改めて文化人類学はおもしろい-奥野克巳著『入門講義 アニミズム』を読む
奥野克巳先生の『入門講義 アニミズム』(平凡社新書)を読む。
奥野先生といえば、今を遡ること数年前、清水高志先生との共著『今日のアニミズム』に深い感銘を受けたものである。
その奥野先生が入門講義と銘打って、大学生や高校生の方に向けた語りかけるような文体で、ポケモンにジブリにAIとの恋愛に、「猫あるき」の岩合さんにと、世にひろく親しまれているテーマを「アニミズム」の観点から読み解いていく。
これはぜひ手に取っておきたい一冊である。

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曼荼羅
さて、『入門講義 アニミズム』、私がこの本で「おっ!」と思ったのは、208ページ、「あとがきにかえて」の最後に、「文字だけでは伝わりにくいアニミズムを表現するために」「「曼荼羅」のような図解」を掲載したと書かれているところである。
曼荼羅、マンダラ・・・アニミズムを表現するためのイメージとして、マンダラが適している。
マンダラは、六道のうちの紛う方ない一つである人間道の苦行に勤しむ人類が、その分別心に無分別心を重畳させるためのチューナーのようなものである。と、私はつねづね考えている。

人間の分別心は、何かについて二つに分けて、あれかこれかを分けて、選んで、こだわろうとする。しかしその、せっかく選んで、こだわって自分のもとに結合しておきたいと願ってやまない対象や他者たちは、すべて、いつも、いつか、必ず自分から分離していく。諸行無常、ただ春の夜の夢の如しであるが、これが分別する心にとっては苦しみに感じられる。
また逆に、分離しておくべきものとして選び分けて、排除しておきたいと願ってやまない対象、他者たちが、どういうわけだか、いつも、いつか、必ず向こうからこちらへ、結合するように迫ってくる。これも苦しい。
結合を分離に転じようとする動きと分離を結合に転じようとする動きは、実は表裏一体、同じひとつの動きの二つの相にすぎないのであるが、われわれの分別心の全体が、特に第七末那識の分別に強く薫習されると、自/他の分け方を固めて、自分にとって好ましくない他なるものは分離したら分離しっぱなし、自分にとって好ましい他なるものは結合したら結合しっぱなしにしておきたい、という欲が出る。しかし、そういう固定は決して叶わないようになっているのである。地球が早晩消えてなくなることを思い出さざるをえないところである。
分別心は、分離したいものと結合される苦しみ、結合したいものと分離される苦しみを人間にもたらす。
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二辺を離れる
この苦しみに囚われることがないようにするにはどうしたらよいか??
この問いに応えたのが釈迦如来であって、その教えの核心は「二辺を離れる」ということにあった。二辺を離れる。正確にいえば、離れるというか、離れているような離れていないような、というくらいの付かず離れずである。
「二辺を離れる」といっただけでは、二辺を
離れている / 離れていない
という分節が固まり、そして
離れている / 離れていない
|| ||
良いこと / 悪いこと
という分別が固着する。
離れないとだめだ、離れないとだめだ・・と、離れることにこだわり、離れられないことに苦しむのである。
そういうわけで、二辺をともに離れつつ、離れるといっても蛇が脱皮した皮をそのへんに転がしたままにしておく感じで、身近に転がしておくのである。この辺りの話は「スッタニパータ」という仏典に書かれている。
無分別・無分節
さて、このような分別を離れるあり方、離れると離れないの分別も離れる(つまり付かず離れず)あり方を、無分別、無分節、あるいは絶対無分節、などと呼ぶ。
ここで『入門講義 アニミズム』の目次を開いてみよう。

分別と無分別の話が第3章に登場する。
アニミズムは、どうやら分別と無分別のあいだで動くことであるらしい
ということが目次からも伝わってくる。
アニミズムとは
アニミズムという用語の基本的な意味について、冒頭に次の様に書かれている。
アニミズムは、決して人類の古い迷信などではなく、人間と動物、植物、さらには石や川など、身の回りのあらゆる存在に心や内面性を感じ取る感覚や感性のことです。
それは、「人間だけが地球の主人ではない」という、とてもシンプルだけれど、私たちが忘れがちな考え方だといえます。
