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いわくつきの古い牛車のおもちゃを古道具屋に買い取ってもらう夢【マンダラ夢分析】—ユングが『非常に驚いた』五智如来の曼荼羅は、姿を変えて、私たちの夢に現れる

はじめに 心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する

夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界。それは心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束を震わせたときに、そこから浮かび上がるパターンである。
神話も、人間の心の「深層」の同じ脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底に、その底面に浮かび上がらせるパターンである。そのパターンが意識によって自覚される相に浮かんできた姿のひとつが、「マンダラ」である。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ

マンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる絵図の曼荼羅のように視覚的なイメージになる場合もあれば、夢の中で自/他の間が近づいたり離れたり、距離感の伸縮として経験される場合もある。
しばしば夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)、分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。

結合を分離する動きと、分離を結合する動きの多様な組み合わせのパターンとしての諸々の「心」のあり方

この分離する動き、結合する動きは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。

分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動くが・・・
うまく結合できない

あるいは

結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動くが・・・
うまく分離できない

実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を表層に残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。

マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラや、マンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。



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以上を踏まえ、今回は、関係者の方からご提供いただいた夢を対象に分析を試みてみよう。

古い牛車を老夫婦の古道具屋に売り払い、太閤ゆかりのアートギャラリーで手書きアニメーションを観る夢

夢見者は、昔から持っていた古いおもちゃ老夫婦が営む古道具屋に売りに行く。それは、ひな飾りのような大きさの、インド風の図柄があしらわれた木製の牛車であった。 かつては辛子色に塗られていたが、すっかり色が褪せて深い木の色に変色している。ニスを塗ったようなつやがある。



この牛車は長い間私の目のつくところに置いてあったが、常に後ろめたい思いを与え続けてきた。

というのも、ずっと昔、私はポップコーンになった女の子を、生きたままトイレに流してしまったことがあった。 その時にその子が欲しがっていたか、詳しくは思い出せないが、何かの形でその子と関連していたものがこの牛車である。

その行動は、夢見者にとっては正当防衛のつもりであったし、実際、正当防衛的なことであった。が、トイレにポップコーンの袋をひっくり返して、流れていった時、その子は叫んでいたような気がする
一通り流し終えた後、ポップコーンが多少袋に残っていたが、その残滓をみながら、「その子の魂はどこにあるのか」と当時、考えたことを思い出す。



この話を古道具屋の主人にすると、非常に驚いていた。
こうした「いわく付き」の物品が、売りに出されることは稀だ、という。

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場面が変わって、アートギャラリーのようなところにいる。
案内人の男性に「太閤様ゆかりの展示です」と聞かされる。
ふ〜んと特段興味なく思う。
中に入ると、白い天幕が貼られて洗練された空間である。 天井が高く、空間全体がスクリーンのよう

「秀吉が幼少期に語ったとされる記録を映像で再現した作品」が展示されている。

メジロのような小鳥が地面をチョコチョコ跳ねて、穀類をついばんでいる。手書きのアニメーションで、エスキースの線が動いている。 好ましいと思う。

この夢は、ふたつの場面からなっている。

  1. 最初の場面では、いわくつきの古いおもちゃ「ひな飾りのような大きさの、インド風の図柄があしらわれた木製の牛車」を手放す。長い時間、重く、いわば高粘度でまとわりつき=結合していた夢見者とこのおもちゃとのあいだが、売却されるという形で分離に転じる。

  2. 第二の場面では、その結合から分離へのモード転換(おもちゃの手放し)のあとに、広大で白い空間に入っていく。そして、時間の分別(過去と現在)を自在に繋ぎ直して、小鳥が穀物をついばむ姿、つまり天/地の区別に関して、天(空)に属する鳥が、地上に降りているということ、天/地の両極が“鳥が舞い降りる”という述語的様相で、分離したまま結合されるる様相を眺める。

前半の激しい、夢見者の自我の輪郭を揺るがすような結合→分離の伸縮モードから、後半のマンダラ状に調和する穏やかな分離しつつ結合し結合しつつ分離する、分離と結合の均衡へ。このモードチェンジがこの夢の全体的な伸縮の動きである。

