隠された子どもの神話~分離の述語「隠す」が絶対無分節の分節を始動する_M538アイシシュの武勲詩-レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(107_『神話論理4 裸の人』-4)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第107回目です。『神話論理4 裸の人1』の第一部「家族の秘密」を読みます。
前回の記事はこちらです。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?
仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。図1のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、
Δ1 寒い / Δ4 寒くない
|| ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない
といった具合になる。

私たちひとりひとりにとっての意味ある世界の起源
私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている。
人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている。
Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ
特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。
区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること
そして、これらの対立する両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
この対立である。この二つの動きを分けつつつなぐ、分離しつつも結合したまま動かす動きこそが、私たち人類ひとりひとりにとっての経験的に意味ある世界が生成してくるプロセスのもっとも基本的なアルゴリズムであると考えられる。
マンダラ
そしてこの分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。
例えば弘法大師空海は『吽字義』で、
因 / 果
有 / 無
損減 / 増益(生/滅)
我 / 非我
という四つの分別・二項対立と、
因/果を分けるでもなくわけないでもない
有/無を分けるでもなく分けないでもない
損減/増益(生/滅)を分けるでもなく分けないでもない
我/非我を分けるでもなく分けないでもない
という四つの分けるでもなく分けないでもない分別無分別どちらか不可得なモードとを二重化した心のモデルを示している。

およそ人間が分別(分けて、選んで、こだわろうと)して、しかしこだわりを貫徹することができずに苦しむ(選んで結合しようとしたものと分離されてしまう、分離しようとしたものと結合されてしまう、ということで人は苦しみ、迷うのである)、この苦しみから抜け出すために、仏教はここでいう四つの不可得、分けるでもなく分けないでもない、つまり「空」ということを覚るべしと教えるのである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない人間の表層の分別心を分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、というモードに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。特に密教ではこの分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもないモードに転換された心のあり方を「マンダラ」状のモデルとして説く。

ここで、人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しみむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
この伸縮自在なこころの深み動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
*
神話や夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。神話は、仏教が色即是空空即是色、一切皆空といった言葉で解こうとしたのと同じことを、別の言葉で、別の述語と主語で為さんとしているのである。
夢や神話の語りに現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行に(知らず知らずのうちに)なる。
前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
この神話と仏教、一見するとまったく別の叡智にみえるもの同士に共通するアルゴリズムをモデル化しようとするときに、役にたつのが「マンダラ」である。
+ +

マンダラは分別を緩め、絶対無分節が分節するでもなくしないでもないゆらぎのモードに転換された「心」(三昧耶モードに励起された「心」)の象徴である。
マンダラ
この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。
マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。
図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節すること可能にしている二項対立関係の項である。
一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする。
両義的媒介項
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そのために、まず分別/無分別の区別を区切り出すところから始める。
分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きを考える。

神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動
神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。
2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。
4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが**四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)**ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「伸」の方に、「||」は伸縮の「縮」の方に対応する。
この分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。
例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。

「分けるから分かれる」 ——意味分節の起源
空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない。
このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。
起源神話 —区別があること、それ自体の起源
神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。
例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。
A / 非-A
こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。
そしてこの区別が、神話では、
結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き
という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。
+ +
動的に伸縮する「マンダラ」のモデルを考える上で、筆者らがよすがとするのは空海が『吽字義』に記している二重の四項関係(八項関係)である。もちろん「項」の関係といっても、マンダラは所与の即自的な実体を二次的に集めてきて並べたものではない。マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たち、振幅を描くように伸縮する動きの、その述語的様相の共鳴がある。この共鳴から浮かび上がるパターンを、人間の言語の線形構造の上に写像したものが、おそらく神話の語りなのである。
神話の語りを、言語の線形構造に変換されたマンダラとして読むという試みは、レヴィ=ストロースと同じく、人類の無意識の心の動きの消息として「神話」を読み解こうとしたカール・グスタフ・ユングの思考とも共振するものになる。
神話の語りを分析する
私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている。
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。

以上を踏まえ、『神話論理4 裸の人』から、レヴィ=ストロース氏による神話の分析を読んでいこう。
隠された妻の神話
「M660a クリキタット 隠された妻」という神話をみてみう。
昔、ワシと弟のスカンクがいた。
ワシは狩りばかりしていた。
ひとりの女がやってきて、スカンクは彼女を隠した。
兄は夜に帰ってきて、家に肉を置き、一晩中眠った。
暗闇のなかでスカンクは妻と語り合った。
朝が明けてくると、兄は目を覚まし、なぜ弟が暗闇で笑ったり話したりするようになったのかいぶかしく思った。
弟は 「ハッカネズミがやって来て、僕の顔の上を走ったから(または、僕の直腸を噛んだから)、僕は笑うんだ」と答えた。
この神話の冒頭、兄弟が二人だけで暮らす、という述語的様相は、経験的なペアであるΔ兄とΔ弟が、他の人々から分離する一方で、二人だけが結合するということで、相対的に過度な結合關係を作り出している。
兄Δ→β←Δ弟
この経験的に区別される対立関係にあるΔ二項(この場合は兄と弟)を過度に結合するような述語的様相を展開することで、いわばその二項の間の隙間を(他との対比において相対的に)埋めることで、神話はその隙間自体を両義的媒介項に変容させる。
*
つぎに、この兄/弟のペアと並行して、もうひとつのペアが登場する。
弟スカンクとその妻がおりなす、夫/妻のペアである。
兄/弟
|| ||
妻/夫 夫/妻
そしてこの兄弟のうちの一方(この場合は弟)が、同時に夫婦のうちの一方でもある、という関係から、「弟=夫」という関係から、夫/婦と兄/弟という二つの対立関係同士が関係づけられることになる。
+ + +
ここで弟は、自分の妻を、兄に見つからないように隠す。
もともと、兄と弟は、過度に結合して二人でひとつのようなあり方であった。もしこの状態のままひとりの女性と共に暮らしてしまうと、この女性は同時に兄の妻でもあり弟の妻でもある、というあり方になるだろう。そこではものごとの区別がなくなってしまう。
そこで「隠す」という述語を通じて、分離しているべきところ(区別されているべきこと)と結合しているべきところ(区別されないこと)の“区別”が、分節が、区切り出されるのである。
神話は区別の始まり、区別の起源、意味分節・存在分節の起源を語りたいのである。
区別なく、ものごとがすべて混じり合っていました、というだけでは分節の起源を語ることはできない。
そこでもともと過度に結合していた兄弟の間を、強く分離するような述語的様相を語り出す。その強く分離する様相が、この場合ではすなわち、弟が自分の妻を隠して、自分の兄に見つけられないようにする、ということである。
弟とその妻は、付かず離れずの距離感で結合している。
この妻を、兄(妻からみれば義兄)に見つからないところに隠すことで、義兄と弟の妻との間は過度に分離される。このおかげでもともと過度に結合していた兄弟の間にも、距離が開くことになるのである。兄に対して秘密をもつ弟は、兄との関係を付かず離れずに程よく分離した距離に落ち着くのである。

