無分節と分節の"分節"を言語化するための主語的なものたちの姿とは~自己受胎する男神、隠された子ども -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(106_『神話論理4 裸の人』-3)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第106回目です。『神話論理4 裸の人1』の第一部「家族の秘密」を読みます。
前回の記事はこちらです。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。図1のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。
私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。
例えば弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。

およそ人間が、分けて、選んで、こだわろうとして、こだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)ところから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。
そして実は神話も、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
+ +
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節すること可能にしている二項対立関係の項である。
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
両義的媒介項
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。




神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。
1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが**四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)**ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
例えば、以前の記事でご紹介した話では、燻製、煮込み、串焼き、天日干しという四つの調理する動き(自然のものと文化のものを分離→結合→分離と伸縮させる動き)によって、遠/近、間接/直接という、私たちの経験的で感覚的な空間を分節するシステムを織りなす基本的な対立関係が析出される、という例が示されていた。
(遠く間接:燻製 ) 遠 (遠く直接:?? )
間接 直接
(近く間接:煮込み) 近 (近く直接:串焼き)
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。

「分けるから分かれる」 ——意味分節の起源
空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。
起源神話 —区別があること、それ自体の起源
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。
そしてこの区別が、神話では、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。
+ +
動的に伸縮する「マンダラ」のモデルを考える上で、筆者らがよすがとするのは空海が『吽字義』に記している二重の四項関係(八項関係)である。もちろん「項」の関係といっても、マンダラは所与の即自的な実体を二次的に集めてきて並べたものではない。マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たち、振幅を描くように伸縮する動きの、その述語的様相の共鳴がある。この共鳴から浮かび上がるパターンを、人間の言語の線形構造の上に写像したものが、おそらく神話の語りなのである。
神話の語りを、言語の線形構造に変換されたマンダラとして読むという試みは、レヴィ=ストロースと同じく、人類の無意識の心の動きの消息として「神話」を読み解こうとしたカール・グスタフ・ユングの思考とも共振するものになるだろう。
神話の語りを分析する
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。

以上を踏まえ、『神話論理4 裸の人』から、レヴィ=ストロース氏による神話の分析を読んでいこう。
時間も分節、空間も分節
