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鳥の巣あさりの神話~「神話はその見かけに還元することはできない」 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(105_『神話論理4 裸の人』-2)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第105回目です。

『神話論理4 裸の人1』の第一部「家族の秘密」を読みます。

前回の記事はこちらです。

これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。

まず、本記事の概要を二コママンガにしてみよう。


経験的な区別が概念の道具となる

レヴィ=ストロース氏は大部の『神話論理』の第1巻の冒頭に次のように書いている。

生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせ命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理1 生のものと火を通したもの』p.5

経験的感覚的な区別(分別)を概念の道具として、観念を抽出するとは、いったい、どういうことだろうか?

仮に図1に示す「Δ」を最小で二つ、つないだもの(Δ1=Δ2)をひとつひとつの「観念」だと思っていただこう。図1のΔ1〜Δ4は私たち人間にとって経験的で感覚的な区別・分別される項である。例えば、

Δ1 寒い / Δ4 寒くない
||       ||
Δ2 わるい / Δ3 わるくない

といった具合になる。

私たち人類にとっての「意味ある」経験的世界とは、このような二項対立関係の重なり合いからなる四項関係を意味分節の最小構成単位として織り上げられている

人類は「経験的区別」を実行する機械のような仕組みとしてできている

Δ自 / 他Δ
Δ生 / 死Δ
Δ好き / 嫌いΔ
Δ因 / 果Δ
Δある / ないΔ
Δうまい / まずいΔ
Δ高い / 安いΔ
Δ遠い / 近いΔ
Δ内 / 外Δ

特に経験的な区別を区切り出す上で決定的なのは、次の対立である。

区別があること / 区別がないこと
分節 / 無分節
分かれてあること / 分かれていないこと
分離している / 結合している
一である / 多である
同じである / 異なっている
区別すること / 区別しないこと
分離すること / 結合すること

そしてさらに、この対立の両極の間の転換を引き起こす、二種類の動きの対立。すなわち、

結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

この対立である。

この分離と結合を転換する、分離状態と結合状態のあいだで伸縮する動きが定常化して、二項対立関係の対立関係が浮かび上がってきた状態こそが「マンダラ」として図式化できるモードなのである。

この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の「神話の論理」、私たちの野生の思考が半分無意識のうちに“経験的感覚的な区別を概念の道具として観念を抽出する”プロセスを、動的に伸縮する「マンダラ」としてモデル化すべく試行している。

本シリーズで筆者らが用いている「神話をマンダラとして読む」という枠組みについて、簡単に説明しておこう。

マンダラとは、図像にすると、次のような形をしたものである。

図1

マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、その四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

図1で「Δ」と表記したものは、あるとかないとか、内とか外とか、入れるとか出すといった、経験的感覚的に対立関係を組む項である。例えば「自/他」「有/無」「内/外」「遠/近」「中身/容器」など、私たちにとっての日常的に意味ある世界を意味分節すること可能にしている二項対立関係の項である。

一方、図で「β」と表記したものが、神話の語りのなかで、経験的に対立する二極のあいだを行ったり来たりしながら、繋いだり分けたりするように動き回るものであり、「両義的媒介項」と呼ばれるものである。βは、経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をする

両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。こうしたものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話はこの経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そのために、まず分かれているとも分かれていないとも言えないところからはじめて、結合しているところが分離に転じ、分離しているところが結合に転じ、という分離状態と結合状態の間で伸縮する動きのことを考えようとする。この動きは直接的には分けたり繋いだりする述語によって表現されるものであるが、この述語に乗っかる主語もまた、言語においては必要となる。その主語の役割を担うのが、両義的媒介項βたちなのである。

例えば、神話では、人間/動物、獲物/狩猟者といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからない状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こうして経験的に対立する両極の間で激しく振幅を描くものを、両義的媒介項(β)という。

神話の語りは、まず経験的感覚的に区別される二つの事柄を過度に結合して(あるいは経験的感覚的に他から区別された一つのことを過度に引き伸ばして両端を分離して)両義的媒介項βを作った上で、このβ、両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