すなわち下記の図でいうと、第一の場面で「古いおもちゃ」を逸話とそれを手放す動きは1)から2)3)に対応し、第二の場面は4)5)あたりに対応する。

原初の結合:ポップコーンになった女の子と牛車

最初の分離と結合の伸縮する様相をみてみよう。

夢見者と、ポップコーンになった女の子の関係である。

ポップコーンは食べ物である。夢見者がポップコーンを食べるとすると、ポップコーンは夢見者の体内に入ることになり、両者は非常に近く結合することになる。

さて、経験的には夢見者と結合し不可分一体になるはずのポップコーンを、夢見者は「トイレに流す」ことにする。これは過度な分離、一度分離したらもう戻ってこない感じの、分離したままになる分離である。

過度な結合の様相にある「食べ物」であるものを、「トイレに流されるもの」という過度な分離の様相に、一挙に転じる。

+ +

さらに興味深いことに、このポップコーンは「食べ物」であると同時に「排泄物と同等のもの」であり、さらにそれは「女の子」であったという。しかもこの「女の子=ポップコーン」は、夢見者を何らかの意味で脅かす存在であったらしい。

夢見者は「正当防衛」のために、つまり自分を守るために、自分が破壊されないために、自/他の境界を安定的に保つために、やむを得ず、この「女の子=ポップコーン」を過度に分離した。

* *

ただ、分離したと言っても、確かに物体的、肉体的な存在としては排水口を通じて目に見えない世界へと概ね分離していったが、しかし引き続き「」にはまだ多少のポップコーンの残滓があり、さらには「その子の魂」となると、いったい「どこにあるのか」、遠く遠く二度と結合してくることがないほど遠くにあるのか、それともまだ手の中の袋の残滓のもとにあるのか、遠くにあるのか近くにあるのか、分離しているのか結合したままなのか、どこにあってどこにないとははっきり言えない感じがする。流されていく「ポップコーンになった女の子」の断末魔の叫びのようなものが、まだ残響として夢見者の耳の奥で響き続けているような様相もまた、同じである。

ここでは「分離」と「結合」の二項対立関係が、安定的に分かれていない。

この分離と結合の間が激しく伸縮し続ける様相そ象徴するのが「牛車」のおもちゃである。このいま売却しようとしているおもちゃ、「ひな飾りのような大きさの、インド風の図柄があしらわれた木製の牛車」は、ポップコーンの女の子の存在感を強く感じさせる。

その女の子は、この「ひな飾りのような大きさの、インド風の図柄があしらわれた木製の牛車」を、強く「欲しがっていた」という。

欲しがる、欲する、欲望する。
分離を結合に転じようとする動き
である。



ここに「夢見者」「ポップコーンになった女の子」「牛車のおもちゃ」の三者からなる関係が浮かび上がる。

「ポップコーンになった女の子」→→分離を結合へ←←「牛車のおもちゃ」
 ┗「牛車のおもちゃ」=結合=「夢見者」
  ┗「夢見者」←←結合を分離へ→→「ポップコーンになった女の子」

牛車のおもちゃは、夢見者のものである。
つまり牛車のおもちゃと夢見者は結合の述語的様相にある。

ところがこの牛車を、「ポップコーンになった女の子」が欲しがる
結合しようとするのである。

ひとつの牛車を、「夢見者」と「ポップコーンになった女の子」の二人で共有、シェアできれば良いのかもしれないが、この夢のこの場面では、そのような付かず離れず、分離しつつ結合し結合しつつも分離するという様相は展開しない。

もし、「牛車のおもちゃ」が「ポップコーンになった女の子」と結合してしまうと、それは牛車のおもちゃを夢見者から奪うことになる。牛車のおもちゃは夢見者か「ポップコーンになった女の子」のどちらか一方としか結合できないのである。両方と同時に結合することができない。

こうなると夢見者は、自分と「牛車のおもちゃ」との結合状態を維持するために、「ポップコーンになった女の子」を遠くへと分離しなければならない。

・・・

そうして「ポップコーンになった女の子」を、夢見者と牛車から引き離すことに成功したようにみえるものの、しかし、どうも引き続き、「ポップコーンになった女の子」と「牛車」との間には結合、つながりが強く残り続けているような感じもするのである。姿は見えない「ポップコーンになった女の子」の魂が、まるでこの牛車に乗っているかのようである。