前々回の記事で読んだように、『神話論理4 裸の人』の最初に取り上げられる神話は、人々が現に生きている経験的に今のある時間と空間の起源を語っている。
現代人はしばしば時間や空間というものは、人類にとっての経験的な意味や価値とは無関係にそれ自体としてあらかじめ「客観的に」存在しているものだと仮定して疑わないことがあるが、いにしえの神話を語り聞いた人々にとっては自分たちが生き延びるための糧を得ることができる現実の時間と空間がどのようにして発生し、その発生が反復されているか、仮にその発生が反復されなくなりそうな時にはどう調整をかけたらよいのかを考えることは、きわめて切実な課題であった。
そこで空間も、時間も(昼があって夜がある一日の時間から、春夏秋冬一年でめぐる長周期の時間まで)、もともとないところから(あるとないの区別すらあるでもないでもないところから)生じたり滅したりする動き、述語の相でもって考えなければならないことになる。
そうした時、人類は、地球上の様々な場所で、しばしばよく似た、同じような構造あるいは述語の論理を動かして、経験的に意味ある空間と時間の動的な体系を分節してきたのである。
もっとも基本的な分節の始まり〜無分節の分節をどのように言語化するか
空間や時間のような、それ自体としてあらかじめ分節済みの自明な枠組みのように思われていることさえ、分けるから分かれたのであり、分けなければ分かれない(分かれるでもなく分かれないでもない)のだとすれば、人類のリアルに意味ある世界の経験にとって、分節すること、無分節と分節を分節すること、絶-対(分節と無分節の「対」さえも絶する)無分節が分節する動きというのがいかに決定的で核心的で大問題であるのかが察せられる。
結合を分離に転じ、分離を結合に転じる、という動きを組み合わせたアルゴリズムでもって、私たち一人一人にとっての経験的に意味あるリアルな世界を分節する=意味分節する=創造する。
これが私たちの心の深みで(自覚的な意識が目覚める手前で)動いているプロセスである。
この動きの消息が目覚めた意識=理性的で分別ある意識に、風に吹かれて生じる波の紋のように、あれこれの形あるイメージを浮かび上がらせ、そしてまた消す。
目覚めた意識は、心の深みそのこと=意識において対象化されることの決してない分離と結合の伸縮する動きを、何らかの主語的実体的な存在者が動き回る姿に変換して対象化する。
この時、まさに、いまここで見ていく神話たちが用いている「家族」は、男/女が結合したり分離したり、親/子が結合したり分離したり、老/若が結合したり分離したり、そしてなにより生/死が分離したり結合したりする「家族」は、深層の分離と結合の伸縮に、表層流の表現を与えるための格好の素材となるのである。
そしてフロイト以来の無意識の心理学が問題にしてきたように親子関係、家族関係が分離と結合の伸縮の柔軟性を失うー奪われるーことは、神話の時代を遠く離れたかに見える今日現在の私たち一人一人においても、その発達、子どもから大人になるに至る過程に大きな影響を与える(トラウマ)。
今日の私たち一人一人が、自らにとっての「リアルに意味ある経験的な世界」を意味分節してゆくこと、その世界の中にあってその世界そのものではないものとしての己自身が己自身であることの「意味」を分節してゆくこと。
その時にもユングが「個性化」の象徴として論じたように、マンダラ状のイメージに象徴されるような柔軟な分離と結合の伸縮から生まれる共鳴体を響かせ続けることができるような、ある結合のモードに固着=執着することのない、またある分離のモードの固着=執着することのない、無意識それ自体である分離と結合の伸縮のしなやかさを抑えつけて固めてしまうことのない、しなやかな意識の言葉、表層の言葉、つまり日常のことば、瞬間瞬間の会話が、言葉の交わし合いが、切実に大切なのである。
神話がこれを、どのような言葉で実演するのかを見ていこう。

述語の論理を伸縮させる主語としての「隠された者」が“現れる”動きと、漁、および河川の起源
神話の語りもまた言語によってなされる以上、そこには述語だけではなく、主語的なモノを仮に立てておく必要がある。
ここで時空間の分節システムを発生させる動き、その述語的様相を担う主語として、しばしば「見えない者」であるとか「隠された者」という名をもつ主人公=主語が引き合いに出されることにレヴィ=ストロース氏は着目する。
最近の言語分類でべノ語族と結びつくとされたチャコ地域のマタコには、クラマス=モドックやボロロと同じように、「見えない者」または「隠された者」を意味するであろうタウクフワフ/tawkxwax/またはタクフフフ /tacjuaj/という名の登場人物がいる。ジェと同じように、彼らは、料理の火はジャガーから得たと語り、鳥の巣あさりのテーマを展開する部族と他神話も共有する。それはたとえば、女性の起源やヘビ女に関する神話である。