神話の語りの五つの相 ——βたちの伸縮運動

神話の語りは、しばしば次の五つの相をたどる。

図2

1) ぎゅっと集まる: 語りの冒頭、両義的媒介項たちが一点に集合した状態から始まる。

2)〜3) 激しく伸縮する: βたちのうちの二項が、任意の軸上でながーく伸びたり、縮んだり、第二の軸上でも同様に伸縮する。

4) 付かず離れずに均衡する: なにかのはずみで、βたちが**四方に引っ張り出され、β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)**ところで、引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とがバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。

5) Δが浮かび上がる: そうしてβ項同士の「あいだ」に、四つの領域、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが、持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

「/」と「||」は同じ動きの二つの異なる様相である(真逆に対立する熟語のペア)。「/」は伸縮の「」の方に、「||」は伸縮の「」の方に対応する。

例えば、前々回の記事でご紹介した話では、燻製、煮込み、串焼き、天日干しという四つの調理する動き(自然のものと文化のものを分離→結合→分離と伸縮させる動き)によって、遠/近、間接/直接という、私たちの経験的で感覚的な空間を分節するシステムを織りなす基本的な対立関係が析出される、という例が示されていた。

(遠く間接:燻製 ) 遠 (遠く直接:?? )
間接      直接
(近く間接:煮込み) 近 (近く直接:串焼き)

「分けるから分かれる」 ——意味分節の起源

空間的な距離、「遠/近」など、人間が言語的に分節しようがしまいが、厳然とそれ自体としておのずから存在することだろうと思われるかもしれないが、神話の思考はそのようには考えない。遠/近、有/無、生/死、時間の分節も空間の分節も、「ある」と「ない」も、人間が分別するあらゆることは、分けるから分かれるのであり、分けなければ分かれない

このようにして神話は、両義的媒介項どうしが分離したり結合したりする動き(伸縮する動き)を用いて、ありとあらゆる我々人類にとっての経験的で感覚的な世界の意味分節・存在分節を可能にする二項対立関係を、(両極を結合したまま分離し分離したまま結合するようにして)区切り出していく。

起源神話 —区別があること、それ自体の起源

神話は、人類が現に経験している、自分自身にとって「意味ある世界」を支えている意味分節・存在分節の体系の起源を、由来を、思考しようとする。

例えば、野生の思考が「人間」の起源を思考しようとすると、それは「人間」と「非-人間」がもともと区別されていなかったところから、区別されるようになるに至る経緯を上述の分離と結合の伸縮に即して語る、ということになる。「人間」に限らず、ありとあらゆる経験的感覚的に「他ではないそれ」として存在するものについて、それとそれ以外との区別のはじまりをどう語るかが神話の思考の関心事になる。

A  /  非-A

こうなると、意味ある経験的世界の起源を語る神話の思考を突き詰めていくと、いずれ必ず区別があるということ、それ自体の起源を問うことになる。分節/無分節、分離/結合、一/多、同/異 —— これらは言い換え可能な対立であり、突き詰めれば「区別があること/区別がないこと」へと収斂する。

そしてこの区別が、神話では、

結合状態を分離状態に転じる動き / 分離状態を結合状態に転じる動き

という、真逆に対立する動きのペアとして表現されることになる。

+ +

動的に伸縮する「マンダラ」のモデルを考える上で、筆者らがよすがとするのは空海が『吽字義』に記している二重の四項関係(八項関係)である。もちろん「項」の関係といっても、マンダラは所与の即自的な実体を二次的に集めてきて並べたものではない。マンダラ状のパターンを波紋のように浮かび上がらせる脈動たち、振幅を描くように伸縮する動きの、その述語的様相の共鳴がある。この共鳴から浮かび上がるパターンを、人間の言語の線形構造の上に写像したものが、おそらく神話の語りなのである。