その牛車を、夢見者は「長い間」「目のつくところに置いて」いたのである。この状態は「夢見者」「ポップコーンになった女の子」「牛車のおもちゃ」三者の関係が、過度に分離しているようなしていないような、分離と結合の様相が絡み合って、分離/結合の間の分節が過度に振動したままになり、安定しない様相である。

牛車

このひな飾りのような大きさの、インド風の図柄があしらわれた木製の牛車の描写も印象的である。この牛車のおもちゃは、

  • かつては辛子色に塗られていた。

  • いまは、すっかり色が褪せて深い木の色に変色している。

  • ニスを塗ったようなつやがある。

という具合に、色艶の様相が際立って意識に残っている。

表面の塗装が剥がれて、材料そのものの肌理が露出している。
そのあらわになった材料の質感は「ニスを塗ったようなつや」で輝いている。

表層が剥がれ落ち、深層の肌理が顕になっている。
その深層はツヤツヤと光っている

これは、表層意味分節システムの固着が解け、深層の「素材」としての分離と結合の伸縮する述語的様相があらわになっている状態の象徴とみることもできそうである。

さらに牛車「容器」でもある。牛車は高貴な存在を中に入れて、運ぶことができる容器である。

そしてといえば「十牛図」や「牛に引かれて善光寺参り」の例にあるように、人を自我を、悟りへと、全体性へと、個性化へと導く存在でもある。

自我を全体性へといざなう容器となると、それはマンダラの象徴ということになりそうである。この牛車はつまりマンダラ的な容器の象徴として読むこともできそうである。

古道具屋へ牛車を売却

さて、夢見者はこの牛車を「老夫婦が営む古道具屋」に持ち込む。
骨董品として売却するのである。

売却の意味——使用価値から交換価値へ

売却され、商品となった牛車はお金と交換される。
ここで牛車の意味あいが「使用価値」から「交換価値」へと転換している。

  • 使用価値とは、ある物が特定の人との特定の関係において持つ価値である。夢見者の語る「後ろめたさ」のように、特定の持ち主の記憶や感情と強く結びついた意味づけをされた状態である。そこで夢見者と牛車の関係は、夢見者にとって固有の意味があるもの、容易に分離できない、固着した結合感を呈する。

  • それに対して交換価値とは、あるものを商品として、自在に貨幣に交換できるものにするということである。牛車は、買取の場面では例えば2000円に置き換えられ=結合し、また販売される時には10000万円に置き換えられ=結合し、という具合に、自在にさまざまな量の貨幣と分離したり結合したり、分離と結合が伸縮自在になる。この牛車の売却先が古道具屋であるというのもおもしろい。定価がついた新商品であれば、販売価格は決まっていて、固着している。しかし古道具・骨董品となれば、その価値、その結合先となる貨幣の量は、増えたり減ったり伸縮する。

牛車が飾り物として夢見者の近くに置かれていた間は「使用価値」として、所有者=夢見者の記憶、感情、「後ろめたさ」において、その意味・価値が固着していたのに対し、商品として骨董品市場に放出されると「交換価値」として、その価値は自在に伸縮する。

売却するということは、意味付けを固着したモードから、伸縮自在なモードへと、転換することである。重くうしろめたい意味に固着していたものが、かえってその「いわく付き」であることによって、交換価値を釣り上げることができるものになる。

この夢の最初の場面のように、過度な結合を、過度な分離に転じるだけでは、分離と結合の振れ幅が激しいままで曼荼羅状の均衡にはならない。

それがいま、商品、交換価値の世界に入ることで、分離と結合の伸縮が付かず離れずに緩やかに伸縮するようになった。

ここで古道具屋の主人が老夫婦であるという点もおもしろい。

夫婦、妻と夫は『神話論理』(レヴィ=ストロース)でも描かれるように、分離しつつ結合し、結合しつつも分離する、分離と結合の伸縮が適度に調整されたあり方の象徴である。

年老いた夫婦が営む古い店、となると、おそらくこの妻と夫とは、長く連れ添ったことであろう。この二人の間の関係は、付かず離れず、分離しつつも結合し、適度に結合しつつも適度に分離し、という均衡モードで定常化していそうである。

マンダラと『神話論理』と夢分析

ここで「マンダラ」について説明してこう。

マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)