アニミズムは「古い迷信」ではない。もしアニミズムが古い迷信であるならば、人類の歴史のもっとも発展した最先端を生きているはずの現代人にとって、アニミズムなどまったく自分と無関係な、取るに足らない話ということになるだろう。しかしそうではない。アニミズムは「身の回りのあらゆる存在に心や内面性を感じ取る感覚や感性」である。現代を生きるわれわれもまた、われわれ自身の「身の回り」の「あらゆる存在」にその「心や内面性」を感じることができないことはない。
『入門講義 アニミズム』で奥野先生が書かれているように、現代もわれわれもまた、ゲームのキャラクターや、物語りの登場人物、あるいはぬいぐるみ、そしてLLMのAIなどに「心や内面性」があるような感じを覚えることがある。あるいはペットの動物たちや、大切に育てている観賞植物、あるいは長年使っている道具や模型やフィギュアや車やバイクなどに「心や内面性」があると感じ、こちらが言葉をかけると、それらのものたちが私たち人間の心の中に直接応答して言葉を返してくれているように感じる、ということもあるだろう。
ゲームのキャラクターやぬいぐるみや自動車は「人間ではない」という点で私たちとは異なるが、しかし、どうにも心が通じていている、私たちと同じように「心や内面性」をもっていて、私たちと通じているような気がする、という感じである。ことによると、縁もゆかりもない赤の他人よりも、共に暮らすペットや愛車やコレクションのフィギュアの方がよっぽど「人間的」だと感じるという場合もないわけではないだろう。
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現代人にとってアニミズムとは
ところが、こういうアニミスティックな感覚、感性に対し、しばしば現代人の分別する思考は、非合理的だとか、幼稚だとか、分別がないなどと言って非難を浴びせてきた。
区別をはっきり固めておくことを目指す思考の働きは、人間と動物、人間と人工物などの区別をあえて緩めるようなアニミスティックな感情(「好き」という感覚による一体感)や感覚(人間の言うことやることを、聞いてくれている、見てくれている、感じていてくれているような気がする)の働きを、「無分別」なこととして非難するのである。
ところで奥野先生は、この「無分別」という言葉をより積極的な意味で捉えることを呼びかけている。
ここでいう「無分別」とは、思慮が足りないということではなく、主客や自他の対立を超えて世界を捉える思考のことです。
実は、思考による無分別に対する非難は、「思考」ということの機能を考えると、至極妥当なことではある。
思考とは、ものごとを「あれか/これか」はっきりといつも同じ様に分ける働き、ある何かが「何であって/何ではないか」をいつも同じ様に固定的に分ける処理だからである。
思考にとっては、思考がせっかく固めた区別を、例えば「感覚」や「感情」や「直観」が勝手に動かして、せっかく思考が区別した二つの事柄を、好き勝手に結合しなおしたり、別の分離の仕方で区別しなおしたりしてくると、思考としてはどうも納得がいかない、となるのである。
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非同非異の論理へ
ここで「思考」「感覚」「感情」「直観」という言葉を使ってみたが、これはC.G.ユングの議論を参考にしたものである。アニミズムの話から脱線する様だが、実は深いところで繋がる話なので詳しく説明しておこう。
人類の心の深層の、それ自体としては観察不可能な動きの動き方の癖のようなことを、表層意識に浮かび上がってきた言葉やイメージを手がかりにして記述し、分析してみようというのが、C.Gユングの課題であった。
ユングは人間の意識を「感覚」「思考」「感情」「直観」という四つの分別、四つの分ける働きが組み合わさって動くものと整理した。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
人間の意識は思考だけで作られているものではない。
意識には「思考」「感覚」「感情」「直観」の四つの機能がある。これらはいずれもそれぞれ固有の分別、分節を行う働き、分ける働きであるが、そのどれか一つ、例えば思考ばかりに依存するのではなく、四機能が互いに互いを牽制しあったり補い合ったりすることで、人の心は全体性に到達する、というのがユングの考えである。
この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。