神話の語りを、言語の線形構造に変換されたマンダラとして読むという試みは、レヴィ=ストロースと同じく、人類の無意識の心の動きの消息として「神話」を読み解こうとしたカール・グスタフ・ユングの思考とも共振するものになるだろう。


神話の語りを分析する

私たち人類の意識は、この伸縮の結果として浮かび上がるΔたち、その主語的なあり方(「それが何であるか」)に目を奪われがちであるが、実はこれら主語的なものたちは、あくまでも引き離したり近づけたりする動き、動詞、述語のあとに、はじめてその姿が浮かび上がってくる、動きの痕跡である。

主語的なものが世界の始まりのポイントにあらかじめ設置されているわけではなく、グニャグニャと伸縮する波(述語)が重なり合い、共鳴しながらマンダラ状の波紋のようなものを浮かび上がらせる時に、その図のある部分、ある領域が、仮に主語の役割を課せられている

神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている意味分節のパターンが、さまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にし、またそうした分節のやり方を相当程度自覚的に組み立てることをも可能にするのである。


以上を踏まえ、前回に引き続き、「鳥の巣あさり」の神話をみてみよう。

上掲の前回の記事で詳しく読んだ鳥の巣あさりの神話は、「内に包まれた者・隠された者」という名をもつ主人公が、彼に嫉妬する父神に騙されて服を脱がされ裸にされて(つまり包まれていない状態に転換されて)、高い木の上に昇らされ降りられないようにされて晒される、というモチーフを分離と結合の伸縮の中心に据えたものである。今回みるM530b クラマス 鳥の巣あさり (2)も、前回の異文である。

アイシシュは技比べと運だめしのゲームの主であった。

ゲームをしに行く途中、仲間と彼は道に沿って火を起こした。
アイシシュの火の炎は青紫に輝き
銀のキツネの火は黄色で、
クムカムチュの火は濃い煙をたてるだけだった。
矢の競射でアイシシュはつねに勝った
そして、人々が参加したその他のゲームでも、賭けられたものをすべて自分のものにした。

**

アイシシュには五人の妻――バン、オナガリス、カナダヅル、カモ、ズアオアトリがいた。

* *

クムカムチュはオナガリスに欲望を燃やし、息子を殺そうと決めた。

彼は死んだ父親がワシを狩っていた場所を思い出したと偽り、 そこにアイシシュを連れて行き、カブカ/kápka/というマツの頂に彼を登らせた。

マツはとても高く生長したので主人公はそこからふたたび下りることができなくなった。そのうえ、巣のなかにはとてもありふれた鳥しかいなかった。



クムカムチュは息子の衣服を身につけ、息子の姿になった。

彼は恋い焦がれた女と急いで寝たが、彼女も他の女たちも彼が自分たちの夫だとは信じなかった
いつもの仲間たちはいっそう信じなかった。
というのは、炎は天にまっすぐのぼっていくどころか履者の火床は這いつくばった煙をつくり出すだけだったし、矢は的を外したからである。
仲間たちは、ゲームの面白味がなくなったことで、アイシシュがいないことをとても残念がった





いっぽう、やもめ暮らしがあまり気にならなかったカモを除くと、女たちは悲嘆にくれていた。
ツルはとても激しく泣いたので、閉じこめられていたアイシシュにまでそれが聞こえた。そして彼も悲嘆にくれた。
その高みで、天のすぐ近くで、彼は死を待っていた。
なぜなら、骨と皮だけになっていたからである。

ふたりのチョウ娘たちが彼に気がついた。
ふたりはまず父親にそれを知らせ、父親はふたりを主人公の救出に送った。食べ物と飲み物を与えられると、彼は自分の災難について物語った。
彼女たちはヤナギで編んでオオヤマネコの毛皮で覆った籠にのせて彼を地上に下ろした。アイシシュは長いあいだ具合が悪かった。最後に彼は回復した (Gatschet 1. 1. p. 99-101)