「見えない者」または「隠された者」は、「料理の火」の起源や、男/女の性別の起源、そして河川の流域の起源や、季節的に河川を遡ってくる魚の起源など、経験的感覚的に意味ある世界の基本的な分節を、もともと分節されていなかったところから分節する動きを語ろうという場合に、しばしばその主語の位置を占める。
「見えない者」「隠された者」
「見えない者」または「隠された者」は、分節云々を問題にすることが可能になる手前で、そもそもまず、
無分節 / 分節
この分節を引き開くような役割を演じる。
「隠された者」が隠されている・隠れている、ということは、つまり隠れ場所となる何かを容器として、その内部に入っているということであり、これは過度な結合の様相である。過度な結合はつまり分離していないということである。容器と中身が過度に結合したまま、区別ができないほど一体化している、無分節の様相になっているのである。
容器と中身の過度な結合とは、例えば、次のように語られる。
ここに「家族」の形象が出てくる。
過度な結合β→←β
造化の神でありトリックスターであるタウクフワフには妻がいなかったので(M、Métraux 3. p. 39-40)、彼はぺニスを自分の腕に突き立て、男の子を身ごもった、と語られる。
男神が、自分で自分の腕の中に息子を身籠る。
経験的には、性的結合からの妊娠といえば男/女の間の分離→結合→分離という伸縮の動きや、女性と胎児の間での結合→分離(出産)という、分離と結合がリズミカルに交代する伸縮の動きになっている。そこでは分離と結合はテンポ良く交代しており、つまりすでに、分離と結合が付かず離れずになっている、分節と無分節の分節ができていることになる。
ところがこの神話の場合、男神が単体で、女神と過度に分離されたまま、同じく男神である息子を身籠るという状況は、経験的で感覚的な妊娠出産の様相に対して、一方での過度な分離(女性が一切登場しない、男/女の過度な分離)と、他方での過度な結合(男性の体内に胎児がいるという、経験的に分離しているところを過度に結合する様相)が組み合わさった状況である。
この分離と結合を分離しつつ結合する、無分節と分節を分節化する述語的様相は、時間や空間といった人類にとって意味ある経験が生きられる世界そのものの分節システムを発生させる動きである。この父親によって父親の身体の中に宿された息子は、そしてこの息子と父親とが分離したり結合したりする動きを通じて、時間や空間の分節システム(昼夜の交代や季節の変化、そして上流/下流、上/下、東/西といった空間的な区別)が分節化されてくる。
この神話は次のように展開する。
[…]少年は老女によって育てられ、驚くべき漁師になった。その当時、世界中の水と魚は巨大な木の幹に封じこめられ、そこでは一年中漁をすることができた。
しかし、度を越した行動によって、主人公は神を裂き、世界中を覆う洪水をひき起こした。水に沈んでいないただ一本の木のてっぺんに彼は避難した。
最後にはこの木も水に沈み、主人公は押し流されて死んでしまった。造化の神である彼の父は洪水を吸収することに成功し、「現在ブエノスアイレスの近くを流れる川床へと」水を導いた。
季節的な漁の獲物としての魚の到来。
季節の分節、長周期で反復される二極(魚がいる/いない)の分節。
ここに、季節という時間の分節、そして魚が移動する空間の分節がはじまる。

この分節を分けつつつなぎ付かず離れずに調停するように、分離したり、結合したりする動きを語るのが神話である。
経験的な区別、すなわち、内/外、男/女、親/子、中身/容器、空間的な上/下、そして無分節/分節といった経験的な対立は、過度な結合と過度な分離との間で展開する伸縮が、次第に落ち着き、付かず離れずに定常化するところから引き開かれ、分かれてくる。
すでにみたように、クラマス=モドック神話は隠された子供と漁の起源および河川ネットワークの起源を結びつけていた。 漁はマタコの主人公によって季節的な仕事に変えられ、河川ネットワークは主人公が死んだあとに彼の責任に帰せられる。これらの特徴は、ネズパース神話ではより明らかな形をとって見いだされるが、この際、自分の肘にペニスを突き立て、受胎し息子を産む造化の神=トリックスターの物語がネズパース神話にあることに注目すべきだろう。
神話は過度な分離と過度な結合、経験的にはありえないような結合と経験的はありえないような分離を語ることで、分離と結合の過度な伸縮のモードを言語化する。
安定的に意味分節された経験的世界が、あらかじめ「ある」といえないところから、分節と無分節、分離と結合すら未だ分かれていないところから話を始めようと言う時に、男性が自分で自分を受胎させるといった、経験的にありえない過度な結合のイメージをブリコラージュして、この結合のことを言語化しようとするのである。
眼球が着脱自在?!