神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している

神話の語りはじめには、まだ経験的で感覚的に「ある」と分別できる存在者たち、ここでは仮に「Δ」と表記するが、そういうものはない

何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くことから始めなければならない。

Δたちを配することができる「」を生成することからはじめないといけない。そこに野生の思考の神話論理が動く。そのために活躍するのが両義的媒介項である。経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような、振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(上の図ではΔに対するβ)という。

神話の語りは、まず図で「β」と表記した両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。

一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する、という具合に動く。この"分離を引き起こす軸"と"結合を引き起こす軸"は、高速で入れ替わっていく。


分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動き

両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている

そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。

そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で、両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)する。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするもの両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。

神話の語りは、まず経験的感覚的に区別される二つの事柄を過度に結合して(あるいは経験的感覚的に他から区別された一つのことを過度に引き伸ばして両端を分離して)両義的媒介項βを作った上で、このβ、両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。

このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

以上のプロセスを、両義的媒介項βと、その動きが描く振幅の間から浮かび上がってくる経験的感覚的存在者Δとの関係で図式化すると、概ね以下のような展開になる。神話の語りの展開、夢のビジョンの展開を、下記の図式に照らし合わせて読み解いていくと、自心の振れどころ、固まりどころを同定できるようになる

もちろん、全ての個別の神話や全ての個別の夢が、上の図のように機械的にいつでもどこでもだれにおいても同じ様に1)→6)の展開を見せるわけではないことに注意してほしい。ある夢だけ、ある神話だけであれば、上の1)〜6)の一部分だけが浮かび上がり他のモードには展開しないこともある。また浮かび上がる関係も、上の図式のような定型的な形に当てはまるものではなく、ずれたり、歪んたりする

そもそも、このような図式を片手に、夢のビジョンについての記憶を想起したり、神話の語りを想起したりする活動自体が、意識的に明晰な分析活動であるというよりも、どちらかと言えば夢の続き、神話の語りの続き(原典が存在しない異文の増殖)を伸縮させる心の動きなのである

ちなみに、筆者らが上の図式を思いつくに至った直接のきっかけは、クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』の精読を通じてのことである。
私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。

このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。世界各地に残る諸々の「神話」は、いま現在ここで生きる私たちからは、時間的に、空間的に遠く隔たった、特別なものと感じられるかもしれない。

しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んでこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。

伸縮する述語的様相にフォーカスして夢を想起 

「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる

この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」である。

特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。

夢の登場人物たちは主語の位置に据えられて報告される。

つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。

「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。

そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである

『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。

ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。

河合俊雄「監修者によるまえがき」,『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』p.8


さて、牛車のおもちゃが交換価値を担うことで、分離の述語的様相と結合の述語的様相が伸縮自在となったところで、この夢では、どのようにマンダラを浮かび上がらせていくのだろうか

ユングによる意識の四機能モデル

ここでユングによる意識の四機能モデルに触れておこう。

ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

  • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別

  • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別

  • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別

  • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別

この四つの機能がバランスよく、つかずはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる

一方、四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。

私たちは、何気なく意識的に日常を生きていると、しばしば、どれかひとつの機能ばかりに頼り切りになり、他の機能を無視するようなことが起きる。
例えば、私たちの自我は「思考」ばかり使って「感情」を沈黙させたり、逆に「感情」ばかりに頼り「感覚」を沈黙させたりする。例えば、「感情」が「好きではない」「嫌い」「行きたくない」と判断している職場や学校なのに、「思考」が「行くべきところである」と判断し無理を強いる、といったことである。そのような状態は、しばしば人間の心を疲労させるのである。

+ +

この夢の四機能はそれぞれ何に対応するか、順に見ていこう。

この夢に登場するものたちを、ユングの意識の四機能、「思考」「感情」「感覚」「直観」の象徴とみて読み解いてみよう。

もちろん、こういう読み方自体が新たにもう一つの夢を意識的にみる、アクティブ・イマジネーションの試みのようなものであって、ここで「解釈」が「唯一無二の正解である」などということは全くない。これはレヴィ=ストロース氏が、ある神話を分析することは神話の異文を語っていることに他ならないのだと述べていることと同じであり、客観性と対立する限りでの主観性の世界に入り込む際に羽ずれずにおきたい構えである

