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ドラえもんと心理学11 適応能力を回復する

前章の概説

『ドラえもん』は、この作品における子どもらしい愚かな行動や選択ゆえに、大人たちの糾弾の的となってきた。にもかかわらず、それをものともせず長いあいだ生きのびてきたのである。そればかりか、親となった大人たちをふたたび郷愁にさえ誘うほどの力をいまだふるっている。

これを指して「無邪気な子ども時代への追体験願望」と冷笑したところで、なにかが解明できるわけではない。わたしたちの生活に直接作用する心的な現実として承認し、それが心の裡になにを生じさせているのか熟慮してみることは、本作品のみならず自分の人生の理解におおいに役立つだろう。

適応能力を回復する

 
 自身のコンプレックスについて顧みることは、すなわち自己省察です。
偏狭で有害なだけの自我中心性は、この過程を経て調整され、適応力を増加させます。

ツァラトゥストラにおいて、彼は己れの裡にある穢れや痴愚を追いのけようと必死になるあまり、そのようなくだらない人種ばかりが目についたのでした。彼は真昼を待望しましたが、太陽は毎日地の裏に隠れます。
前にわたしは背理こそが自然のありかただといいましたが、これを理解しなければ、わたしたちはツァラトゥストラのように自然に対する適応能力を失ってしまいます。

そんなものは、こと先進国の社会にいるかぎり不要だという人もいるでしょう。ところが人が自然に還らねばならなくなる局面がたしかに存在しますそれは老年期です

 老年期には文明社会から生産的価値を付与されませんので、ここにいたって人生は、去りゆくものどもに驚愕の眼差しを向けます。

福祉制度がどんなに整えられても、人それ自体が若返るわけではありません。外的な物だけで補強してきた人生はサイズアウトした服を脱がねばならず、若人に憧れて追えどもその足はもつれて転ぶはめになりましょう。

こういう状況だからといって生きる気力をなくしてしまう老人が、どれほど多くいることでしょう

また、老いた自分にかろうじて残された一面的価値に固執し、反対物を見つけだしては全力で糾弾せずにおかない頑迷固陋な人間も、目にあまるほどいます

 自己省察は適応能力を回復する過程です。自我と、劣等感情を含むいろいろなコンプレックスとの関係性を熟慮しなければ、たとえば諸天体の潮汐力類似の心的現象にあってわけもわからず翻弄されるばかりで、わたしたちの自我の内部は理不尽にもこねくり回され、不愉快な熱を生じ、翻弄されたあげくに最後は崩壊しかねません。肉体の活力を失った老年期ほど、崩壊は容易に起きるでしょう。

 けれども、もしわたしたちが背理に耐えられる人格を育てられるなら、おそろしい背反現象にも恐慌することはないでしょう。

ですからわたしたちは子どもに学ばねばならないのです。あらゆる適応可能性を秘めた子どもたちに。キリストもいったではないですか。「汝幼子のようにならねば」と。ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』でも同じことがいわれています。ゴーヴィンダは、ゴータマに師事せず己れ自身を見いだしたシッダールタの瞳に、老人とも少年とも思える複雑にして単純な輝きを認めたのでした。

 さて少年のび太の、洗練されていない不合理で愚かな選択が無価値にしか結びつかないのであれば、『ドラえもん』という漫画は「未来」や「便利な道具」というこけおどしが威力を失うにつれ凋落していくはずですが、科学が随分と進歩した現在も、不思議とそうはなっていません

これは人間の生涯のアナロジーであります。
若さそれ自体や、社会的信託による肩書きや借りものの知識だけで世を渡ってきた人間は、それが無情に剥奪される老年期には、用済みの謗りに憤慨しながら世を去らねばなりません

しかし世の賢者と呼ばれるような人たちは、もはや一回きりの人生を生きたとはいえず、その魂が他者に読み継がれていきます。

わたしが一見わけのわからない形而上的なことをいったからといって、宗教的な問題に発展させようとしているなどと勘ぐらないでほしいものです。
わたしはただ、本当にいいものは世代を超えて残るという当然のことをいっているにすぎないのですから。

(『考察材料と趣旨の再掲』につづく)


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