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ドラえもんと心理学5 普遍的な子どもの心性

前章の概説

未来からの使者であるドラえもんは、強大な潜在能力をたずさえつつ現代の平均的家庭に居候することになるが、このことで当該世帯および地域社会、ないしは全世界に相応の混乱は引き起こさない。それは彼が、社会の構成員としての関与を避け、その義務をも受けつけないからである。

このような存在は「子ども」であると評価するほかない。
そしてこれが、彼が少年のび太のみならず、主要な読者である子どもたちに受けいれられる第一の理由であると思われる。

この点、合理的観点からは当該家庭の経済事情に言及せざるをえない。
子どもがどう望もうと、義理もない一種の不確定要素を家族のひとりとしていっしょに養うのは、かなりの負担だからである。
しかしそれは論ずるに値しない、枝葉末節の問題なのである。
なぜか。

普遍的な子どもの心性

 
 「それはおかしい、自分のおかれている状況を適切に把握すべきだ」と、あくまで注意を促すようしむける大人もいるでしょう。こうした認識は、地に足のついた人間になるには多分に必要なことです。

しかしわたしは先に、子どもは自然そのものであるといいました。大人からすれば、ある子どもの潜在性などというものは知れたものかもしれません。蛙の子は蛙といいますので。

 にもかかわらず、子どもはそのように自分を規定してはならないし、そうするようにもできていないのです。子どもはまさに、自然があるがままに生長していくようにして大きくなっていきます。

はじめに子どもに対して、「うちの世帯収入はこのくらいだから、がんばったって無駄だよ」といえる親がいるでしょうか。こんなアドバイスは、適切な状況認識によって得られる利益以上の災厄をもたらします(*1)。

*1 このことに関連して、わたしにはある知人たちとの会話が思いだされる。十年ほど前、同郷出身の二人とお茶していたときのことである。知人Aの妹が学生時代にスイミングスクールの選手コースに所属していた、という話がでた。わたしもまた同じスクールの出であったので、「それはすごいことだ」と感嘆した。間近で桁違いの練習を見せられていたからである。
 が、それを聞いた知人Bの反応はきわめて異様なものだった。「そういうのって、オリンピックに出られるかもわからないのに意味あるの?」と彼はいったのである。
 知人Aは当然憤慨しながら、「出られなくてもさ、子どもの可能性に賭けたいってのは親の気持ちなんじゃねえの?」と、極力声を鎮めていった。わたしはその横で、人の親として言葉を失っていた。
 ちなみに知人Aは当時未婚で子はおらず、Bは既婚で小さな娘が一人いた。未婚の男に、既婚の男が、育児について諭されたのである。わたしがBの娘を気の毒に思ったことは、ここで隠すつもりもない。Bの気質は学生時代からなにも変わっていないが、いずれかならず妻子の失望を誘うであろうばかりか、凶兆ですらあったからだ。

筆者注(再掲にあたり加筆したもの)

 子どもが親に対して期待するのは、精神的な庇護です

願いを叶えるために必要な金銭的支出は、子どもの関知するところではありません。どこの宅配業者がオモチャを配達してくれたか、その送料は、といったことに関心がないのと同じです。

そしてオモチャは、一家団欒のなかで披露されねばなりません。こういう場合に子どもが欲するのがオモチャそれ自体にほかならないと考えるのは、大きな間違いです。

彼は最大の幸福を得るために、無意識の感覚器を四方八方に伸ばしています。それは父親と母親の無意識に触れ、感情を明敏に感じとります。

孤独の闇のなかでオモチャの箱を開けるのであれば、彼はその行為の意味がわかりません

わたしのいうことが眉つばだと思われる方は、潜在的不和を有する家庭の子どもの心理を注視されるとよいでしょう。また、親子間での夢の関与も、分析療法の臨床的事実として挙げられています。子育てが手引きどおりいかない最大の理由が、親子間の無意識の分有にあるのです。

 そしてドラえもんは、だいたいの少年少女が親にするのと同じに、「ママ」に対して食事の用意を期待します。たまには自分が作ってあげよう、という気遣いもありません!

 こう見て、ようやくわたしたちは、彼が子どもの心理に数十年ものあいだ受けいれられ続けた理由がわかるのです。彼には、子どもが友人に期待する以上の秘密がありません

 さて、彼の特性は子どもでありますが、子ども同士が必ずしも親和性をもつとはかぎりません。彼がだれにも排斥されなかった理由は、受けいれられた理由と同様に、きわめて興味深い問題だといえます。

(『愛嬌のあるまぬけ』につづく)


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