしょう。本作品は本来であればもっと早く終了したはずでした(単行本第六巻)。

したがって外観的な矛盾ないし齟齬というのは、登場人物の氏名や道具の機能、さらには重版後の台詞の自主規制に至るまで、いくつも指摘することが可能です。

しかしわたしたちは紙面でそれらを「現に起こったこと」として目撃したのですから、合理的観点から「はじめからなかったこと」としてあつかうのは不可能です。

なんらかの合理化も、原作者の創造性を冒涜しかねないお節介ではないでしょうか。そもそも不合理なもの、あるいは意識的態度からは承服しかねるものなら、わたしたちの周囲には山ほど見つかります。それは外環境におけるものなら自然現象それ自体であり、内的な、つまり心的なものでいうなら夢の出現およびその内容などです。

あるいはまた、自律的なコンプレックスの活動であります。自律的なコンプレックスがわたしたちの生活にどのような障害をもたらしているかは、フロイトの『生活心理の錯誤』やユングの『連想実験』などの論文で詳細に説明されています。

 自然現象や夢という現象が不合理だとか、説明されないとは現代的でないと思われるかもしれません。しかし、たとえば天気予報の的中率は完璧になったでしょうか。これまでの気象学の発達はデータの蓄積と人工衛星の助けを借りて、目まぐるしいものがあったでしょう。

けれども、再三申しあげますが、自然というものは元来背理によって成立しています。そこにはいつも二律背反、ジレンマが存在します。熱には冷があり、乾には湿があり、高には低があり、明には暗があり、というように。

ですから自然科学の宿命というのは、おそらく「解明」し続けるかぎり無限に増殖する「謎」との対面であります。「わからない」ということがわかるのみです。

(『拡張の本能――無限の可能性』につづく)


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