上の引用につづけて、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
もっと意味深いことは、この子供が父親が眼を取り戻す助けをしたことである。父親は、眼を無事に取り外しその後にふたたびはめ込めると愚かにも信じて眼を失ったのである。すでにしめしたように(『生のものと火にかけたもの』邦訳書、二七四一二七七頁)、 南アメリカにもあるこのモチーフは、眼と排泄物の対立にもとづいている。このふたつは、 身体の部分のうちで、それぞれ本来取り外すことができない部分と、目的のために取り外すことができる部分を代表している。
眼球を着脱する話も興味深い。
息子を産んだ父親は「眼を無事に取り外しその後にふたたびはめ込めると愚かにも信じて」眼球を取り出してしまい(経験的に結合しているところから過度に分離してしまい)、そうして、眼球を元の場所に結合しなおすことができなくなってしまった。
今日のような高度な外科手術が可能ではなかった古い時代の人々にとって経験的には、一度身体から分離してしまった眼球は二度ともとには戻らないはずものであった。
しかしその分離したままで決して結合しないはずの身体と眼球の間を、改めて自在に結合し直すことが、父から生まれた息子という過度な分離と結合を体現する者には可能なのである。
経験的感覚的には不可分一体の身体を引き延ばして自在に分離したり、また自在に結合したりできる姿は、両義的媒介項の典型的なあり方といえよう。
経験的に分離できる/経験的に分離できない
ここでレヴィ=ストロース氏が、「眼球」と「排泄物」を対比していることも興味深い。前者は「本来取り外すことができない部分」であり、後者は「目的のために取り外すことができる部分」である。
「取り外す」ということが、結合を分離に転じる述語的様相の転換である。
野生の思考は、人間の身体における経験的で感覚的な分離と結合の動きにも着目する。経験的には適度に分離する身体の部分を、過度な結合の様相でもって描くことで両義的媒介項(Δ→β←Δ)を作り出し、分離と結合の過度な伸縮を語ったり、あるいは経験的には一体的に結合していて分離することのない部分を、あえて分離された様相で描くことでこれまた両義的媒介項を作り出し(β←Δ→β)分離と結合の過度な伸縮を語ったりする。
「眼球」は、「本来取り外すことができない部分」であるが、これを自在に(?)分離したり結合したりできるということになれば、超感覚的な分離と結合の伸縮を意識にとってもわかりやすい言語で表現することができる。
β取り外された眼球←Δ経験的な身体→眼球を外した後の身体β
「排泄物」は、「目的のために取り外すことができる部分」であるが、これが過度に分離するようになったり、過度に分離しにくくなったりするとなれば(神話的なホエザルが樹上からフンをばら撒くというエピソードや、神話的なナマケモノのが便秘で滅多にフンを排泄しないとか…)、これもこれで分離と結合の伸縮を、幼い人類の意識にとってもわかりやすい言語で表現することができる。フロイトの「肛門期」の概念を思い出すところである。あれもまた自なるもの/他なるものをどう分離しどう結合するか、という分節の組み方のトレーニングに関わる話である。
眼球は、経験的に結合しており分離することはなく、もし無理に分離されてしまうと二度と結合することはない。
一方排泄物は経験的に容易に分離され、一度分離しても後から後から身体と結合した状態が回帰する。
過度な結合状態か過度な分離状態のどちらか一方に固まりがちな眼球。
結合と分離をリズミカルに交代させるように見える排泄物。
この二つのあり方を「仲介」するのが出産される子どもであるとレヴィ=ストロース氏は書いている。
九ヵ月のあいだ取り外すことができず、そののちその一部として統合された身体から、戻ることなく排出される子供は、それゆえに、眼と排泄物のあいだで仲介する役割を果たすことができる。これが、造化の神が彼の眼を体外に出す失敗を、自己妊娠によって子供を体内に取り込むことによって、修正することができる理由である。