隠された妻・隠された子供
「隠す」という述語は、ある項を、経験的に付かず離れずのペアをなすように結合しているところから過度に分離して、逆に経験的に適度に分離しているべきところと過度に結合するということである。
述語「隠す」は、ある二つの経験的な対立関係(例えば夫/妻、親/子)があるときにに、一方の対立関係におては過度な分離を開き、他方の対立関係においては過度な結合に閉じる、という様相を呈するである。
この分離と結合の伸縮は、ほかでもない、この二つの二項対立関係のペアである四項関係が、付かず離れずに均衡していない状態を表現するために用いられる。
そしてこの「四項関係が、付かず離れずに均衡していない状態」こそ、経験的に意味ある世界を意味分節・存在分節する最小構成単位である四項関係の起源を語ろうという時に、これが起源するに至る経緯を言語化しうる唯一の姿なのである。
→ ←
↑ ↑
↓ ↓
→ ←
↓
Δ = Δ
/ /
Δ = Δ
この神話、夫と妻の結合すなわち婚姻関係に注目して兄と弟を比較すると、兄は妻と分離されたままであり(結婚相手がいない)、弟は妻と結合している。
兄/弟
|| ||
妻/夫 夫/妻
|| ||
分離状態にある / 結合状態にある
兄と弟が、一方は分離の述語的様相にあり、他方が結合の述語的様相にある、という対立関係に入ることで、分離することと結合すること、この二つの述語的様相の区別、対立関係が際立つのである。
分離 / 結合
言い換えると、
分節 / 無分節
この分節と無分節、分離と結合を分けつつつなぐこと(分離するでもなく結合するでもないところから分離と結合を区別する)ことこそが、ありとあらゆる分節システム、二項対立関係にある二項を分けつつつなぐことが論理的に可能になるために、最初に必要なアルゴリズムである。
この神話、弟が、同居する兄に隠れて、自分だけガールフレンドと仲良くするというお話は、実は、人類が経験的に意味ある現実世界を意味分節することを可能にする、分離と結合を分離しつつ結合するアルゴリズムの起源を語り、無意識裏に意識化させているのである。

+
同じく、「M95 トゥクナ ウマリの実の少女(『生のものと火にかけたもの』邦訳書、二四八―二四九頁)」もまた、隠された妻の神話である。
兄弟のエビの知らぬ間に、ジャイは奇跡によって彼のもとに現われた少女を妻にした。
彼は彼女を手の掌に巻きこんで小さくし、彼の骨の笛の中に隠した。
四日のあいだ、夜になると少女を笛から連れ出してハンモックに連れていき、音を立てずに彼女と楽しんだ。
五晩目に、彼女は笑い声をあげ、腕輪のちいさなカタツムリの殻がチリンチリンと音を立てた。
エピはすぐに尋ねた。
「兄弟よ、誰とおまえは笑っているんだ?」
「誰とも」
とジャイは答えた。
「僕がくすぐったから、箒が笑ったんだ」
これもなかなかおもしろい話である。
エビとジャイという二人の男性、兄弟が登場する。
どちらが兄で、どちらが弟だかはここに引用した文だけではよくわからないが、どちらでも述語の論理は成り立つのでどっちが弟(兄)であるかは気にしなくて良い。
ここでも兄弟が、まず冒頭、二人だけで暮らしていたらしいことがわかる。
兄Δ→β←Δ弟
この二人、経験的には付かず離れずの二者関係であることろを過度に結合した様相のもとへ、一人の少女が現れ、そして兄弟のうちのひとりがこの少女と結婚し、もう一人は結婚しない、と言うことになる。
不可分一体のようになっていた兄弟が、一方は妻と「結合している者」になり、他方は妻と「分離している者」になる。
分離していること と 結合していること
この人類にとって経験的に意味ある世界の時空間を分節する基本的な分節システムをそもそも可能にするもっとも基本的な分節、分離と結合を分けることが、この「隠された妻」の神話ではおこなわれている。
**
星の妻
さて、レヴィ=ストロース氏は、この「隠された妻」がしばしば「星」として語られることを指摘する(p.40)。
ここで「星」というのは、夜空に見えるあの経験的で感覚的なΔ星が、人間の女性に変身するなどして天上から地上に降りてきて、人間と夫婦になった星である。
地上に降りた天上の星は、つまり天/地という経験的に付かず離れずに分離した二極の間を過度に結合したあり方である。
Δ天 → β ← 地Δ
Δ妻 → β ← 夫Δ
星の妻と人間の男との結婚は、経験的によくある人間同士の結婚に比べると、はるかに遠く分離したところを結合に転じた関係である。人間どうしの結婚に比べると、天体と人間との結婚は、過度な分離から転じた相対的に過度な結合なのである。
+ +
この点で地上に降りた天上の星と、二人だけで暮らす兄弟は、どちらもΔ→β←Δという述語的様相、つまり二つの経験的で感覚的な項(Δ)のあいだの距離感を、他の諸々の対立関係に対して相対的に過度に結合した述語的様相にある両義的媒介項なのである。