逆に、四つの心的機能間のうち、どれかひとつかふたつだけが強く働き、他の機能を押さえ込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
心が、この調和の取れたあり方に均衡していることを意識の表層に知らせるのが「マンダラ」という象徴である。

『入門講義 アニミズム』の上の引用箇所で奥野先生が書かれている「感覚や感性」と言う用語と、ユングが「個性化」について論じる文脈で用いている「思考」「感覚」「感情」「直観」という用語では、その文脈、ニュアンスは当然異なるものであるが、ここであえて、アニミズムの話をユングの用語の側に寄せて読んでみると興味深いことがわかる。
分別の固着を無分別に浸して緩めるアニミズム
奥野先生は『入門講義 アニミズム』の冒頭、上に引用した箇所に続けて、次のように書かれている。
アニミズムを学ぶことは、単に伝統文化の知恵を知るということではありません。私たちが自然を一方的に管理する主人ではなく、他の生き物やモノたちとともに地球に暮らす仲間なのだと気づくことなのです。
アニミズムは「身の回りのあらゆる存在に心や内面性を感じ取る」感覚と感性は、「人間だけが地球の主人ではない」という認識(思考)を可能にする。これはとてもおもしろいことである。
通常、現代人の独立自存した合理的理性的思考は感情や直観、感覚がきめ細かく動かす分別するでもなくしないでもないモードを等閑視して、固定的な分別を機械的に固めようとする傾向を示す。
現代の人類のとっての意味ある世界を分節している、そのような固定的な分別の代表例が
人間 / 非人間
|| ||
主人 / 奴隷
この二重になった二項対立関係、四項関係である。
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現代社会の、アニミズムを遠く離れたごく一般的な思考による分別(ふんべつ)では、人間と非人間(動物や植物や、海、山、川、空などの自然)は、はっきりと区別され、お互いに混じり合うことなく、また主人と奴隷(あるいは手段、資源)もはっきりと区別され、お互いに混じり合うことはない。
そして人間こそがこの地球あるいは宇宙の「主人」であり、人間意外のものたちは動物でも植物でも自然界のあらゆるものは、主人を利するための「奴隷」として、いや、奴隷という言葉がお嫌であれば、材料として、資源として、手段として、有効に利用されて然るべきだ、と考えられがちである。
人間の豊かな生活の発展を維持するためには、自然界に多少の負担がかかるのは当然、仕方ないことだし、そもそも人間はすごい知能と技術をいくらでも創造できるのだから、何か問題があれば、その都度、優れて合理的な人間がその技術で解決すればよいのだ、ということになる。
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人間が自然を制御しなければならない、という考えの始まり
人間と自然の関係を二元的に考え、しかも一方が主で他方が従であるとする分別が人類に広まるきっかけは、もともと移動しながら狩猟採集を行っていた人類が、「農耕牧畜」をするようになったことにあるのではないか。
という説が、第2章の冒頭に紹介されている。
およそ1万年前から、人間は田畑を拓き、家畜を連れて移動して暮らしてきました。それらは、食糧生産のために自然を改変する行為です。人間の自然への介入と言い換えてもいいかもしれません。ヒトは農耕・牧畜で周囲の生態系を変え、ときには種を絶滅させるほどの力を行使しました。
その背景には、人間と、生物や無生物を含む「非人間」(人間以外の存在のこと。以下で は、「非人間」という言葉を用います)との間に明確な区別がなされ、それらの間に「支配 と服従」の関係が築かれたことがあります。もちろん、核実験や巨大な化学工場ほどの支配力はありません。しかし、少なくとも農耕・牧畜という行為には、自然を思い通りにコ ントロールしようとする、人間の思考が内在しています。
農耕牧畜は「食糧生産のために自然を改変する行為」である。
農耕牧畜の開始により、人類にとって、人間と自然の関係を二元的なものと考えることが合理的になった。人間は人間、自然は自然でそれぞれ別々にそれ自体として存在しており、人間の方が主になって、従たる自然を材料にして人工物を生産するのだ、という考えが説得力をもつようになる。それはその通りで、畑を眺めていると、勝手に畝ができて、勝手に種が飛んできて、勝手に水が撒かれ、勝手に実る、ということはないのである。