感情の転換:おもちゃの牛車

今回の夢において、まず際立って働いているのは「感情」ではないだろうか。「感情」は好き/嫌い、つまり自我と結合しておくべきものと分離しておくべきものをはっきりと分別する。自我にとって結合すべきものが分離してしまった、分離すべきものが結合してしまうとき、マイナスの感情が喚起される。逆に自我にとって分離しておくべきものが正しく分離されたり、結合しておくべきものが正しく結合されるとき、いわゆるプラスの感情が喚起される。

この夢では、「感情」、好き/嫌い、自/他の結合や分離の様相を象徴している、「ポップコーンになった女の子」の思い・残留思念が張り付いているような「おもちゃの牛車」であろう。特におもちゃの牛車は、正当防衛とはいえトイレに流してしまったポップコーンの女の子の思いが張り付いており、どちらかといえば禍々しいもの、おそろしいもの、身近なところからは「分離」しておきたいものに思える。しかし夢見者はこの牛車のおもちゃを、長く、近くに、時間的にも空間的にも、自らに結合している。流してしまった「ポップコーンになった女の子」を祀るかのように、牛車のおもちゃを「いわくつき」と思いながら身近に置いておく。好き」ではない(むしろ「嫌い」に近い)にもかかわらず分離できない。好き/嫌いを分別するはずの感情が、「嫌い」と感じながら分離できないという矛盾した様相をおびている。後ろめたさとは、まさにそのような矛盾した状態の名前ではないだろうか。

この「感情」は仏教の八識でいえば、第七末那識である。第七末那識は自/他を分け、その境界を確立しようとする。「自」を脅かし「自」に破壊的な影響を及ぼしてくる「他」は、周到に「自」から分離されなければならないし、「自」の安定を維持再生産することに寄与する「他」ならば、どこか遠くに分離した状態から結合状態へと転じなければならない。

そのような感情、第七末那識が、矛盾モードに入っていること、好き/嫌いを機械的自動的固定的に分別するのではない、曖昧なモードに入っていることは、第七末那識が平等性智に転じつつある様相と言えるかもしれない。

感覚の転換:ポップコーン

つぎに「感覚」、ある/ない 分けたり分けなかったりする様相象徴しているのは、「ポップコーン」である。例の「女の子」が変身しているのだという「ポップコーン」である。

「ポップコーン」は、幾つにも分かれつつ全体で「ひとつ」のおなじ「ポップコーン」であり、袋=容器の内から外に出たり、上から下に落下したり、排水口に吸い込まれていったり、袋のなかにぱらぱらといくつか残ったりと、あったりなかったり、ないようになったりあるようになったりある/ないの両極のあいだが分かれたり分かれなかったりする様相を体現している。

特にこれがトイレに流されたという述語的様相が興味深い。

あるがないへ。

感覚できる様相から感覚できない様相へ。

一粒一粒がはっきりと分離して際立った様相から、水流に巻き込まれて渾然一体に混じり合う様相へ。感覚的対象が分かれているでもなく分かれていないでもない様相に入る。

「感覚」は、仏教の八識でいえば前五識であろう。
「感覚」、前五識が、矛盾モードに入っていること。ある/ないを機械的自動的固定的に分別できない、あるようなないような曖昧なモードに入っていることは、前五識が成所作智に転じつつある様相と言えるかもしれない。

思考の転換:古道具屋の老夫婦

そして「思考」、ものごとがなにであって/なにでないか、を分別する働きを象徴するのは、牛車のおもちゃに「値付け」をする、価値の高/低を判断する、古道具屋の老夫婦であろう。特に古道具屋は、一見しただけではその価値が不明な(あるいは価値が低かったり、無いようにみえる)古びた、塗装のはげ落ちたおもちゃのようなものを鑑定し、その隠れた価値を発見する。価値が低そうなものを高い価値へと変換するのである。

古道具屋においては、価値の高/低が固まっていない。なにであって/なにでないかが固まっておらず反転する可能性に開かれている。

「思考」は、仏教の八識でいえば第六意識であろう。

「思考」、第六意識が、矛盾モードに入っていること。
なにである/なにでないを機械的自動的固定的に分別できない曖昧なモードに入っていることは、第六意識が妙観察智に転じつつある様相と言えるかもしれない。

