【マンダラ夢分析】ベランダの丸い水たまりから突出してくる巨大ナナフシとの駆け引き~第七末那識の使いようを教えられる
はじめに、本記事の核心を一枚のAI生成画像で提示しておこう。

心の動き方を「マンダラ」状にモデル化する
夢のビジョンにおいて、見られ、記憶され、覚醒後に言葉で報告される不思議な世界というのは、心の「深層」の脈動から立ち昇る振動が、表層意識の一番底・感覚印象の記憶の束に投射されたときに、そこに浮かび上がるパターンである。
神話も夢も、人間の心の「深層」の同じところ脈動から立ち昇る振動が表層意識の一番底に、その底面の平面に浮かび上がらせるパターンであり、そのパターンを意識が自覚できる相にまで浮かんできた姿こそ、「マンダラ」である。
マンダラは、円と正方形を組み合わせた姿をしている。
正方形ゆえにおのずから四項・四極が際立ち、そしてその四項の中間に配される中間項四つが浮かび上がり、合わせた八項関係を描く。

視覚的イメージとしてのマンダラ
語りに現れる「述語」としてのマンダラ
このマンダラは四項関係や八項関係のイメージ、いわゆる曼荼羅として直接ビジュアル化される(視覚的なイメージなる)場合もあれば、夢の中での自/他の距離感が伸び縮みするような経験として現れる場合もある。
例えば、夢において、四人の(もちろんこの四人がもっと多くに分かれてもいいし、そのうちの幾人かが省略されてもいい)登場人物が喧嘩したり仲良くなったり、分離したり結合したりを繰り返すようなことである。
夢で「私」と私ではない他の登場人物たちとは、ある場所において(円形の空間の中や、四角形の部屋の中、四角いテーブルの周囲)で繰り広げる分離と結合、愛/憎の両極の間を揺れ動く。

神話論理と夢分析
マンダラは「神話」の語りとして、神話的な神々や超自然的な存在者たちが結合したり分離したり、ぐるぐる回ったり、逃げたり追いかけたり、半分になったりする話として言語的な姿を示現することもある(しないこともある)。
神話の場合は、語りの終わりで、下図におけるΔ1〜4を分けつつも過度に分離しすぎないようにつないでおく、正方形と内接円(外接円)を組み合わせたような曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指している。

神話の語りはじめには、まだΔはない。
何もないところから(ある/ないのペアすら”ない”ところから)、まずΔたちが収まる「余地」を切り開くこと、Δたちを配することができる「場」を生成することからはじめないといけない。
そこに野生の思考の神話論理が動く。
経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
神話の語りは、まず経験的感覚的に区別される二つの事柄を過度に結合して(あるいは経験的感覚的に他から区別された一つのことを過度に引き伸ばして両端を分離して)両義的媒介項βを作った上で、このβ、両義的媒介項二項が、第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きを語る。
これを言語的な語りに託さずにイメージだけで感覚しようとすると、ちょうど一点から螺旋が回転し始め、その回転の渦が拡大して、安定的に円を描くようになる、といった具合になる(ならなくてもいい)。
この円の中に(外に)正方形が、Δ四項を四つの角とする四角形が浮かんでくる。
一方、あくまでも言語で語り、「登場人物」たちの動きに託して語る神話では、お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの両義的媒介項(β)たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離するという具合に動く。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
両義的媒介項(β)は神話では、「火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間」であるとか、「服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガー」とか、「ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月」とか、「下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間」、といった姿をしている。
そのようなものたちは、経験的感覚的には(Δ項としては)「存在しない」が、神話は、この経験的に何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。
そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずのΔ二項を短絡することで、どちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出すというやり方で両義的媒介項を制作(ブリコラージュ)するのである。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといった凄まじい話もこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図ではΔに対するβ)という。
このβたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力とをバランスさせる。

ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。
そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。