農耕牧畜の時代を通じて、人間と自然を分けて考える二元論的思考が強化されていった。例えば、古代ギリシアの哲学にも、「理性的な存在である人間は自然に対して優位であり、自然を秩序化し、飼い慣らすべき存在である」との思考法が見られる。また近代の「主客二元論」では、「非物質的な精神と、物質的な身体は別もの」という思考法がより前面に出てくる。
精神 / 物質
心 / 物
この二元論である。
近代に至り、大きなエネルギーを動かすことができる機械の発明によって、より大規模に自然をコントロールできるようになった人類にとって、「精神をもつ人間は自ら思考することができる主体的存在ですが、動植物、水や石など自然界の非人間は、精神をもたず、思考することもない不活発で機械のような客体的存在」との考え方がますます説得力を持つようになる(p.29)。
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狩猟採集で生きる人々の考え方
それに対して農耕牧畜以前の狩猟採集の世界では、人間もまた自然の一部であるという考え、両者を分けるけれども完全に分けずに繋がったものと考えるほうが経験的な現実を理解する上でリアリティがあった。
狩猟採集生活の人類は、自然の只中に入り込んで「あるがままの自然から糧を得て」暮らしていた(p.26)。
そうした「あるがままの自然」の中で、動物や植物と駆け引きしながら、食い/食われるの二極が、捕食者と獲物の関係が、くるくると交代する中を潜り抜けつつ食べるものを獲得して命を繋いでいかなければならないところでは、アニミズムの「人間と動物、植物、さらには石や川など、身の回りのあらゆる存在に心や内面性を感じ取る感覚や感性」は、生き延びるための叡智であった。
『入門講義 アニミズム』の72ページで、奥野先生はレーン・ウィラースレフ氏の『ソウル・ハンターズ』から次の一節を引用されている。
アニミズムとはどう言うことかを知るのに最適な一節である。
「私」と「私=ではない」とが、「私=ではない=のではない」になるような、奇妙な融合もしくは統合である。私はエルクではないが、エルクでないわけでもない。同じように、エルクは人間ではないが、人間ではないわけではない。他者と似ているが、同じように、同時に異なってもいるという、この根源的な曖昧さは、動物と人間が互いの身体をまといながら、なりすました種に似ているが、まったく同じというわけでもないやり方でふるまうという[…]
「私」 / 「私=ではない」
「私」が人間である狩猟者で、「私=ではない」はこの場合獲物となるエルクである。狩猟者である人間と獲物であるエルクが別々に区別されているのは当然だと、現代人は思考、分別するところだろう。
しかし、ここで論じられているシベリアのユカギール族の狩猟者たちは、森の中で狩猟者と獲物という関係においてエルクと向き合う只中で、人間は人間でエルクはエルクだ、という分別を緩めるのである。「私はエルクではないが、エルクでないわけでもない」「エルクは人間ではないが、人間ではないわけではない」という境地に入って、間合いを詰めるのである。
人間がエルクだ、と言っているのではない。
エルクが人間だ、とも言っていない。
人間とエルクを区別できなくなっているわけでもない。
人間とエルクは別々に分けられる。
そして分けられたまま、森の中で対峙し、敵なのか仲間なのか、狩ろうとしているのか狩ろうとしていないのかを曖昧にしながら間合いを詰めていく。
ユカギールのアニミストたちは、「事実」と「空想」を切りわけずに、自分とエルクがそのどちらでもあり、どちらでもない瞬間を狩猟の際の往還の動きのまっただなかで経験するのです。その動きのなかで、エルクが人間と何ら変わらない同じような存在だと直観されるのです。それが「動のアニミズム」です。
森の中で、狩猟者である人間は獲物であるエルクの姿をみとめている。
そしてエルクの側も人間が近くにいることに気づきつつある。
このときに、もし人間がいきなり狩猟者対獲物の分別=対立関係を当然の権利であるかのように全面に主張して「私は人間ですよ!エルク!あなたは私のために肉料理になりなさい!」と叫びながらエルクの方に突進して行くような真似をするならば、当然エルクは速やかに逃げていくか、場合によっては怒って人間を蹴り飛ばすことだろう。いずれにせよ狩は失敗である。