そしてさらにのレヴィ=ストロース氏は「巣あさりの物語の変形である北アメリカの神話において天文学的意味が保持されていること」にも注意を促す(p.44)。
「巣あさり」、つまり地上から天高く聳える樹上に持ち上げられ、降りることができなくなって空に取り残されてしまう主人公の述語的様相もまた、地上に降りてきた天の星と同じように、天/地の経験的対立の二極を短絡し過度に結合したものであり、この分離と結合を経験的な様相とは異なるモードに変容させる動きの動き方においては、どちらも同じである。
隠れる・隠される
続けて『神話論理4 裸の人』の45ページから、第一部「家族の秘密」の第二章「狂った女と賢い女」を読んでみよう。この巻の(この巻も?!)衝撃的な目次が続くが、ことごとく、その主語的様相に驚きつつも、迷うことなくすみやかにその述語的様相、分離と結合の伸縮する動きへと意識を転じることに精神を集中しながら読んでいきたいところである。

ここまで、兄/弟、天/地という経験的に付かず離れずの関係にある二極が過度に結合された様相を見たが、次に取り上げる神話群には兄/妹、や、姉/弟の過度な結合、すなわちインセストタブーの侵犯を語る神話が登場する。
「M538 アイシシュの武勲詩」という神話をみてみよう。分離と結合の伸縮が実に見事な神話である。
M538 クラマス アイシシュの武勲詩
昔々、たくさんの子供をもつインディアンの女が住んでいた。
ひとりだけが女の子で、長い赤い髪をしており、 ゴワスディ地域[アッパー・クラマス湖の北東にある場所(Spier 2, p. 16, Barker 1, p. 96; 2, p. 158)]の方の誰かと結婚した。
しかし、彼女はしばしば家に帰ってきた。
なぜなら、彼女は末弟を愛していて、彼に送っていってもらいたいといつでも言った。
*
ある時、彼らは途中で一晩キャンプしなければならなくなった。そして、女は眠っている弟のかたわらに滑りこんだ。
弟は目を覚まし、姉が自分の隣にいるのを見てショックを受けた。
「なんて愚かなのだ。実の弟の妻になりたいなんて」
彼は音をたてずに起きあがって、木の大枝を自分の代わりに置き、村に帰った。何が起こったか母親に話すと、母親はひどく悪いことが起こると予想した。
<つづく>
とても長い話なので、細切れにしながらみていこう。
冒頭、「たくさんの子どもをもつ」女性が登場する。
もちろん神話的な女性、要するに神である。
この女性の神にはたくさんの子どもがいる。
この「たくさん」というのがβ伸縮の図で言えば、
β
β β
β
という具合に、経験的には互いに分離され区別される物事が、ぎゅっと集まって、どれがどれがか、区別がつきにくくなっている様相をあらわす。
この神話でも、このたくさんの子どもたちは、一人を除いて全て男の子であった。
ここで、女の子がただ一人だけいる、というところに注目しよう。
図で表現すると次のような具合だろうか。
男 男
男男男
男男男 ーーーーーーーーーーー 女
男男男
男
経験的に、男/女 の区別の両極は、概ね同じくらいの人数がいる。
ところがこの神話の冒頭では、「たくさんの子どもたち」は男子ばかりで、女の子は一人だけ、ということで、その人数がアンバランスである。この経験的に同じくらいの数に均衡する男女をあえて多/一の対立関係に重ねることで、神話は下記のようなモードを表現していると言えるだろう。
β
β 男の子どもたち ーーーーーーー→ β娘
β
この関係において、一旦兄弟たちと分離した(「誰かと結婚」した)はずの娘が、頻繁に兄弟たちのいる実家、「家に帰ってきた」という話になる。
β
β 男の子どもたち ← β娘
β
しかも、ここで「末弟」と姉とはインセストタブーを侵犯し「結合」する。
β末弟←β姉娘
ここで実に細かく描写されているように、この結合は、姉娘が一方的に結合に向かったものであり、末弟の方は知らぬ間に結合されていた、という関係になっている。末弟は自分の身に起きたことに驚き、姉を一人放置して、自分は家に逃げ帰る。
分離が結合へと転じたところが、すぐにまた分離へと急激に転じる。
β姉娘 / →→→→→→→→→ β末弟
主語的様相が読み手・聞き手の第七末那識(感情)の受け入れ得る/受け入れ難いの分別を強いてくるが、その分別を一旦保留にして、述語的様相のみに、分離と結合の伸縮、分離から結合へ、結合から分離へのモード転換という述語的様相のみに着目してみると、まさにマンダラ状の均衡へと向かう動きが開始されていることがわかる。
さて、続きを見てみよう。
<つづき>
女(姉弟の姉の方)が目覚めたとき、太陽はすでに高かった。
置き去りにされたことに怒って、彼女は大火事を起こし、火は燃え広がって兄弟たちもその妻たちも焼き尽くした。
しかし、害を与えないと決めていた母親は焼かなかった。
*
*
灰のなかを捜しているとき、老女(姉弟たちの母)は嫁のひとりであるマキバドリの死体を見つけた。
マキバドリは妊娠していて、 腹を白の下で守るように気をつけていた。
火によって穴をうがたれた背中から、義理の母親は男の子と女の子の、 ふたりの子供を取り出した。
女の子がその邪悪なおば(大火事を引き起こした当人)のようになることをおそれ、子供たちを樹脂でくっつけ、 頭がふたつあるひとりの男にした。
そして、彼女は男の子に、けっして屈んで自分の影を見ないように、また空 に矢を打ち上げないようにと助言した。
+
+
(二人で一人の)子供は成長し、何か秘密があるのではないかと疑い始めた。
鋭い鳴き声をあげる鳥フタオビチドリ(Charadrius vociferus) に促されて矢を空に向かって射た。
矢はまっすぐ落ちてきて、子供をふたつに裂いた。もうひとつの頭を見たことがなかった少年は、少女がかたわらに立っているのを見て驚いた。
そして彼女は、自分は姉妹だと明かした。
彼らが家に戻ったとき、祖母は起こってしまった事実を認めるしかなかった。
<つづく>
さて、姉娘は末弟によって「置き去り」にされたことに怒り、「大火事」を引き起こす。神話における大火事は大洪水と同様に、全てを焼き尽くし物事の区別された相を不明にしてしまう、分節を無分節に、分離を過度な結合に転じる動きである。
この大火事を、子どもたちの母、姉娘と末弟の母は生き延びる。
そうして焼け跡に横たわる「マキバドリ」嫁の体から、男の子と女の子のふたりの子供(孫)を助け出す。