私(この文章を書いている筆者)は、以前から、クロード・レヴィ=ストロース氏が『神話論理』で分析している神話の語りを、八項関係のマンダラ状の図式に照らし合わせて読み直してみようという試みを続けている。ぜひご参考にどうぞ。
このような分離しているところを結合へと向かわせたり、結合しているところを分離へと向かわせるような動きを、「夢」のビジョンにもみることができる。ことによると神話は、いま現在ここで生きる私たちからは時間的に空間的に遠くへだったものと感じられるかもしれない。しかし神話とおなじ動きが、神話を発生させるのと同じしくみが、今ここでも、私たちの心の深みで動いており、それが毎晩のように、私たちの昼間の意識が分別に固着し分けて選んだ方にこだわっているところを少しづつほぐし、分けるでもなく分けないでもない、選ぶようで選ばない、心の深層のバランスを取り戻そうとしているのである。
* *
主語たちの述語的様相にフォーカスする
「何であるか」はとりあえず脇に置いて
「どう動くか」をみる
この神話や夢に表現された心の深層の仕組みが動いた様子を観測するために、おそらくもっとも捉えやすい手がかりは、神話の語りに登場する「述語」、特に分離しているところを結合するように距離を縮めたり、結合しているところを分離するように伸ばしたりする述語であり、実際に結合したいところと分離したままになったり、分離したいところと結合してしまうような夢のビジョンの述語的様相である。