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』pp.23-24

結合から分離へ、分離から結合へと転換する過度な伸縮が、さまざまな述語で語られている。図2に示した伸縮モデルに即して分析してみよう。

図2

常勝、勝/負の対立の一方の極に固着

冒頭、主人公アイシシュが、技比べ、運だめし、ゲームの主だったとある。この主人公は特に弓矢による射的のゲームで「常に勝つ」ことができ「賭けられたものをすべて自分のものに」してしまう。

一般的にゲーム、運試し、技比べ、となると、プレイヤーは勝ったり負けたりするものである。すなわち

勝   /   負
←勝負師→

この二極のあいだを、勝負師が一方から他方へいったりきたり、勝ったり負けたりするのが経験的感覚的現実におけるゲーム、勝負というものであろう。

しかしこの神話の冒頭のアイシシュは「勝」一辺倒である。

勝負師アイシシュは「勝」と過度に結合したままになっている。
つまりここでは、主人公が「勝ち」と結合したかとおもえば分離することもあり、また結合することもある、という具合の分離と結合の伸縮が生じなくなっている。主人公は勝ち/負けの一方の極「勝ち」に結合したまま固まって止まってしまっている。

神話は、経験的に分離したり結合したり、分離と結合が伸縮して付かず離れずになっている二つの事柄(Δ)の間を密着させ、過度に結合したままの状態を作る。この二つのΔが過度に結合したまま(あるいは逆に過度に分離したまま)になっている様相を、両義的媒介項とするのである。

Δ主人公 / Δ対抗者
|  ×   |
Δ勝ち / Δ負け

経験的にはΔ主人公はΔ勝ちと結合することもあれば、Δ負けと結合することもあるはずだが、ここではΔ勝ちとだけ過度に結合したままになる。

    Δ主人公 / …

β <<<<<   

   Δ勝ち / …

特にここでのゲームが、弓矢による射的であるというのも興味深い。飛翔する矢は、射手と的の間を分離したまま結合する述語的様相を示す。この点で、矢は、しばしば神話において分離を結合に急転換することを可能にする両義的媒介項として活用される。

弓矢による射的の場合、矢は的に当たることもあれば(結合する)、当たらないこともある(分離する)、というのが経験的なあり方であろう。しかしこの主人公の場合、矢は百発百中的に当たるのである。これもまた経験的に付かず離れずになっているはずのところが、過度な結合一辺倒に偏っている様相である。

婚姻関係においても過度な結合

主人公アイシシュは、一人五人もの妻と結婚している(バン、オナガリス、カナダヅル、カモ、ズアオアトリ)。

婚姻というのは特に伝統的な社会でいえば、複数の親族グループ間での嫁や婿の交換である。複数の親族グループの関係が嫁や婿の交換で結ばれる場合、あるひとつのグループだけが一方的に嫁や婿を貰い続けたり、送り出し続けたりすることは、親族グループ間の均衡をアンバランスにする。複数の親族グループのあいだで世代を超えてあちらからこちらへ、こちらからあちらへ、嫁や婿が行ったり来たりすることで、どちらか一方だけが貰い続けたり与え続けたりするのではない均衡が実現する。

それに対して、この神話の主人公アイシシュは、どちらかといえば一方的に嫁を貰うあり方をしているように見える。つまりここでも先ほどの射的ゲームでの「常勝」と同じく、アイシシュのもとに、経験的感覚的には分離したり結合したりするべきことが、過度に結集して結合したままになっている

   Δ / …

β <<<<<   

   Δ / …

さらにおもしろいことに、アイシシュの五人の妻たちは、身体の一部分、特に頭頂部や顔の色が、他の部分の色と大きく異なるという特長をもつものがおおい。これは経験的に分離し対立する複数の色(白/黒など)が、一つに短絡された様相である。分離した二極を短絡して結合する、先ほどの射手と的の間を分離したまま結合する矢と、この印象的な色の組み合わせをもつ妻たちは、どちらも分離したまま結合するという述語的様相を呈する両義的媒介項なのである。