さて、ここで祖母が男女の孫二人を育てる、という関係が出来上がる。
祖母による子育ては、現代社会でも現実によくあることで、いったいそれがどう神話的に特別な意味をもつのかがいまいち不明であるが、それは経験的な分離(祖母と、娘あるいは息子とその嫁を挟んだ距離が開いている関係)を、その経験的な距離よりも、相対的に縮めた関係である。父母を除いての祖母による子育ては、わかりにくいが、分離しているところを結合する述語的様相である。
経験的祖母Δ→β←Δ経験的孫
*
さてここで一つ目の「Δ→β←Δ」を関係づける動きが見えたが、すぐにもうひとつの「Δ→β←Δ」が展開する。祖母は、二人の子ども、きょうだいである男の子と女の子が、またインセストタブーを侵犯することになる可能性を予感して、これを回避するために、この二人が二人の別々の人間であるとお互いに気づかないようにするべく、完全に一体化するように結合する。「子供たちを樹脂でくっつけ、 頭がふたつあるひとりの男にした」のである。
男の子Δ→β←Δ女の子
|
頭がふたつあるひとりの男
これもまた過度な結合であるが、しかしインセストによる結合とは様相が異なる過度な結合である。二であることを知った上での一(分離しながらの結合)と、二であることを知らない一(分離の様相を観客した結合一辺倒?)のちがいである。
結合すれば分離へ向かい、分離すれば結合へ向かう
とはいえ「屈んで自分の影を見ないように」とか「空に矢を打ち上げないように」、少々不自然な禁止を課せられた子は、自分の存在に何か秘密があるのだと気づく。
そして禁じられたはずの「空に矢を打ち上げる」を実行する。矢は、一度真上に高く上がって、そして射手のところへと落ちてきて、その矢によって、祖母が樹脂でくっつけていた妹(もしくは姉)が剥がれて分離することになった。
こうして子どもたちふたりは、自分たちが男/女のふたりきょうだいであることを知ることになる。
男 / 女
そしてここでおもしろいことに、祖母は秘密がばれたことに観念し「事実を認める」のである。また無理に樹脂で結合すれば良さそうなものであるが、そうはしないのである。
過度な結合は、いずれ分離に転じなければならない。
それこそが神話のアルゴリズムだからである。
結合したら分離するのである。
さて、続きを見てみよう。
太陽を射る/太陽と話す
<つづき>
少女は兄弟といつもいっしょに狩りに出かけ、彼に質問しつづけた。
「わたしたちは誰。どうしてわたしたちには、父親も母親もいないの。おばあさんは、なぜ泣いてばかりいるの。わたしたちはどうして、このように暮 らしているの。太陽にきいてみましょう。もし答えてくれなかったら、矢を射てやりましょう」。
太陽がのぼったとき彼らは太陽に質問したが、彼らに注意を向けてくれなかったので、少女は太陽の頬に矢を刺し、今でも見える黒い印をつくった。
傷ついた太陽はすぐに矢を引き抜いてくれるように頼み、彼らに答えることに同意した。彼らを孤児にした女(冒頭の姉弟の姉、子供たちからするとおば)は水のなかに住んでいると説明し、正確な地点をしめした。
<つづく>
男の子と女の子のペアは、自分たちに祖母だけがいて、経験的に適度に結合しているはずの両親も叔父たちがいない(相対的に過度に分離している)ことに疑問を持つに至った。
そして自分たちの秘密を知るであろう「太陽の頬に矢を」射て、事情を説明させる。太陽、天体という、経験的には言葉を交わして意思疎通することが不可能な遠く分離された存在に対して矢を射る。矢があたることは、射手とその獲物(男の子と太陽と)が分離したまま結合状態に入ることを表現している。そうして分離を結合に転じた関係のなかで、太陽は、男の子と女の子の両親がどうなったのか、その原因が大火事であり、その大火事が誰によって引き起こされたのかを時空を超えて、言語によって分離していた、隠された過去の秘密を現在に結合したのである。