転識得智

このように、成所作智になった前五識、妙観察智になった第六意識、平等性智になった末那識、そして大円鏡智になったアーラヤ識が、どれかひとつだけ突出して自己主張して他を沈黙させたり無視したりすることなく、四つの「智」がそれぞれその得意とする分けつつつなぎ、つなぎつつ分ける動きを動かしながら、四即一にして一即四に共鳴し合うモードが、いわゆる五智如来の曼荼羅なのである。

  • 「感覚Empfinden」:ある/ない、を分別|前五識
     
    →これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「成所作智」

  • 「思考Denken」:なにであるか/なにでないか、を分別|第六意識
     →
    これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「妙観察智」

  • 「感情Fühlen」:好き/嫌い、を分別|第七末那識
     →これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「平等性智」

  • 「直観Intuieren」:現れてくる/消えていく、を分別|第八阿頼耶識
     →これを分けつつも選ばないモードに組み替えると「大円鏡智」

ユングの感覚、思考、感情、直観の統合による個性化の話を、いきなり五智如来の曼荼羅読み替えるのは「訳がわからない」と思われるかもしれないが、これについてはユング自身が次のように書いている。

四機能というアイディアは、いわば地下的な元型的パターンに基づいているとお伝えしました。[…]四機能を見出した時には、それが元型パターンであることを知りませんでした。
 後になってわかったことなのです。非常に驚いたことに、古い文献にとてもよく似た図を見つけ、当然自問しました。「さて、どいうことだろう[…]」[…]私はこの四が心理学的機能として理解されていたかどうかを調べるために資料にあたり始め、そしてそのような文献を見出したのですつまり『バルド・トドゥル』いわゆる『チベット死者の書』です。」

C・G・ユング『C・G・ユングのセミナー パウリの夢』p.221

ユングが「非常に驚いた」、この『バルド・トドゥル』に書かれてる「四機能」とは、他でもない、「成所作智」「妙観察智」「平等性智」「大円鏡智」、そしてこの四つの智=瞑想の境地に入る大日如来の「法界体性智」からなる五智如来のマンダラのことなのである。

ユング自身による『バルド・トドゥル』の解説は1935年の「チベット死者の書の心理学」という文書で読むことができるので、ご興味がある方はご参照ください。下記の文献で読むことができます。

アモーガシディ(不空成就如来)、アミターバ(阿弥陀如来)、ラトナサンバヴァ(宝生如来)、バジュラ・サットゥバ(金剛薩埵←阿閦如来)と書かれている。

そういうわけで、ユングのいう感覚、思考、感情、直観の統合による個性化の話は、八識を転じて四智とし(前五識→成所作智、第六意識→妙観察智、第七末那識→平等性智、第八阿頼耶識→大円鏡智)、この四智を共鳴させてマンダラ状の調和に至る、という話と同じことを考えようとしていると言えそうである。

ここで特に面白いのは、「ある/ない」を分別する前五識=感覚Empfindenが、そのまま不空成就如来の瞑想の境地「成所作智」とイコールではない、ということである。

前五識=感覚は、そのまま「成所作智」ではない。

前五識=感覚を「あるでもなくないでもない」不可得を観じることができる境地に転じることができたところで、はじめて「成所作智」になる。

同じく、「なにであるか/なにでないかを分別する第六意識=思考も、そのまま阿弥陀如来の瞑想の境地「妙観察智」とイコールではない。第六意識=思考「なにかであることもなくなにかでないこともない」不可得を観じることができる境地に転じることができたところで、はじめて第六意識=思考は「妙観察智」になる。

「好き/嫌い(つまり自他を分けて自と結合するか/分離するか)」を分別する第七末那識=感情も、そのまま宝生如来の瞑想の境地「平等性智」とイコールではない。自他を「分離するでもなく結合するでもない」不可得を観じることができる境地に転じることができたところで、はじめて第七末那識=感情は「平等性智」になる。

そして「現れてくる/消えていく(他にもっと適切な言い方がありそうだが)」を分別する第八阿頼耶識=直観も、そのまま阿閦如来の瞑想の境地「大円鏡智」とイコールではない。不生不滅の不可得を観じることができる境地に転じることができたところで、はじめて、第八阿頼耶識=直観は「大円鏡智」になる。


直観

さて、先ほどの夢について、残る第四の機能「直観」の象徴はどうなっているだろうか?