出産される子どもは、「九ヵ月のあいだ取り外すことができず」つまり結合状態に長い時間固まるという点では眼球に似ているが、しかし眼球のように一生分離しないというものではなく、適切に分離できる点では件の眼球の対立物の方に似ている。つまり親の体内に宿された子供は、結合状態か分離状態のどちらか一方に固まりがちでありながら、同時に、長周期のサイクルではあるが結合と分離をリズミカルに交代させもする、と言う点で、上述の「仲介」として動けるのである。

眼、新生児、排泄物、この三つが同列に並ぶなどと言われても、訳がわからないところだと思うが、じつはこれ、主語的に見るから「眼と排泄物はちがうだろう!」とか「眼と新生児はちがうだろう!」と言いたくなるのであって、分離と結合を分離したり結合する述語的様相を見ると、
眼 →強く結合して、生涯一度も分離しないことが多い
新生児 →生涯に数回、分離することがある(女性に限る)
排泄物 →結合は弱く、日々たびたび分離する
という具合で、高/低、強/弱、程度の差こそあれ、いずれも結合モードから分離モードへ転換する「動き」なのである。
姉妹を体の中に隠し、必要に応じて取り出すコヨーテ
経験的にはありえない結合あるいは分離の様相を呈しつつも、しかし分離したり結合したり伸縮自在でもある、という述語的様相を示す媒介項は、他にもいろいろな主語的な表現を用いて神話に登場する。
例えば下記にある「必要なときに身体から排出し、その後すぐにふたたび体内に取り込む」ことができる神話のコヨーテの相談相手たる「姉妹たち」もそうである。
同じ地域にある無数の神話が三項対立の図式(※引用者注:眼 /(子供)/ 排泄物)の操作的価値を証明している。その神話は、たとえば、コヨーテは自分だけの相談相手を持っていて、それは排泄物=姉妹たちであり、助言が必要なときに身体から排出し、その後すぐにふたたび体内に取り込むものであった(後出、三一七一三一八、三七八一三八〇頁)。
これもまさに経験的にはありえない結合あるいは分離の様相です。
ちなみに神話のコヨーテは「巣あさりの父親」として語られ、「季節的周期性の創設」者とも語られる。
北アメリカの神話群でもまた、コヨーテは鳥の巣あさりの父親であり、遍歴のあいだに世界の秩序を創造する任を負っている。その仕事には特に、再生産サイクルにつながる季節的周期性の創設が含まれる。
鳥の巣あさりの父親にせよ、季節的周期性の創設者にせよ、どちも過度な分離(分離したまま固着)と過度な結合(結合したまま固着)という極端な分離と結合の様相を両極として、その間で分離を結合に転じ、結合を分離に転じるような伸縮の動きを動かし、ついには分離と結合の付かず離れずの均衡をもたらすということになろう。そういう項、両義的媒介項が、時間や空間といった人類にとって経験的に意味ある世界の基本的な分節を、そしてその手前で、そもそも分節することと分節しないこと、分節と無分節のあいだを分離したり結合したりする動き、述語的様相を担う。
隠された子供としての、喋れるほどに成長しているのに母親の胎内にとどまる子供/成長して髭が生えるほどの大人の姿になりながら、母に会いたいと泣き続ける子ども
同じように、父親の体のなかではなく、経験的によくあるように母親の胎内に宿る子どもが、いつまで経っても生まれてこようとせず、喋り始めるようになっても胎内に入ったままで居る、といった神話もしばしばある。
これも経験的にありえる分離と結合の伸縮の速度が、過度に鈍化した様相でもって、過度な結合、結合一辺倒に偏った様相を浮かび上がらせる。そしてそこからの出産により、世界の創造者、分離しつつも結合する分節システムの創造者をもたらすことができる。日本の神話で言えば神功皇后を想起するところである。
定義からして音を出さない隠された子供は、誕生ののちにすすり泣く赤ん坊に変化することがある。[…]すなわち、最初は姉たちによって隠されていた子供が解放され、恐ろしい泣き声をあげるので村全体が逃げ去ってしまうのである。彼の泣き声は姉たちの経血を目にして初めて止まる。彼はあまりの恐ろしさに走り去り、水の底に姿を消してしまうのである。
こちらも日本の神話でいえばスサノオ、そしてなかなか生まれてこなかった誉田別命(八幡大菩薩、応神天皇)のお話を思い出したいところである。
経験的にありえない長さで親の体内にとどまるなかなか生まれてこない赤ん坊も、「隠された子供」である。