森の中でのエルク猟では、狩猟者は、その矢なり弾なりが届く距離まで、エルクに近づく必要がある。当然近づいてる人間にエルクも気づく。この時に、人間である狩猟者は、さもエルクの仲間のような雰囲気を出して、「あなたとわたしは同じ仲間、わたしはあなたを食べるつもりはないですよ」という気配で近づいていく。この時、狩猟者である人間は、人間かエルクか「そのどちらでもあり、どちらでもない」局面に入り込む。
その気配を感じたエルクは、一瞬「あれ?逃げた方がいいのかな?いや、それとももしかして仲間??」と判断に、分別に迷う。距離を開くべきか開かずにおくべきか、分離に向かうべきか結合に向かうべきか、一瞬どちらにしようか迷うのである。
その合間に、狩猟者は射程距離までエルクに近づくことが可能になる。
ここで狩猟者はエルクのようでエルクでないものから人間に戻って、狩猟者に戻って、仕留めるのである。
そうしてエルクの肉は狩猟者である人間に食べられるのであるが、狩猟者もまた、エルクとの距離を詰めつつある只中で、自分が人間でもなくエルクでもないものに変容していたことを覚えており、思い出すことができる。
エルクの肉をいただきつつも、そこに心と心のつながりを感じ続ける。食べている自分と食べられているエルクは二つに分かれているが一つであり、しかし一つであるがやはり二つでもあるが、やっぱり一つなのだ、ということが感じられる。
いま人の側の束の間の生を引き延ばすために、こちらとあちら、生と死の両極に分かれはしたが、いずれ早晩、いまエルクを食べている人間もまたあちらにいくのだ。そしてエルクと人間、狩猟者と獲物の二者関係のあいだに広がり伸び縮みしている“どちらでもあってどちらでもない”場は、あの世とこの世のあいだも、生と死のあいだも、同じ様分けつつつなぎ、伸縮しているのであると心の深いところで感じることができるようになる。
この「動のアニミズム」においては、存在そのものの成り立ちを超えて、常に、私(自己・人間)はあなた(他者・非人間)になったり、あなたもまた私にな ったりするのです。人間はクマになって人間をみたり、 神や死者の視点で世界をのぞいたり、人間によって傷 つけられた山や川の痛みを感じることさえできるのです。
人間と自然は、別々に異なっているわけではなく、単純に区別なく同じと言うわけでもない。人間と自然は、異なりながらも同じであり、同じでありながらも異なっている。非同非異である。このことを感じるのがアニミズムである。
非同非異
この非同非異、同じでもなく異なってもない、一つに結合しているでもなく多に分離しているでもない、というあり方は、自/他、人間/動物、人間/自然、心/物、生/死、ありとあらゆる二項対立関係、人間の思考や感覚や感情や直観が区別する分別する、ありとあらゆる二項関係のあいだで動いている。
自/他、人間/動物、人間/自然、心/物、生/死
こういうことを分別して、どちらがよい、どちらが悪い、どちらと結合したい、どちらと分離したい、とやるのは人間の分別心の働き、ユングのいう表層の四機能、思考、感覚、感情、直観の働きである。
ここでユングのいう「思考」「感覚」「感情」「直観」の四つの分別、分けて選んでこだわる働きを、仏教の唯識思想における八識による分別と対応させて考えてみるとおもしろいことがわかる。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)
→「感覚」:ある/ない、を分別「第六意識」
→「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別「第七末那識」
→「感情」:好き/嫌い、を分別「第八阿頼耶識」
→「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。
その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって、恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。
およそ人間的な苦しみとは、分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していくところに生じる。
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ここで仏教、この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、ということを実践する。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。空海の『吽字義』でいえば、字義ではなく字相の方の働きである。