これについては夢の後半の場面を見ていく必要がある。

直観の開示:白い天幕のギャラリー、メジロ、太閤の幼少期

夢では場面が一変する。

白い天幕が貼られた、天井の高い、空間全体がスクリーンのようなアートギャラリー

白とは、色すべての混合であり、また色のなにもない状態でもある。
これは「分節/無分節」の分別さえも解けた、絶対無分節の様相に近い。
天幕(テント状の布)もまた、外と内を区切りつつも、その境目が柔らかく透過性がある。内が外を包み、外が内を透かして差し込む、そのような境界の両義的な様相が、白い天幕という空間全体に漂っている。

この空間の描写について、夢見者は、コロッセオのような巨大な建築物、それも浴場になった建築物のビジョンをイメージしたと報告している。
これはマンダラに転じた世界、マンダラという姿で、人の心に浮かび上がった「法界」の像のようである。


さて、そのマンダラを包み込む容器のような空間の中で、夢見者は「太閤秀吉が幼少期に語ったとされる記録を映像で再現した作品」をみる。

秀吉といえば、戦国時代を終わらせ、後の時代につながる新秩序、のちの徳川幕府につながる安定した分別のある世界、分節体系が固まった世界を固めたひとである。

夢見者は、その「天下人」レベルの秩序構築の武勇伝には、あまり興味を惹かれない。しかし、その秀吉の「幼少期」、つまり未だ天下人でもなく、秩序の構築者でもない、子どもである秀吉が語った世界の再現映像を、「好ましい」と思う。「幼少期」は、分別がまだ固まりきっていない時期でもある。秀吉がどんな大人になるかも、どんな天下人になるかもまだ定まっていない、そのころの語りを映像化している。これはまだΔ項として固まる手前の、述語的様相がのびのびと動いている段階の記録を観ているということである。

その幼少期の秀吉が語ったビジョンとは「メジロのような小鳥が地面をチョコチョコ跳ねて、穀類をついばんでいる」様子である。それをここでは「エスキースの線」で表現された手書きアニメーションで映像化している。

豪華絢爛、黄金の茶室のイメージが強いのちの天下人秀吉に比べると、シンプルな線が踊る小鳥の食事風景は、なんとも静かで落ち着いて、白っぽい透明で澄み渡っているように思える。夢見者はこういうイメージなら「好ましい」と思う。

そしてこの真っ白に微かな線が踊る世界が、あの天下人「秀吉」の幼少期のビジョンだと明示されることで、のちの黄金の茶室の世界の始まりの原風景なのだと強調される。この様相は「直観」の分別機能の象徴として読めるのではないだろうか。

直観」とは「現れてくる/消えていく」を分別する機能である。何かがやってくる気配のようなものを分節するのが直観である。歴史の霧の中から「語ったとされる」言葉が、淡い映像として現れてくる。これは直観がとらえる「現れてくるもの」の象徴としてとても適切である。

そしてその映像の中で描かれているのが、メジロのような小鳥が地面をチョコチョコ跳ねて、穀類をついばんでいる姿である。

これは実に美しい直観的映像である。

小鳥は、地面(大地、静止、「あるもの」の世界)と、(天上、飛翔、「ないもの」に向かう世界)の中間にいる存在である。しかもその小鳥が「地面をチョコチョコ跳ねている」のであるから、完全に地に着いているのでもなく、空に飛び立つのでもない。地面との接触と分離を、素早く繰り返している。しかも、小鳥は穀物という、ちょうどポップコーンと非同非異の関係にあるものを、啄んで食べていく。小鳥の身体の「外にある」穀物を、食べることによって、「内に取り込む」という、内/外をつなぐ結合の動きを呈している。

天と地のあいだ、外と内のあいだチョコチョコという伸縮のリズム。これはリズミカルなβ脈動が描く波紋状のパターンとして、Δ項が定常的に収まる位置が析出される動きであり、すなわち、マンダラを状の均衡を描く動きである。

このマンダラの始まりが、巨大なものではなく、小さな小鳥の動き、跳ねて啄む動きで象徴されているのが美しい。しかもそれが「手書きのアニメーション」であり「エスキースの線が動いている」という表現の形をとる。

エスキースとは下書きであり、完成形ではない。完成形に向かって動き続けているが、完成形には到達しない、その途中の動きそのものが示されている。これもまた直観的な分節の様相である。