過度な結合から過度な分離へ
樹上に分離される主人公

さて、ここから神話の語りは、過度な結合モードを過度な分離モードへと伸縮させる。主人公アイシシュは、父「クムカムチュ」から激しく嫉妬されることになる。父クムカムチュは息子アイシシュの五人の妻のうちの一人であるオナガリスを自分のものにしようとする。

嫉妬、やきもちというのは、自分から分離されているもの(たとえば息子の妻とか)を、強引に自分に結合したいと欲するものの、うまく結合することができず分離したままである状態に我慢がならない!!という心の住まい方である。

そうして父クムカムチュは、松の木の頂きワシの巣があると嘘をついて、その雛鳥をとってくるようにと息子アイシシュを木に登らせる。アイシシュがのぼると、木はみるみる急成長して、アイシシュは降りることができなくなる地上から分離され、天/地の中間領域へ、アイシシュは宙吊りにされることになる。しかも樹上にはワシの巣はなく、雛を捕えることもできない。獲物と狩猟者の関係についても、アイシシュは分離されたままになっている。

地上から過度に分離され、獲物からも分離される。神話の冒頭で、「勝ち」や、「妻」たちと過度に結合していた様相から一挙に逆転している。

過度な結合が、過度な分離に転じたのである。

これは図2でいえば、1)から2)または3)へのモード転換である。

一方では過度な分離、他方では過度な結合

さて、アイシシュが地上から樹上へと分離され、獲物からも分離されているのに対して、その父であり一緒にゲームに興じる仲間でもあったクムカムチュは、過度な結合を演じる。

クムカムチュはまず、息子アイシシュの「衣装を身につけ」、息子に変身しようとする。父でありながら息子、息子でありながら父、という通常分離されているところを過度に結合しようとする述語的様相がこの変身である。

しかし、この変身は不徹底に終わる。
すぐに、偽物であるとバレるのである。

まずクムカムチュは息子アイシシュの五人の妻のうちの一人であるオナガリスと首尾よく結ばれる(結合する)のであるが、しかしオナガリスはこの夫の服を着て夫に変装している人物が夫ではないことに気づいていた(気づいていながら結ばれるというのが、分離しつつも結合することができる神話らしいところである)。

また、クムカムチュが変装しているだけの偽アイシシュは、当然ながら、射的のゲームで常勝することもできず、的を外し続ける。

ここでまさに嫉妬、分離を結合に転じたいと欲してあれこれ画策するものの(妻を奪いたい、勝利を奪いたい)、実際には分離したままに終わる、という様相がみごとに描かれている。

この、分離を結合に転じたいのに分離したままであり、そこをなんとか結合しようと必死になる、というあり方こそ、図2でいえば、2)または3)を4)へとモード転換する動きなのである。ここに分離したまま結合し、結合したまま分離する、という、意味ある現世の意味分節システムの最小構成単位であるΔ四項関係を付かず離れずに安定化させる接着力が働き始める。

嫉妬が、やきもちが、分離しつつも結合し結合しつつも分離する動きこそが、意味ある世界を創造するのである。

このやきもちの機能については、『神話論理』の続編にあたる『やきもち焼きの土器つくり』でレヴィ=ストロース氏が詳しく論じている。

過度な分離を付かず離れずの均衡へ

さて次に、樹上へと分離されたアイシシュが、再び地上に降りてくることになる。バン、オナガリス、カナダヅル、カモ、ズアオアトリ、というアイシシュの五人の妻のうち、オナガリスとアイシシュの分離は決定的となり、また「カモ」もアイシシュと分離している状態を特に苦に感じないということで、これまた分離したままになる。五人いた妻が、この時点で三人にまで減っているのである。これは結婚における「一人勝ち」の状態が多少緩和されえてきたということで、一方での過度な結合と他方での過度な分離の様相から、付かず離れずの様相への転換とみることができる

さらにこの婚姻関係とはまた別の軸でも、過度な分離を結合に転じる動きが見え始める。まず残った三人の妻のうち、特に「ツル」が、そのよく通る声で行方不明になっているアイシシュを呼ぶ。そしてその声は、はるか高い樹上に分離されたアイシシュのところにまで届いたのである。遠くまで届く声、音声は、音の発生源と音の聞き手のあいだを分離したまま結合する。