それに対して、心の表層の直下にひろがる深層、『吽字義』でいえば字義の方では、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在な「非同非異」が生じては消え生じては消えしている。一切諸法は因不可得で損減不可得、吾我不可得、生/滅不可得なのだと智る深層の心である。
仏教の唯識の理論には、識を転じて智を得る、転識得智という考えがある。

前五識 → 成所作智 に転じて:
「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ第六意識 → 妙観察智 に転じて:
「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ第七末那識 → 平等性智 に転じて:
「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:
「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
この四つの「智」は、いずれも法界そのものの互いに異なるが同じ四つの瞑想の境地であり、この四つを四即一にして一即四に均衡させた叡智(心)のあり方を象徴するために、しばしば「マンダラ」が用いられる。

人間は思考で、感覚で、感情で、直観で、分別をしてやまない生き物であるが、その人間の分別せざるを得ない性を逆に好機ととらえて転用して、生きた心身のまま一挙に悟りの境地をひらくというのが、弘法大師空海が論じるところの「即身成仏」ということになる。
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非同非異を生かすアニミズムの叡智の現代的な意義
さて、『入門講義 アニミズム』の16ページには「人間・動物・自然物・自然現象・人工物」が「みんな同じ魂を持つ」という考え方を表す図が掲載されている。そして奥野先生は次の様に書かれている。
動物や森や石と心を通わせる想像力を育むこと。それが、「人間中心主義」の限界を超えて、自然とともに未来を築いていくための指針になるのです。
何であって何でないかを分けて選んで固めてしまいがち思考の分別を、アニミズムの感性が開く非同非異の智でもってほぐす。そうすることで、自然と人間のあいだで「心を通わせる想像力」を養うことができる。そこに現代の人類が直面する様々な解決困難に見える課題を乗り越えることを可能にする高度な智を構築できる可能性がある。
実際、今日の複雑な世界では、物事を二つに分けてどちらか良い方を選ぼうにも、どちらも選びようがない、どちらも選んでも悪いこととが起きるように見える、ということが多々ある。
ここで『入門講義 アニミズム』の第3章では、2025年に実施された「社会と人間の分別に関するアンケート」というインターネット調査の事例が報告されている。ここではまさに現代人、現代の日本人を被験者として、アニミズム的な智、人間と自然を分けるでもなく分けないでもない感性がどのくらい日常の中で自覚されているかを調べている。
その調査結果について、奥野先生は次の様に書かれている。
[…]「「分別」でわからない、判断できない ことの方が、この世界には多い」という考え方に 賛同した人(「とてもそう思う」「少しそう思う」と 回答)が、8割近くに及んでいます。
確かに社会は、論理や効率、科学などの「分別」で成り立っている。一般に、社会生活のなかでは、物事に白黒をつけて、誰がみてもわかるよう明確に判断することが目指される。でも、実際に生きていると、はっきりと白黒をつけて理解できることばかりではない。むしろ、「正解」がわからない、あいまいなことのほうが多い。この調査結果は、そんな潜在的意識を、よく示している。
人間と自然をはっきりと分けて、人間が自然を資源として利用することで、人間が過ごしやすい世界を作る。この二元論に基づく人間による合理的な自然界の資源化とコントロール、特にその科学技術の力はいろいろと不具合も生じつつも、そのつど生じた問題を解決しながら、うまい具合に発展してきているようにもみえる。しかしよく考えてみると、科学技術によってより破壊的になった戦争にエネルギー問題に地球環境の破壊、そして人類の精神の荒廃をみて「うまい具合」だなんてとんでもない、という意見も一理ある。
人間/自然をはっきりと分ける二元論は、はたして善なのか、悪なのか?!