マンダラ状の図でいえば、Δでもβでも「項」は、人間からみるとなにか固まったもの(主語的なもの)に見えるという意味で仮に「項」と呼んでみているが、これがじつは、どちらかと言えば動き、脈動、振動、振幅を振る…、行ったり来たり、という感じの述語的な様相なのである。
夢の登場人物たちは、主語の位置に据えられて報告される。
つまり夢を見た者・夢見手が分析者に対して報告する場合に、「帽子を深く被った女性が・・」などという具合に語らざるをえない=言語化せざるを得ないのであるが、これが実は述語的様相の残像が共鳴して主語的様相を呈しているのだ、と読んでみたい。
「何が」ではなく「どう動いているか」に注目をしてみよう。
そしてさらに、この「動き」にもいろいろあるわけだが、神話や夢が、つまり人間の心の深層が特に重視する「動き」はどうやら二つ、「分離する動き」と「結合する動き」、そしてその多様な複合らしいのである。
『C.G.ユングのセミナー パウリの夢』の前書きに、監修者の河合俊雄先生が次のように書かれている。
ユングは繰り返しマンダラの中心性に焦点を当てるけれども、その中心を巡っての円環運動が生じてくることも繰り返し指摘している。運動としては、一度上に蒸留されたものが再び下に落ちるというものも興味深い。「無意識は運動でもある」としているように、意識も無意識も実体化されず、運動となっていく。それと同時に対立物の関係や合一は必ずしも意識と無意識の関係ではなくて、いわば抽象的なものになっていく。これは後に最晩年の「結合の神秘」において「結合と分離の結合」として結実していくものである。
分離したり結合したり伸縮する述語
この「どう動いているか」の「動き」とは、夢の中は、自/他の距離感が伸び縮みするような経験として、もっと細かく言えば、概ね下記のような2パターンに集約されるようにおもわれる。
分離状態にある相手(物事)と結合したいと望み、
結合しようと動く
が、うまく結合できない
あるいは
結合状態にある相手(物事)と分離したいと望み、
分離しようと動く
が、うまく分離できない
実際、私たちは、夢ではなく現実の日常生活においても、分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりするときに、不安や怒りを感じ、この不安や怒りを鎮静化するために、結合や分離の動きを触発する相手方との関係の取り方を試行錯誤する(分離しようとしたり、結合し直そうとしたりする)。
夢は、いや、夢として記憶の残像を残す深層意識の伸縮する述語的な動きは、この分離したいことと結合されたり、逆に結合したいところと分離されたりする状態を付かず離れずに均衡させるよう、意識的にではなく無意識的に、意識の立場から見れば<自動的>に動いているようである。
マンダラの円環の上で向かい合い対立する諸項も(この場合は「意識」と「無意識」)、いずれも「運動」である。マンダラやマンダラの上で対立する諸項は「実体化されず」、つまり固まって輪郭が定まり性質が定まった個物として転がっているものではなく、分離したり結合したりする運動、動き、動き方のパターン、それを表現する「述語」や主語たちの述語的な様相によって記述される。
◇ ◇ ◇
以上を踏まえ、今回も、筆者自身の夢を対象として、マンダラ状のパターンを描くように述語が伸縮する様を浮かび上がらせてみよう。
この夢には「虫」が登場する。それゆえ「虫が苦手な方は読まないで〜」と注意書きを入れようかとも思ったが、よく考えてみればこれは夢で、現物実物手で触れたり頭に乗せたり口に入れて咀嚼できるような物としての虫のことではないので、気にしないことにする。
夢見者私は、部屋の中にて、窓のそばで横になっている。
窓は開け放たれており、外から雨の日の土の匂いがはいってくる。
外は雨で、ベランダに水溜りができている。
その水たまりは丸いかたちをしている。まんまるな水鏡のようだ。
*
その水の中にはたくさんのオタマジャクシが泳いでいる。
よく見ると大きい黒丸と、小さくて色も白っぽいやつがいる。
**
水面上に、アメンボが足を突っ張って乗っている。
いやアメンボかどうかわからない。何の虫だかはわからないが、水面の上に脚で立っているのだから、アメンボなのだろう。
わたしはそのアメンボ風の虫に、オタマジャクシたちが食べられてしまわないか、と心配になる。
ただ、私は、特に助けるようなことは何もしない。
* *
よく見ると、水たまりの縁にナナフシのような姿の小さな虫が何匹がいるのが見える。
アメンボのようなやつとは似ているが、体全体が長く、アメンボとは別の種類であるとわかる。
このナナフシ様の長い虫は、長い脚を伸ばして、水たまりから出ようとしているようだ。
*
ちょうどその時、夢見者私は所用を思い出し、起き上がって、窓辺を離れて、家の奥の部屋へ行く。
誰か家の者に呼ばれたのかもしれない。
* *
すると、夢見者私と入れ替わるように、夢見者のふたり子供たちが窓辺に移動して、ちょこんとしゃがんで水たまりの方を眺めている。
オタマジャクシを眺めるつもりだろう。実に微笑ましい。
!!!
その時突然!子どもたちの叫び声が響く。
「部屋の中に、長さ1メートル、一升瓶くらいの太さのナナフシのような虫が入り込んだ!」
ああ、びっくりした。
いきなり大きな声を出すのはやめてほしい、と思う。
夢見者私はまた窓の方へと、もときた道を戻る。
すると子どもたちの報告通りの大型ナナフシが、窓から侵入して、先ほどまで子どもたちがいた場所にいる。
子どもたちは飛び退いてどこかへ逃げている。
それにしても、ずいぶん大きな虫である。
というか、これはもうモンスターであろう。
虫はどんどん家の奥へと進んでくる。
ただ、攻撃してくるという感じでもなく、とはいえ何かを探索している様子ではある。獲物を探しているのかもしれない。
放っておいたら勝手に出ていってくれるのではないか、とも思うが、子どもが噛み付かれでもしたら大変だ。
私も、噛まれたくない。
わたしは冷静沈着に粉末状の殺虫剤を探し出して、「ごめんよ」といいつつドバドバと虫の頭にかける。
虫は抵抗せず、おとなしくなる。
子どもたちが遠くから、ベランダにもう一匹、同じサイズ感の巨大ナナフシ?がいると叫んでいる。
それも室内に侵襲してくるのでは、と私は警戒する。
しかし、窓の外を見ても、その二匹目の姿は見えない。
いるというのにいない。
さて、部屋の中が、殺虫剤まみれになってしまったなあ、かたづけるのが、大変だ、と思う。
おとなしくなった一匹目の巨大ナナフシを、私はとりあえずバケツに入れる。さて、この虫をどうしようかと思う。
私は、この虫を外に放り出すわけにはいかない、と思っている。
というか、この虫、殺虫剤をかけられているのだが、動かなくなっているだけで、まだ生きている。
これ、なんとかして巨大な虫籠のようなものを用意したら、飼育できるのではないか、とさえ考えるが、どうしてよいかわからず途方にくれる。
詳しく分析してみよう。巨大ナナフシ(七節)との戦い?を通じて、述語的運動が劇的に伸縮する夢である。この夢は全体を通して、内/外、大/小、遠/近、食べる/食べられる、といった経験的な対立二極の間が見事に伸縮している。