完成した(分節が固まった)世界ではなく、分節しつつある運動の途中が、エスキースの線として躍動している。

夢見者はこれを「好ましいと思う」。

分かれているようで分かれていない、つながっているようでつながっていない、その付かず離れずの時間の中で、小鳥はチョコチョコと跳ねている。

「直観」は、仏教の八識でいえば第八阿頼耶識である。
「直観」、第八阿頼耶識が、分けるでもなく分けないでもないモードに入っていること。何かが現れてくる/きえていくを機械的自動的固定的に分別できない曖昧なモードに入っていることは、第八阿頼耶識大円鏡智に転じつつある様相と言えるかもしれない。

まとめ

この夢においては「感情」「感覚」「思考」「直観」が、それぞれの分別、分節作用を働かせつつも、分けるでもなく分けないでもないモードに切り替わっている。

特に、第一の場面から第二の場面に切り替わり、最後には「好ましい」という「感情」があらわれる。この好ましさは、前半の後ろめたさという感情が減速されたものであるように思われる。

後ろめたさは「嫌いだが分離できない」という主に感情面における分離と結合の激しい伸縮というか、分離と結合のあいだを矛盾したまま短絡する緊張の関係であった。

それに対して「好ましい」は、これもまた感情であるが、「好きだが執着しない」というゆるやかな結合感である。

ここへきて「感情」も分離するでもなく結合するでもないモードに安定的に入っているといえよう。感情・第七末那識は、分けて、選び、こだわる、執着する自我が発生するポイントである。鈴木大拙も、「霊性と云うのは、末那識の上において生じたる転回後の働き」であると書いている(『浄土系思想論』p.16)。

今までは知性の分別面ばかりを見ていて、内には我執を養い、外には煩悩増進の機会のみを作った。それで、地獄や極楽の夢を見て、悩みの種を蒔いていた。

ところが、ここに百八十度の大転回が行われた。それからは今まで見ていた感覚の世界がもとのものでなくなった

なるほど、旧に依りて鳥は黒く鷺は白いが、その白黒が白黒でなくなった。併しそれは一味平等の無差別になったと云うのではない。そう云えば、それは知性上の分別を出ないであろう

転回後の末那識はもはや六識の緊縛を受けぬ却ってこれを頤使するのであ る。自由創造の世界が進展して来た。これが法界である。これが極楽である。

鈴木大拙『浄土系思想論』pp.16-17

第七末那識・「感情」が、好き/嫌いを固定的に分別し、自/他をいつも同じように分別しようとこだわる時、第六意識や前五識は、末那識に対して、好ましいもの=「自」と結合すべきものと、好ましく無いもの=「自」と分離すべきものを、次から次へと放り込んでくる機能にみえてくる。末那識は第六意識や前五識が分別して放り込んでくるあれこれのものごとを、これは好き、これは嫌い、と分けて選ぶことに忙しく汲々としている。この時第七末那識は、「六識の緊縛を受け」ているかのようである。そうして「内には我執を養い、外には煩悩増進の機会のみを作」ることになる。

ところがこれが「大転回」し、末那識が、自/他を分けつつ分けず、分けないが分ける「平等性智」に転じたとき、平等性智は前五識や第六意識が分けて選んで運んでくるものに対して好きだ嫌いだと汲々とすることなく、なるほどそういう分け方もあるのか、などと大きく構えて眺めていることができるようになる。

こうなると、前五識もまた、自在に分けて、選んだり選ばなかったりするけれどもどこかにこだわって固着することのない成所作智に転じ、第六意識もまた自在に分けて、選んだり選ばなかったりするけれどもどこかにこだわって固着することのない妙観察智に転じる。

さらに、第八阿頼耶識も、固着した妄念の発生源ではなくなり、分節と無分節の区別さえもが分かれるでもなく分かれないでもなく動く絶対無分節の分節の動きたる「大円鏡智」に転じる。

こうして八識が四智(五智)に転じ(転識得智)、この四智がお互いに響き合うように共鳴するところに、法界体性智がマンダラ状のパターンを描いて、人の心に、人の自覚的意識の表面に浮かび上がってくる。

この夢の展開は、まさにマンダラが示現するプロセスの一典型であると解釈できる。

左から:「思考」担当、「感覚」担当、「感情」担当、「直観」担当


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