そしてこの「隠された子供」は、親の体から分離された後に、過度に泣く子供、泣き続ける子供、大人になっても赤ん坊のようにずっと泣いている人物に反転することがある。泣き声というのもおもしろいもので、適度な、経験的にあり得る赤ん坊の鳴き声であれば、それは親との分離状態を結合状態に転じる作用をする。子供は泣いて親を呼ぶのである。
+
しかしこの泣き声が過度に激しいものになると、親を呼んで結合するどころか、村の人々全員を遠くに追い払ってしまうほどの分離する作用を引き起こす。
経験的には「結合する」作用であるはずの泣き声が、神話ではくるりと逆転して「分離する」作用を引き起こす。
音を出さない隠された子供 / 大きな音(鳴き声)を出す子供
|| ||
母と過度に結合 / 母と過度に分離
一方で過度な結合にあったところを、他方で過度な分離に逆転する。
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そしてこの子の大きな泣き声を止め、彼自身を経験的な生活の場である「村」の外部である「水の底」へと分離するきっかけとなるのは、「姉たちの経血を目撃すること」である。この目撃、分離しているところを結合に転じる「目撃」は、インセスト的である。そしてまた、周期的にリズミカルに姉たちの体から分離されるはずの「経血」は、大声で泣く子が母の胎内に長いこと結合したままになっていた「隠された子供」であったことと真逆に対立する。
「目撃」という分離したまま結合する述語的様相が、「隠された子供」と「経血」、前者は過度な分離で、後者は規則的な分離であるが、この二つを分離したまま結合する。
分離することと結合すること、この二つの分離するでもなく分離しないでもない(結合するでもなく結合しないでもない)モードにはいって激しく伸縮する。
「姉の経血を食物とする」などとくると、その主語的な様相に目を奪われると驚愕する方も少なくないと思われるが、ここはあくまでも動的マンダラ、分離と結合を伸縮させる述語的な様相に注目しよう。
つまりこの極めて近い=結合的な関係にあるにも関わらず、決定的に分離しておくべきもの同士のあいだで、一方の身体から分離したものを、他方の体に結合する、ということ、あちらで分離しこちらで結合し、そうして特に過度な結合状態にはいる、という動きが重要なのである。
分離と結合という対立二極もまた分けるから分かれるのであり、分ける動きの動き方次第でその位置はくるくると逆転する。
すなわち、姉の経血が、過度に結合する述語的様相を語るために利用できるということは、まったく同じように、過度に分離する述語的様相を語るためにも利用できるということである。

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ここでレヴィ=ストロース氏はさらに興味深いことを書かれている。
父親の身体に、または家族が隔離している場合には家族全体に密接に結合している隠された子供は、自分からすべての親族を切り離している泣き叫ぶ子供と、相関し対立する関係にあることを示唆しているのである。
さて、カリフォルニアの神話の泣き叫ぶ子供は経血を見ることに耐えられないのに、南アメリカの神話における隠された子供は彼自身にそれを振りかけ、ときにはそれを食物として摂取さえするのである(Wassen 1, p. 116; Rochereau-Rivet, p. 100)。この仮説のもとで、身ごもった男のテーマは、ある家族が子供を村人から隠し、隠れた場所に閉じこめ、密かに身体を洗い食物を与えるという、より一般的なモチーフの特殊な例であると考えるべきであろう。
過度な結合 / 過度な分離
この二極の対立もまた、分けるから分かれるのであり、分ける前は分かれていない。なので神話の語りが最も激しく分離と結合の伸縮をえがくところでは、同じ主人公と姉の経血の関係が、一方では過度な分離の様相を呈すこともあれば、他方では過度な結合(摂取するとか)の様相を呈してもよい。
いまここで主題になっているのは「/」の動きであり、その両側のどちら側にどちらが出てくるかは、自在に入れ替わって良いのである。
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