弓で射られた矢がそうであるように、言葉もまた、経験的に分離した二極の間を、分離したまま結合する述語のモードである。
+
太陽との戦いの次は、水界との戦い
さて、こうして時空の分離を超えて、きょうだいは、自分の両親が誰に命を奪われたのか、知ることになる。おばの仕業であった。
そしてそのおばが、水界に住んでいることを教えられる。
火による大火事を引き起こした当人が、そのご水の中で、水と過度に結合して暮らしている。
火/水
この対立も、神話がよく触れる経験的区別である。
この二極のあいだを火から水へ移動する。火とも結合できるし、水とも結合できる。こちらで分離しあちらと結合しかと思えば、あちらと分離しこちらに結合する。
続きを見てみよう。男の子と女の子は、水界に潜む化け物と化したおばを退治することに成功する。
<つづき>
*
冬が来ると、松明をもって狩りに行くことを口実にして、姉妹は兄弟とともにその地点(おばが潜んでいる水界)に行こうと企てた。
夜ごとに、彼らはたくさんの魚や水島をもち帰った。
ついに、彼らは人殺し女(冒頭の姉弟の姉、子供たちからするとおば)の「ゴチュゴチュゴチュゴデブ」という叫び声を聞いた。
祖母もまたそれを聞き、いつの日か、籠から魚を下ろすときに籠のなかに彼女の娘の切り取られた頭を見るのではないかと予感した。
+
+
事実、そのとおりのことが起こり、祖母は深い絶望に沈んだ。
なぜなら、娘が身内を殺し尽くしたとはいえ、彼女は娘を愛していたからである。
*
*
*
老女の怒りを恐れて、若者たちは小屋の竈を通り抜けて逃げることに決めた。
そして、家事の道具に彼らを裏切らないように言い、逃げるために灰に掘った穴を消し炭で塞いだ。
しかし彼らは錐に伝えるのを忘れ、錐は老女にどうやって彼らが逃れたかしめした。
<つづく>
さて、親の仇である水界に潜むおばを退治した男の子と女の子であるが、今度は、育ての祖母に、つまり叔母の母の恨みをかってしまい、祖母のもとから逃げる(分離する)ことになる。

男の子と女の子は、家からこっそり逃げ出す。
しかし、その逃げる様子、どちらに逃げたかを、家にある「家事の道具」たちが見ている。ここは神話なので、家事の道具たちも当然のごとくしゃべることができる。言語の媒介力=分離しながらの結合力が、天体との会話を可能にしたり、家の道具との会話をも可能にするほど強まっているのである。
そこで、男の子と女の子は、家から逃げる=分離するにあたり、家の道具たちに「裏切らないよう」命じる。しかしここで「錐」(キリ、穴をあける=分離する壁に結合ルートである穴を開ける道具:分離を結合へと強く転じる道具)に話をつけることを忘れてしまう。
「錐」は、怒り心頭の「祖母」に対して、孫たちがどこへ逃げたかを教えてしまう。
ここで神話における分離→結合→分離→結合の伸縮の動きを表現する定番モチーフ「鬼ごっこ」が始まる。そしてこの鬼ごっこの途中で、祖母から分離しようと逃げる男の子と女の子のあいだに、この神話で二度目のインセストが起きる。
鬼ごっこと問答
<つづき>
彼女(逃げる二人の祖母)はそのあとすぐに彼らのあとを追った。
逃げる者たちは、数日間先行していた。
あるとき少年は木に放った矢を取り戻すことができなくなった。
彼は姉妹にそれを取って来るように頼んだ。
彼らの親族の絆を満足のいくまで明確にしない限り嫌だと、彼女は言った。
男の子:「君は僕の姉妹か」
女の子:「違う」
男の子:「(君は僕の)おば」
女の子:「違う」
男の子:「それではいった い何だ。僕のお母さん?」
女の子:「違う」
そこで、彼はふたりの関係をつぎからつぎへと数え上げたが、「妻」という 語が口に出されるまで、少女は否定しつづけた。
そこで少女に促されてふたりは結婚し、兄弟姉妹であるのに、 夫婦として暮らした。
整理してみよう。
まず、男の子と女の子は、直前まで一緒に暮らしていた(結合していた)祖母から分離しようとしている。結合を分離に転じているのである。
その状態で、男の子は、樹上に放った矢が引っかかってしまって取れなくなるという問題に直面する。前に、太陽の頬に矢を射たときには、どういうわけだか太陽との距離を縮めてその頬の矢をとってやることができたのであるが、今回は木の上の矢は取れないというのである。

分離を分離したまま結合するはずの「矢」と、分離されてしまう男の子。
結合することと分離する。結合している(べき)ところと分離される。
ここで、これとは反対の動き、分離しているべきところと結合する、という動きがみえてくる。それが姉妹を妻にする結合である。
この二番目のインセストに際し、男の子と女の子のきょうだいの問答が行われる。イエス/ノーで答えられる問答である。この場合のYesは言葉とその言葉で言われていることが結合するということであり、この場合のNoは言葉とその言葉で言われていることが分離するということである。
ここでの問答は、分離、分離、分離を繰り返した後で、結合に転じる。
問答がYesにいたり、おそらく矢も女の子の手によって回収され、そして二人は結婚することになる。様々な主語的な者たちの様相のもとで、述語的様相は一貫して、分離を結合に転じる向きで動く。
そしてすぐに次の結合と分離の激しい伸縮が展開する。
食べる/食べられる
分離を結合に転じる
<つづき>
*
その結末を予想していたので、祖母は彼らを依然として追いかけていた。
彼らが残した竈の灰を調べ、少女の腹がつけた窪みに気がついて、祖母は彼女が妊娠しているのを悟った。
彼女はまた、もうおとなになった孫(逃走中の少年のこと)が殺したクマの皮を見つけ、それを身に纏った。
+
そうこうするうちに、子供が生まれ、若者は習慣に従って、祈り、断食し、精霊の保護を得るために、森に引きこもった。
老女は雌クマに姿を変え、彼に追いつき、殺して食った。
+
そして彼女は孫娘の前に姿を現わし、水をくれと言った。
祖母が渇きを癒している間に、少女は火で赤く焼けた石を老女の肛門に押しこんだ。
そして彼女が飲んだ余分な水を吐き出させるとの口実のもとに、熱い石が水と混ざって煮えたぎるように、彼女は腹を踏みつけた。
内側から料理されて、人喰い鬼の女は死んだ。
<つづく>
まず、第二のインセストの少年と少女のきょうだいから、あっというまに子供が生まれる。神話の一番最初から登場している女性からみると、ひ孫の世代にあたる。
このひ孫にあたる男の子の誕生と、いわば引き換えに、その父であるインセストの少年は「雌クマに姿を変え」たその祖母=最初の女性に「食われる」。
食べるというのはこれまた、過度な結合である。
少年→←祖母
食べられる→←食べる
ちなみに、この「雌クマ」は、もとはといえば、生まれた赤ん坊の父であるインセストの少年の獲物(食べ物)であった。
食べ物に食べられる。
食べる / 食べられる
食べられるものが食べ、食べるものが食べられる。
ここでも過度な結合の相で、受動と能動、主/客の対立二極もくるくると交代するようになっている。
そしてまたすかさず、今度はこの孫であるインセストの少年を「食べた」クマに変身した祖母は、インセストの少女の手で「内側から調理」されて、食べ物にされる、食べ物の位置に置かれる。
::