・・・と、このように二つに分けて、どちらであってどちらでないのかはっきりさせないと気が済まない、というのが思考の分別なのであるが、ここに対して「非同非異」の論理を駆使することができるアニミズムは、固着した二元論、「あれか/これか」「どっちが偉いか」を決めて固めようとする思考を、常に揺るがし、ひっくり返すことができる。
「せっかく確立した思考を揺るがされたくないし、ひっくり返されるなんてとんでもない」と、思考が前面化した自我は主張したくなるところであろうが、しかし実際、思考の分別だけでは分けようにも分けられなかったり、選びようにも選べなかったり、仮に選んでこだわったとしても結局こだわり続けることができないということは少なくない。
そういう場合、思考を一旦休憩させて、主役を感覚や感情や、そして直観の分別に耳を傾け、そしてそのどの分別にも完全に固着してしまうことなく、ある分別が分けて「異なる」と見做した者の間を、別の分別でもって「同じ」に繋いでみる、といったことを動かし続けていくという手もある。
・・・こういうことを言うと「思考はだめで、感情がよいのか!」と怒り出したり褒め出したりする人もいるが、「だめ/よい」をがっちりと分けて、どっちがどっちだ?!と選んでこだわろうとしたくなるのが、それまさに「思考」である。
「思考」だけではどうにも分けて選んでこだわることがうまくいかない、という問題というのは実際に結構ある。
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分けて選ぼうにも選びようがない問題も
例えば、先ほどの人間/非人間の区別をめぐっても、そもそも、人間と非人間、この区別が実はそう簡単にはっきりとは分けられないということ、それに起因する問題が現に生じている。
人間とは何であってなにでないか、非人間とは何であって何でないかを厳密に「思考」しようとすると、そこに思考では分けきれないあいまいな領域が広がっていることが明らかになり、しかもそのあいまいな領域を、思考がなんとしてもかっちりと分けて境界線を引こうと果敢に挑み掛かると、たいへんな暴力と争いが生じることも明らかなのである。
例えば、非人間には動物、植物、山や川や海といった自然界のものから、いまはなきご祖先たち、数世代前、数十世代前の人間の姿をしたご先祖たちから、さらに遡ること数億年の人間の姿ではまだないご先祖たちまで、いろいろなモノたちが含まれる。
この中には現に生きている私たちに非常に「近い」ものたちもいる。同じ家に家族の一員として暮らす動物たちや、懐かしい子供時代を共に過ごした今はなき祖父母など、そしてその片見の品などは、非人間といっても極めて人間的なものをありありと感覚させ、「好き」という感情の分別を喚起する。
こういう私たち一人ひとりにとっての「非人間といっても極めて人間的」な存在者たちが、何も知らない他人から、単なるモノとして雑に扱われると、私たちは大いに憤慨する。
あるいはさらに議論を呼び、激しい闘争を引き起こすパターンもある。
同じ人間であるはずが、自分とその仲間とは「ちがう」人々、肌の色が違う、性別が違う、年齢が違う、成績が違う、生まれた国が違う、IQが違う、学歴が違う、年収が違う、乗っている車のクラスが違う、フォロアーの数が違う…などなどなんらかの感覚的な指標で比較して自分たちとは「ちがう」と分別された人々を、自分たちより劣った存在、あるいは上に立つ主人たる自分たちが適切に管理し利用すべき資源の立場に置かれるべき「非人間」として扱う、というようなことも行われる。
身近なところでいえば、差別にパワハラ、カスハラ、主人と奴隷という言葉がイメージさせるようなあからさまな暴力で主人が奴隷を鞭打って従わせるというあり方も溢れている。
さらには一見すると良いことをしているように見える「能力の高い管理者が能力の低いひとたちを、適切に管理してあげます」という形で、人間のあいだに合理的で理性的な真の人間と、そうではない非人間寄り=自然寄りの人間というものを区別してしまう暴力もある。この場合も人間/非人間の境界線は、あっちへ遠ざかったりこっちへ近づいたり、動くのであり、そしてこの境界線をどこに引くべきかをめぐって、様々な人々の間に深刻な争いが生じているわけである。
わたしたちひとりひとり自身は、ふとしたとき、自分が自分のまったく預かり知らないところで、会ったこともない他の自称「俺たちこそ真の人間」と主張する方々の勝手な決定により、「おまえは非人間の側だ」と分類されてしまっていたことに気づくことがある。これはもう、怒り心頭、喧嘩になってもおかしいことはない。
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アニミズム的非同非異の論理で人類の知性をアップデートする
さて、こうしたときに「どの境界線が決定的に正しいか」「どっちが正しいか」「どの分け方が正解か」を思考の分別で固めようと思ってもうまくいかない。なぜなら本来的に、境界線は動き続けているのであり、ひとつに固定的に決まるものではない。
