ドラえもんと心理学10 心的現実性に目を向ける
前章の概説
ドラミちゃんとは、あらゆることが可能な未来そのものである。彼女はデウスエクスマキナであり、不自然な力を行使する救世主でもある。このような存在を味方につけたとなれば、少年のび太は一夜にして世紀のラッキーボーイとなったことであろう。
ところが彼がドラミちゃんを選ぶことはない――
心的現実性に目を向ける
少年のび太の、この選択に対しては、世の中の大人がさんざん「だから愚かなのだ」とか、「甘えだ」とか、「この漫画はだから教育によくない」というふうに批判し続けてきました。
こうした批判の正当性について検証することも、やはり本稿の関心事ではありません。ただし、不自然に合理化されてしまった短絡主義の大人の意見が本作品に向けられるとき、それがまったく的外れである可能性が大きいことについては、本稿の最初に述べたとおりです。
それよりかわたしたちは、この漫画が一部の大人の強力な意見を物ともせず生きのびてきたどころか、子育てする時期に、里帰りするようにわたしたちの心を郷愁へと誘うことのほうを熟慮すべきでしょう。
いわばこれは、対立物に対する強力な誘引なのです。
おおよそ、どの世代の子も『ドラえもん』には夢中にさせられています。子をもつなどのきっかけで、大人もふたたびこの普遍性に回帰します。
この現象を「愚か」だとか「退行」だとか「未成熟」と断定し、足早に背を向けても、それでなにかが根本的に解明されたわけではないのです。
このような態度は、現代精神医学が数多の精神病名を創作し、急ぎ足で仕事を進めてきたのと非常によく似ています。
与えられた結論に当てはめるためだけにこしらえられたチェック欄をいくら埋めようが、――この場合は「ドラえもんをおもしろがること」という項目にチェックが入るでしょう――わかるのは、その結論というものに妥当するらしいということにすぎません。
ところが、わたしたちの周囲で断定できることこそたかが知れています。一坪でかまいません、何日も何年も外環境にさらされている地面か庭があったとして、そこで営まれる自然現象についてどのていど確信がもてるでしょうか。ある年にかぎってナメクジがやたらと這いでてきたからといって、それをただ偶然だ、考えるだけむだだと切り捨てる態度は、はたして賢いものでしょうか。
自然的状態にある子どもたちは、現代の現実が示すとおり、『ドラえもん』をおもしろがります。のみならずわたしたち大人に対しても、堤を決壊させるような力をいつでも行使することが可能なのです。
ですから、父親や母親が子どもといっしょに『ドラえもん』を見ながら、子どもと同じようにでないにしろ情動的になったり、思考を揺さぶられたりしたとしても、全然恥ずかしいことではありません。
本作品には全き人間となるべく定められた少年のドラマがあり、それにともない、人間の真の認識いかんが厳しく問われています。
このことに関する鉤がわたしたちのなかにあればこそ、わたしたちは本作品にふたたび注意深く目を向けるのです。
この鉤は「無邪気な子ども時代への追体験願望」などと唾棄されるべきものではないでしょう! というのも、自然的精神は万物の萌芽でもありますから、わたしたちが意識の面で捨て去ったなんらかの別の適応可能性がそこに見いだされるかもしれず、もしそうなら、それを新たに育てあげることができるかもしれないのです。
わたしたちがすでにもっていた財産のなかで、社会適応に不要と思われる物を捨てながら高みに登っていくのは周知のとおりです。非常に聡明なわたしの知人がかつて嘆き、つぶやいたことが思いだされます。「人は生まれたときにすべてを手に入れていて、育ちながら失っていくのです」。
ですがこれもまた唯物論的な誤謬です。失われるのは外的な知覚が可能である形象にすぎません。目の前にもはやないからといって、それが永遠に失われたとどうしていえるでしょうか。それは最大の価値であれ最大の無価値であれ、永遠にわたしたちの心をかき乱すのです。
心理学的にいえば、この心的現実性はコンプレックスと呼ばれるものです。コンプレックスとは、連想実験でその存在を証明することのできる、強い感情をともなった心的な観念複合体です(*1)。
*1 コンプレックスについての概説は、『映画で見る人生2 泥酔する人の心理(酒飲みな都会の女たち2)』のコラムも参照のこと。
心という非物質的なものに現実性があるとは妙なことをいう、と思われるかもしれませんが、コンプレックスが無意識的に活動しているあいだは、そこに異様な投影がなされたり、憧憬に捕らわれたり、神経症が現れたりします。このとき自我はほとんど自分の体に対する支配力を欠いています。
つまりコンプレックスは客観的現実に作用を及ぼすので、その現実性は明らかであります(*2)。
*2 働く・作用する・影響するWirkenは「現実のWirklich」となる。ショーペンハウアーは物質の存在をこのように定義している。同様に、心的なものも現実に影響をおよぼすので、非存在としてあつかうことはできない。
わたしたち大人がふたたびドラえもんの世界に目を奪われるとき、いや、こういい換えましょう、『ドラえもん』について大人としてなんらかの評価をせずにはいられないとき、わたしたちはまぎれもなく、自律的な力である心理的コンプレックスに捉えられているのです。
(『適応能力を回復する』につづく)