ここでも経験的、感覚的な区別の両極が、続々とくるくる反転する。
「水」が欲しい(結合したい)という相手に、「火」を結合する。
経験的に「外側」から施される場合が多い調理の工程が、「内側」から施される。
この際、「熱い石が水と混ざって煮えたぎるように」、火と水が分離しつつ結合し結合しつつ分離し、付かず離れずに二即一になるように、ちょうど太鼓をどんどんとたたくように、「腹」が踏みつけられる。このリズミカルなボール状の皮袋のようなものの伸縮を通じて、この神話の冒頭から展開していた動き、絶対無分節を分節するでもなく分節しないでもない動きを体現していた最初の女性(クマに変身した祖母)は消える。
+
β面からΔ面へ
分離と結合の述語的様相が、
激しいものから、リズミカルなものへ
こうなると神話は、下図における1)〜3)のモードから離れて、4)のモードの述語を用いた語りへと展開していくことが予想される。


つづきをみてみよう。
まず先ほど祖母を「内側」から「火」で加熱して料理にしてしまった孫娘は、今度は自分自身を焚き火の中へと放り込んで「外側」から「火」で加熱して料理のようにしようとする。このあたりの経験的な対立関係を反転させる動きの鮮やかさは見事である。
<つづき>
若い女(内側から料理された祖母の孫娘のこと)は薪の山を積み上げ、火を点けると、子供を背中に背負って、そこに飛びこもうとした。
*
クムカムチュ [簡単にするために、ガチェットのものに近い写字を使いつづけることにする」は彼がいた斜面の高いところからその場面を目撃し、赤ん坊に見惚れてしまった。
*
(赤ん坊の)母親が火に飛びこんだとき、 彼(クムカムチュ)は子供を木槌で打ち、赤ん坊を遠くに落とした。
そして、赤ん坊を拾い上げ、額や首などに固定しようとしたが、うまくいかなかった。………………最後に赤ん坊を膝のなかに入れた。
彼は足を引きずって家に帰り、足がひどく腫れ上がってしまったと(自分の)娘にこぼした。
(クムカムチュの)娘はそれが膿瘍だと診立てて膝に穴を開けると、髪の毛が見えた。
子供が姿を現わし、大きな声で泣きつづけた。
父と娘は考えつく限りの種類の名前を彼に与えたが、成果はなかった。
アイシシュという名を与えると、やっと子供は静かになった。
<つづく>
さて、そこに、経験的で感覚的に現実に存在する意味ある現世の創造主たる「クムカムチュ」が登場する。
クムカムチュは、インセストの少女が赤ん坊とともに焚き火に飛び込もうとしているのを、離れた場所から「斜面の高いところ」から眺めている。クムカムチュが、インセストの少女や少年、そしてその赤ん坊やその祖母たちとは、異なる「地平」にいると語られていることに注意しよう。少年少女と赤ん坊と祖母が分離したり結合したりしていたところはいわばβ面であり、一方クムカムチュはβ面とΔ面のどちらでもあってどちらでもない「斜面」にいる。図2の4)の「=/=」に相応しいあり方である。
ー Δ面
/斜面
β面 ー
クムカムチュは今まさに火の中へ母親に抱かれて飛び込んだ赤ん坊を、「木槌で打ち」「遠くに落と」すというやり方で救出する。少々、いや、かなり乱暴だなと思われるだろうが、こうすることで、赤ん坊をβ面から弾き出して、Δ面に転送したのである。
*
ところがこの赤ん坊、もともとβ赤ん坊なのでΔ面につれてくると「額や首などに固定しようとしたが、うまくいかなかった」とあるように、固定され得ない、ぐにゃぐにゃとした伸縮自在なやわらかいあり方になってしまう。日本の神話の「ヒルコ」を思い出す。
仕方がないのでクムカムチュは、この赤ん坊を、一旦自分自身の体の中に(膝のなかに)入れる。クムカムチュは男神であるが、女性がいないところで男性だけで、単性で身体の内側に子供を宿す=受胎するに等しい状態になる。
そうして家に帰ったクムカムチュは、自分の体の一部(足)が腫れてしまったと、実の娘に伝える。クムカムチュの娘は、父の足に膿が溜まっているものと見立て、「膝に穴を開け」て(実に痛そうである!)、本来結合すべきでないところに結合している“中身(膿)”を内から外へ分離しようとする。
+
そうすると、父クムカムチュの膝の中から赤ん坊が分離してくることになる。
この赤ん坊、通常の赤ん坊の比ではないほどに「大きな声で泣きつづけ」る。
神話的には大声で泣く赤ん坊は、分離と結合の伸縮を激しくする述語である。昼夜を問わず泣き続ける赤ん坊の大きな声は、経験的に分離しているはずのところを結合したり、結合しているはずのところを分離したりする。
この子を泣き止ませるために、クムカムチュとその娘は、赤ん坊に「名前」を授けることにした。様々な名前を試す中で、ついに「アイシシュ」という名を与えられた時に、赤ん坊は泣くのをやめる。
最初の分節
絶対無分節の分節
分節と無分節の分節
「アイシシュ」はこの間みてきた神話にしばしば登場する主人公の名と同じである。
下記の記事で引用した箇所にレヴィ=ストロース氏が書いているように、「アイシシュ」とは「「隠れる、保つ」という述語から派生した語であり、「隠されたもの」または「包蔵されたもの」という意味をもつ。
泣き喚き続ける赤ん坊は、「隠されたもの」または「包蔵されたもの」という名を与えられることによって、泣き止むのである。
「隠れる=隠される」ということは、
見えていない / 見えている
中身 / 容器
内 / 外
という、経験的で感覚的に安定した意味ある現世の秩序を分節=分別する、それこそ時間や空間といった人間の意識にとって根源的な「容器」のことを考えることを可能にする、もっとも基本的な分節・二項対立を区切り出す述語的様相である。
「アイシシュ」=「隠す・隠れる」の登場により、いよいよ「=/=」が可能になる。現世の経験的感覚的に安定した意味分節システムを編み上げる、分離しつつ結合し結合しつつ分離する、非同非異のアルゴリズムである「=/=」が定常的に動き出すのである。
Δ
↑
β= / =β
|| ||
Δ←/ /→Δ
|| ||
β= / =β
↓
Δ
現世の起源を画するアイシシュは、多重の結婚を繰り返すことで、つかずはなれずの分離しながらの結合・結合しながらの分離を作り出していく。