アイシシュも、鳴き声の主であるツルのことを懐かしみ、悲嘆にくれる。とはいえ、そう簡単に高木の上から降りることはできない。そこへ「ふたりのチョウ娘」というのが現れる。チョウはひらひらと舞い、樹下から樹上へ樹上から樹下へ、自在に上がったり下がったり、行ったり来たりと、二点の間を分離したり結合したりすること自在である。

チョウの二人の娘が、二人でワンセットになっていることに注意しよう。これは経験的に付かず離れずになっている二つの項の間を結合して両義的媒介項を作る神話の技である。

Δ→β←Δ

こうして両義的媒介項となった二即一にして一即二の「チョウ娘」ならば、樹上のアイシシュのところへ自在に近づいたり離れたりできるわけである。

β→←→←β

チョウ娘たちは、アイシシュのところへまず水と食料を運ぶ。
アイシシュは樹上に閉じ込められて以来、食べ物にありつくことができず、つまり食べ物・獲物と過度に分離された状態に留め置かれており、その身体は骨と皮ばかりになるほであった。この食糧との過度な分離を結合へと縮めるために、樹上に食糧を運ぶ必要がある。その役割をチョウ娘たちが担うのである。

こうして食べ物と過度に分離されたままであったアイシシュは、改めて、食べ物とのあいだに付かず離れずの関係を均衡させることになった。

食べ物を与えたところで、チョウ娘たちは「ヤナギで編んでオオヤマネコの毛皮で覆った籠」を用意し、これにアイシシュを乗せて、エレベータ方式で樹上から樹下へと下ろすことに成功する。

ふたりのチョウ娘、籠、大山猫の毛皮

ここで「籠」というのも、神話にしばしば登場する両義的媒介項である。
籠、細長い植物性の材料で編まれた籠は、籠目、つまりざるのようになっており、例えば水は通すが魚は通さない、という具合に、籠目のサイズより小さなものは分離し、籠目のサイズより大きなものは結合する、という働きをする。分離しながら結合するという述語的様相を担う籠は、両義的媒介項に相応しい。

ところで、この神話で樹上→樹下を媒介する働きをした籠は、大山猫の毛皮で覆われたものであった。籠と大山猫の毛皮、そしてアイシシュとふたり一組のチョウ娘という四つの両義的媒介項が一点の凝集するような形になって、過度に分離した樹上と樹下の間の隔たりを、分離を、結合に転じるのである。

ちなみに大山猫の毛皮が両義的媒介項であるという話については、『神話論理』のこれまた続編にあたる『大山猫の物語』に詳しい。

『大山猫の物語』でレヴィ=ストロース氏が分析する神話には、皮膚病を患った大山猫(つまりその「毛皮」の皮になる部分が大いに荒れている)が登場する。この大山猫は同じ小屋でひとりの女性と暮らしているのであるが、あるとき、大山猫がこの女性にまったく触れることなく、この女性を妊娠させるということが起きる。この出来事をきっかけに、同じ村に暮らす動物たちは皆村を出ていってしまい、あとには大山猫と妊娠した女性とが二人だけで残されることになる。はじめのうち大山猫は体調不良で小屋に閉じこもっていたのだが、自分が食糧を採りに行かないことには女性が飢えてしまうことに気づき、一念発起して外に出ることにする。そして大山猫が特別な風呂のようなものを作り、そこに入ると、あらふしぎ、荒れた肌は綺麗に治って、大山猫は美青年に変身し、ありあまるほどの獲物を自在に獲ることができる超人的な猟師になった・・・。といった話である。

ふたりのチョウ娘も、籠も、大山猫の毛皮も、それだけを文脈から切り離して実体的に見ると、いずれもなぜ他ではなくそれらなのか、という疑問を増殖させる謎の主語に見える。