しかし、「思考」の分別は、この動く境界線というのが苦手なのである。
境界線が動くと、せっかく分けたあちらとこちらが混じっていくし、あちらのあちらとしての本質も、こちらのこちらとしての本質も、変化していく。
動く境界線を、「何であって何でないか」を主に言語によって分別しようとする思考でもって扱うのはかなり難しい。特に現代人の思考は二元論でセットアップされているので、あいまいな中間領域を広げたり狭めたりする動く境界線を前に、なすすべがなくなってしまう。
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こうしたところで、上述のように、思考を、この動く境界線を扱うことができるモードに転じることができるとよい。「思考」を仮に唯識の第六意識に重ねてみるならば、これを妙観察智へと転じるのである。そこでは、他と区別される、分けられる、ありとあらゆるもの(一切諸法)は「XはAではないが非Aでもない」モードに励起される。そこに動くのが両義的媒介項を自在に変容させながらその関係を伸縮させる述語の論理、あるいは「野生の思考」の神話論理である。そしてこれこそがアニミスティックにモードチェンジされた思考なのである。
奥野先生は上の引用箇所に続くところで、次の様に書かれている。
加えて、「「分別」の外側にこそ、不透明な時代 を生きるための知恵がある」に賛同する人も、全体の7割に迫ります。VUCAと呼ばれる、未来を予測するのが難しい現代のなかで、「分別の外側」にある「無分別」的なもののほうが道標になる場合があるのだと、多くの人が直観しているのではないでしょうか(VUCAとは、Volatility[変動性〕、Uncertainty 〔不確実性〕、Complexity[複 雑性〕、Ambiguity [曖昧性〕の頭文字を取った言葉で、 将来の予測が困難な状態のこと)。
アニミズムの感覚、感性が、現代の人類にとっても重要なのは、それが境界線というものを自明に固まったものだと決めてかからない頭の使い方の可能性を開き、そして出来合いの境界線を動かして考える可能性を開く点にある。
スマホにSNSに動画配信にネット通販に年収に学歴にローンで購入した自宅の含み損益のようなものに囲まれながら日々を忙しく生きている現代人の「感覚や感性」のありようについて、私たち自身、ふと思いを巡らせざるを得なくなることがある。冒頭に書いた苦しみ、分離したいと望むものと結合せざるを得なかったり、結合したいと望むものと分離せざるを得なくなったとき、私たちは自分が分けて、選んで、こだわりたいと欲することが通用しないのだと思い知らされる。
そうした時に、絶望することなく、考え、私たちひとりひとりの「身の回り」のものや人、自然や他者たちとの関係の動的な組み方について考えようというときに、分けて選んでこだわるのとは違う思考方法、頭の使い方、すなわち言語的に思考するための意味分節システムをセットアップして、バージョンアップして、非同非異を自在に動かすことができる実に創造的なものにすることを、アニミズムの感覚と感性、それに基づく論理が可能にするのである。
そうすると、分離したいと望むものと結合せざるを得なかったり、結合したいと望むものと分離せざるを得ない苦しみ自体が、あるでもなくないでもない、ということを心の深みで智ることができるようになる。
もちろん、簡単なことではない。
分けて、選んで、こだわっている心を、こだわるでもなくこだわらないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、分けるでもなく分けないでもなく、といった心のあり方を保てるようにする必要がある。
この分けるでもなく分けないでもなく、ということをやっている心を無分別心、分別と無分別の分別をも、分別するでもなく分別しないでもない、対を絶した、絶対の無分節へ。
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分別心と無分別心を重畳させて、その心の全体性を分別と無分別、分節モードと無分節モードが響きあうハイブリッドな共鳴体として定常的に浮かび上がらせるようにすることができるなら、人間は欲望と怒りと嫉妬がどろどろと流れ渦巻く人間道にどっぷりとつけ込まれながらも、それでいて同時に、この人間道自体が法界のひとつの現れ、法界それ自体のひとつの瞑想の境地なのだと観じることができるようなできないような感じになる。

そういうことをするための装置が「マンダラ」なのであると私は常々ぼんやり思っている。
そういうわけで、この『入門講義 アニミズム』の最後に「曼荼羅」の話が出てくるところがとても「いいなあ」と思うのである。
この本の全体を通底してマンダラのヴィジョンがあるということは、とても楽しいことなのである。
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