<つづき>
彼(アイシシュ)は成長して大人になり、クイナ、ササゴイ、ユキヒメドリ、リス、マガモなど、多くの妻を娶った。
*
クムカムチュは、リスがノミを取っているのを物欲しげにながめた。
彼は、息子がどうして他の妻たちよりリスを愛しているのか不思議に思った。
嫉妬にかられたマガモも同じ考えを抱いた。
クムカムチュは息子の美しい妻に恋情を抱き、たくさん火花を散らす薪を炉にくべた。それは、火花がリスの衣服にとび、衣服を守るためにまくりあげさせて、着物の下はいつも裸である彼女の魅力をさらさせるためであった。
それで、クムカムチュは息子を殺そうと決心した。
長いあいだどうやるか策を練った。
*
ある日、マキバドリが巣をかけている植物、たぶんアシを草原で見つけた。
彼はアイシシュに、ワシの巣を見つけたのだが、そこに登るには自分は歳をとりすぎていると感じるほど高いところにある、と言った。
彼は(アイシシュの)着るものをすべて脱がせてから、息子(アイシシュ)を登らせた。
アシは生長し始めた。
アイシシュが巣に着いたとき、小さな鳥をみつけて、それを地上に投げたが、もはや下りることができなかった。食べ物もなしに頂に閉じこめられ、彼は痩せこけた。
クムカムチユはかわいいリスを妻にした。
<つづく>
「クイナ、ササゴイ、ユキヒメドリ、リス、マガモなど、多くの妻」と次々と結ばれていくアイシシュであるが、これに嫉妬する=やきもちを焼くのが義理の父であるクムカムチュである。またアイシシュの妻たちのなかにも、例えば「マガモ」などのように嫉妬する=やきもちを焼くものが現れる。
嫉妬する=やきもちを焼くということは、分離してしまっているところを結合に転じたいとこだわるも、しかしこだわればこだわるほど結合が遠のき、さらにさらに分離していく、という述語的様相である。この嫉妬、やきもち焼きは、『神話論理』の続編にあたるレヴィ=ストロース氏の著書『やきもち焼きの土器つくり』の主題にもなっている。

クムカムチュは特に、アイシシュの妻のひとり「リス」に横恋慕して、わざと焚き火を爆ぜさせてその衣装を「まくりあげさせ」るなどして、分離されているところを結合に転じるような動きを次々と引き起こしていく。
そうしてついに、クムカムチュはアイシシュを騙して、樹上(この神話では草の葦になっている)に閉じ込める=分離する。
そうしてアイシシュが分離したところで、その妻、リスは、クムカムチュと結合することになる。
あちらが分離すると、こちらが結合する。
神話における典型的な分離と結合の伸縮である。
*
人間の世界の起源
樹上に分離された=閉じ込められたアイシシュは、ますますその名の通りの「隠されもの」としてのあり様を際立たせる。
樹上に分離され、妻から分離されたアイシシュは、ますます強力な「/」に「=/=」に進化するのである。
アイシシュは、二度目の多重の結婚をする。
<つづき>
木の周りを飛び回っていたチョウの姉妹が、空中に漂う一本の髪を掴み、それがどこから来たのか探した。彼女たちは、骨ばかりで、飢えと渇きで死にかけていたアイシシュを見つけ、彼を下ろし、世話をした。彼はずっと炉のそばに横たわっていたが、それだからと言って彼が、チョウの姉妹、バッタ、アリ、そのほか何人もの妻をさらに娶る妨げにはならなかった。
*
毎日ヤマアラシたちがやって来て、アイシシュの身体の上で踊り、埃だらけにした。
そして、「誰かさんは、 わたしたちの手首を切ってくれるのかな」と嘲った。彼が病んでいるのをいいことに嘲ったのだが、具合がよ くなるとすぐに、彼(アイシシュ)は彼ら(ヤマアラシ)を殺し、手首やくるぶしを切断し、ヤマアラシの針毛で妻たちのために首飾りをつくった。
これが、バッタが首飾りをつけている理由である。
そして、彼は妻たちのためにモカシンと、たぶん首飾りもつくった。
彼女たちはこれらの服飾品をたいへん誇りに思い、食べられる根菜をせっせと収穫した。
ただ、 バッタだけは例外だった。彼女はとても怠けもので、歌い、両足をすり合わせてモカシンをすり切らせる他は何もしなかった。
*
アイシシュは家に帰りたくなり、妻たちに別れの言葉をかけた。「おまえたちはもう必要なものはすべてもっている」と彼は言った。なぜなら、彼女たちに十分なものを与えてあったからである。
かの故郷では、彼(アイシシュ)に無視されていることに恨みを抱くマガモと、自分の夫ではないと完全に知りながらクムカムチュと寝ているリスを除 いて、最初の妻たちは悲しみに沈んでいた。
ユキヒメドリには息子がいた。彼が最初に父親を見かけ、父親だとわかった。アイシシュは妻をふたたび取り戻した(と語り手は考える)。
主人公は小さな息子に、クムカムチュの(複数あると語り手が言う)心臓を火に投げこむように命じた。
心臓は炎のなかで破裂し、樹脂のタールをつくり出し、それはすべての土地を覆った。アイシシュは身内を避難させた。しかし、クイナは起こっていることを見たがり、鼻のまわりに染みがついた。語り手は続きがあるかどうか 憶えていない。
「たぶん、神話が語られている途中で、彼女は寝てしまったのだろう」(Barker 1, p. 25-49)°
アイシシュは、「チョウの姉妹、バッタ、アリ、そのほか何人もの妻」たちと、二度目の多重の結婚をする。現代人の常識からすると多重の結婚なんて・・・と思われるかもしれないが、これは主語的な様相に囚われない様にするための訓練だとおもってほしい。主語的様相は傍に置いて、述語的様相、分離したり結合したり、分離を結合に転じたり、結合を分離に転じたりする述語的様相“だけ”を意識の表層に保つのである。これができるようになると、私たちは、人の身でありながらも第七末那識の執着をすーっと透過して、法界に入ることができるようになる。