しかし、ふたりのチョウ娘も、籠も、大山猫の毛皮の動き、その述語的様相に注目すると、いずれも分離することと結合することが自在な、分離を結合に転じ、結合を分離に転じるような動き=作用をなしていることがわかる。

この分離と結合を自在に伸縮させることができるという述語的な様相によって、これらは両義的媒介項である

北米の鳥の巣あさりと南米の鳥の巣あさり
主語的様相は真逆に異なるが、分離と結合の伸縮の仕方は同じである

レヴィ=ストロース氏はこうした北米の鳥の巣あさり神話と、『神話論理1』の冒頭に掲げられた南米の鳥の巣あさりの神話とのあいだで、対立関係の逆転が見られることに注目する

今のところは、鳥の巣あさりの物語の北アメリカと南アメリカのヴァージョンのあいだにこれから明らかになる対称を強調しておく方がいいだろう。思春期にあると想定されているM1の主人公は、母親を強姦する。M530~531の主人公は母がなく成人し結婚しているばかりか、多くの妻に囲まれている。いくつかのヴァージョンで は、十人を数えるのである。

神話の冒頭で、ひとりはボロロのあいだでは唯一の衣服になるペニスケースもまだもらっていないいっぽう、もうひとりはもっとも豊かな衣服の持ち主として現われ、それゆえに、息子の服を着て、その姿形をとるために、父親は彼の足から頭まで着ているものを脱がせなければならないことになる。 M1についてわれわれが与えた解釈が正しいならば、母親の強姦は、男の家への合流の拒否、幼児世界・女性の世界への別れの拒否を表わしている。反対に、アイシシュは著しく男性の側にあるので、二度目の懐胎のため父親によって宿されなければならないのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.28

なかなか衝撃的な記述であるが、これは神話の語りの世界であることを思い出そう。主語的な様相は私たちの感情の分別、好き/嫌いを鋭く固めようとするが、そこで転ばされて動けなくなるようなことがないように、述語の伸縮の様相に意識を合わせるのである。ここに書かれていることの述語の伸縮がどういうことかといえば、

男 / 女

という経験的な区別に対して、一方の南米の鳥の巣あさりの主人公は結婚しておらず、夫/妻という経験的に付かず離れずの関係においては過度に分離している。そして、同族・家族という点では近く結合し、世代が離れているという点では遠く分離している女性(母親)と、インセスト・タブーを犯し過度に結合する。

それに対して北米の鳥の巣あさりの主人公は結婚しているが、しかし妻が大勢、十人もいたりする。これはつまり夫/妻という経験的に付かず離れずの関係においては過度に"結合"しているという点で南米の鳥の巣アサリとは真逆である。また、北米の主人公の妻たちは、家族外であるという点では家族関係に比べて遠く分離し、しかし世代的にはどうやら離れすぎておらず、互いに近くに結合した年齢である。この点も南米の場合と真逆担っている。

この対称関係は、神話のすべての相に広がっている。たとえば、M1の発端となる父の妻とのインセストは、 M530-531では息子の妻とのインセストに反転する。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.29

父 / 息子
||    || 
父の妻 / 息子の妻

この四者のあいだで、父ー息子の妻の結合を取り上げるか、息子ー父の妻の結合を取り上げるかという点でも、南米の鳥の巣あさりの事例と北米の鳥の巣あさりの事例とは、逆になっている。

同様に、

衣装をたくさん持っている / 衣装を持っていない

男性の世界に属している / 女性の世界に属している

といった区別に関しても、ここで取り上げられている南米の神話と北米の神話のあいだで主人公の立ち位置が逆転している様子を見ることができる。

また、父の罠によって樹上に分離された息子が再び地上に降り、父に復讐するくだりでは、その復讐の手段が 火/水 の二項対立に関して逆転していることもある。

「身内のもとに戻ると、M1の主人公は弟の助けを借りて復讐を企て、M530-M531の主人公は孫の助けで同じこと 〉をする。その結果、罪を犯した父親は死ぬ。M530-M531では火によって、またM1では水によって。」