さて、分離と結合の伸縮を自在にする力をえたアイシシュは、ヤマアラシの針毛という裁縫の道具、つまり自然/文化の分節、動物の世界/人間の世界の分節を画する人工の装飾品や装身具、特に「靴」を生産する手段を獲得する。こうして、動物たちの自然の世界から区別され分離された非-動物の世界としての「人間」界が、人間にとって意味ある言語的に意味分節された現実が起源する。さらにここで、靴や装身具を与えられた昆虫である妻たちは、農業、栽培植物を育てるという文化の極みのようなことまで始めたのである。
こうして自然/文化の意味分節を区切り出したアイシシュは、仕上げとして、もといた神話の世界に帰っていく。
*
もといた世界では、一部(リスとマガモ)を除く妻たちが、アイシシュの失踪に大いに悲しんでいた。アイシシュはユキヒメドリをはじめとする最初の多重結婚の妻たちと再会し、そして自分の不在中に生まれていた息子に会う。
この息子が、クムカムチュの「複数ある」心臓を「火」の中に投げ込み(このモチーフは繰り返し登場するが、燃え上がる火は純粋に過度な結合、無分節の状態を象徴している)、そうしてその後、現にあるこの世界が起源するに至る。クムカムチュの心臓たちが破裂すると、タールの大洪水が一旦地上を覆い尽くした。これでβ面は完全に深層に埋まり、その上に、Δ面が広がることになった。アイシシュとその妻や子供たちはタールの大洪水を生き延び、そして彼らが、人間の祖になったはずである。
実に壮大なエピソードである。

おわりに
レヴィ=ストロース氏はこの神話が「周期的な構造を示す」ことを指摘する(p.52)。すなわち「すなわち、ひとつのシークエンスからつぎのシークエンスへと、エピソードは再生産される」ようになっている。そうして「三回の連続的なインセスト」が繰り返される。インセストととは要するに経験的に付かず離れずの関係でありがちな二者の間が、過度に結合するよう動く述語的様相である。
第一のインセストは「結婚して遠くに住む女と、家に留まっている彼女の弟のあいだの成就しない」関係である。
第二のインセストは「兄弟と彼に貼りついて成長した姉妹のあいだの完遂したインセスト」である。
第三のインセストは「 義理の父と、ある意味では彼に貼りついて生まれた息子の妻とのあいだのもの」である。
ここでレヴィ=ストロース氏は「二組の近親者は、結合と分離を交互に被る」と書いている。
「二組の近親者は、結合と分離を交互に被る。兄弟と姉妹は彼らをたがいに貼りつけている樹脂によって結合し、彼らを切り離す矢によって分離する。母と息子は(いっしょに死なんとする瞬間に)火によって結合し、造化の神の木槌によって分離する。父と息子は父がみずから息子を身ごもるときに結合し、反対に息子の妻と快楽を味わうために息子を取り除こうとしたときに分離する。分離させる矢は、樹脂と反対の機能を果たす。それは上から下に落ちることによって双子を切り離す。しかし、下から上に打ち上げられるとき、クイナの上に上から 下に流れ落ちた樹脂が果たすのと同じ役割を、太陽に対して矢は果たす。なぜなら、どちらの場合にも、犠牲者の顔の上に黒い印が残るからである。クイナの場合、その印は空と大地がタールによって一時的に結合されたことを証明している。太陽の場合にはその印は、樹脂によってひとつの存在へと繋げられていたにもかかわらず、兄弟と姉妹が切り離されたことを証拠だてている。」
ここに書かれていること、これぞまさに、分離と結合を伸縮する述語的様相のお手本である。
*
我々にとっての意味ある現実、「AはΒである」式に“意味する”ことができること、つまり
Δ = Δ
/ /
Δ = Δ
という形の意味分節の最小構成単位が安定的に、定常波が描く波紋のように浮かび上がり続けている状態というのは、この神話の思考が明確に語っているような分離と結合の伸縮から起源するのである。
つづく

関連記事
いいなと思ったら応援しよう!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
いただいたサポートは、次なる読書のため、文献の購入にあてさせていただきます。