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.29

レヴィ=ストロース氏は、この火と水の対立に注目する。

これらの神話の場合の火と水はどちらもその過度な述語的様相に注目したい。即ち、過度な水火をほとんど全て消してしまい、逆に過度な火わずかな水を乾かして全てを焼き尽くす。過度な火と過度な水のあいだには、どちらか一方が他方を飲み込んでしまうという動き・述語的様相が展開している。


「神話はその見かけに還元することはできない」

距離的に遠く離れた、そしておそらく時間的にも遠く離れた南北アメリカで類似の神話が語られ、しかも登場する対立関係が逆転している。

これはどういうことだろうか。

ここでレヴィ=ストロース氏は、この類似と逆転の「理由」を探すことよりも、「どのように類似しているか探求」することがより重要であると指摘する(クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.32)。

表面的な類似が生じさせるであろう類縁または派生の関係を神話のあいだに打ち立てると主張するのではなく神話はその見かけに還元することはできないという原理から出発する。見かけがいかに多様であっても、その見かけは、おそらく数は少ないがより現実的な構造を覆い隠すものである何も差し引くこともつけ加えることもできないままに、構造は絶対的なものとして現われる。それらの構造は、連続的な変形によって型を生みだす母胎であり、系列に配列されるそれらの型が、具体的な個体と見なされるおのおのの神話の、意味のもっとも微妙な色調を決めることを可能にするのである。

クロード・レヴィ=ストロース『神話論理4 裸の人1』p.33

経験的な区別、対立関係を重ね合わせ、組み合わせ、編み上げることで概念の道具とする。そうすることで命題を、すなわち「何が何であり、何でないのか」といったことを語ることができる人類の言葉を、言語的思考を可能にする。そのアルゴリズムがどのように動き、組み立てられているのかを探求することで、人類の心の深層でその主観的な意味の経験を可能にしている情報処理のアルゴリズムに迫ることができる。それが即ち「構造」ということである。「構造は、連続的な変形によって型を生みだす母胎」、この連続的な変形の動きから、表面的な見かけが、つまりなにがなにであってなにでないか、という分節のあとに配置された主語的な存在者たちの安定的同一性が出てくる

この主語の現れだけを見ていると、南米では独身だった主人公が北米では既婚者になっていたり、一方では火が世界を覆い尽くすのに、他方では水が世界を覆い尽くす、という具合に話が真逆になっている様子が目立つのであるが、重要なことは、どちらにせよそれらの主語的なものたちどうしの間で動く述語的な様相である。主語的な存在者たちは、あくまでも述語的な動き、つまり分離と結合の伸縮が動いている只中から、その動きが定常化したモードにおいて主語として安定的に姿を示現するようになる。

図2

過度な結合を過度な分離へ。
過度な分離を過度な結合へ。
過度な分離や結合を、ほどよく付かず離れずの分離しつつ結合し結合しつつ分離するモードへ。

こうした分離する動き=述語的様相と、結合する動き=述語的様相とが一方から他方へ、他方から一方へと転換し、付かず離れずの均衡に至る、というこの動き方こそが「構造」ということになる。そうしてこの構造、分離と結合の伸縮のありようを、言語でもって語ろうということになった場合、分離する動きを語る述語や結合する動きを語る述語を用いるとともに、その述語にとっての主語の位置に収まりそうなものを、経験的感覚的に区別できる二項対立関係の一方から選び出して来ることになる。

例えば、世界を覆い尽くし、細かい区別を無かったことにして、すべてを一つに結合する、という動き、述語的様相を語りたいということになった場合に、その述語に対する主語の位置にはまりそうなものを、例えば「火と水」という経験的な対立関係から選ぶとすると、火を選んでも良いし、水を選んでも良い、ということになるのである。

++

非同非異という第四レンマの不思議な論理を、神話はその語りの主語的様相と述語的様相を折り重ね編み上げていく操作を通じて言語化していく。


つづく


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