部屋の内/外を分けつつつなぐ「窓」
まず冒頭、窓辺で横になって、部屋の「内」から、窓を通して、部屋の「外」を眺めている。部屋の外には円い鏡のような水たまりが見えている。
ここで際立つ対立は内/外の対立である。
内/外は、はっきりと分離されている。
とはいえ内と外の間には、開け放たれた窓、という通路が開いている。
内/外は、はっきりと分離さつつも、開け放たれた窓によって結合されてもいる。
内 / 外
|| =窓= ||
わたし、こども1、こども2 / 虫たちが棲む丸い水たまり
さっそく内/外の対立を手がかりにして、分離と結合の伸縮、分離しつつも結合する、結合しつつも分離する、という述語的様相が展開している。
そして「わたし」および「わたし」の子どもたち二名が、窓の「内」側にいる。そして窓の外には虫たちが息づく「水たまり」がある。
水たまり 表層/深層、内/外
次に、水たまりの様相に意識が向かう。
この水たまりは「丸いかたち」である。「まんまるな水鏡のよう」である。
こういうのはユングのいう全体性の象徴、マンダラの示現を思わせる。
この水たまりでは、水面/水中、深層/表層、そして食べる/食べられる、といった二項対立がつかず離れずに対峙している様相が際立つ。
水面/水中
||
表層/深層
表層の水面には「アメンボ」のような細長い脚と体をもった虫がのっている。アメンボは、水たまりの「中」にはいるが、しかし水中ではなく表面にいるというのが水中と水面の対立を際立たせる。
深層の水中には「オタマジャクシ」がいる。
このオタマジャクシには、大/小、白/黒 二重の分別が際立って見える。
大/小
|| ||
黒/白
そしてこの水中のオタマジャクシと水面のアメンボ様の虫との間には、食べる/食べられる、捕食者/獲物、という対立関係があるように感じられる。
一般に捕食して食べるということは、もともと分離していた捕食者と獲物との間の距離が次第次第に近づいて、ガブリと、捕食者と獲物が結合する。そうして獲物は捕食者の体内に取り込まれ、両者の結合、過度な結合が完成する、という具合に二項間の距離が「収縮」し、分離を結合に転じる動き、述語的様相がみられる。
ただし、この夢では、オタマジャクシたちが実際に食べられたかどうかはわからない。夢見者である私が、「食べられるのではないか」と心配しているだけであり、実際に食べられている様子はない。
食べられそうだが食べられていない、食べられていないが食べられそう。
結合しそうだが分離しており、分離しているが結合しそうである。
*
ここで夢見者が、オタマジャクシたちが「「食べられるのではないか」と心配」するというのは、要するに、夢見者が「分離しておきたい・結合してほしくない」と分別しているということである。人間は、分離しておきたいところが結合に向かうのではないかと推定したり、結合しておきたいところが分離に向かうのではないかと推定したりするときに、不安の感情に駆られる。
この時私は、オタマジャクシたちとアメンボたちが、過度に結合した様相、
β
↓
β→ ←β
↑
β
このような方向に動くことを回避したいと思っており、逆に、
β
↑
β← →β
↓
β
という具合に、はっきりと分離された状態に向かうことをよしとしている。

ナナフシは近づき、夢見者は遠ざかる
さて、この水たまりの内部から外部へ、内/外の境界「縁」を超えて、第三の存在者、「ナナフシのような姿の小さな虫」が這い出てくるのを夢見者は目撃する。ちなみに私はナナフシという虫は嫌いではない。どちらかと言えば見ていて飽きないよい形をしており、おもしろい昆虫だと思う。つまり私は、ナナフシを見ただけで飛び退いて分離しようとするような動きの特性は持っていない。
このナナフシ(七節)は、水の中から、水の外へと出てくる。
水たまりから出てくるということは、そのまま窓の方に向かってきて、窓から、こちら側、私と私の子どもたちのいる部屋の中に入ってくる可能性がある、ということである。
内 / 外
|| =窓= ||
わたし←← ←ナナフシ(七節) ・・
|| ||
こども1、こども2 / 虫たちが棲む丸い水たまり
さて、ここで面白いことに、ナナフシ(七節)が窓の方に向かってくるのと同じ方向で、わたしは部屋の奥へと移動していく。つまり「わたし」と「ナナフシ(七節)」は同じ速度で同一の座用軸上を同じ方向に移動しており、両者は動きながらもその間の距離は一定に保たれている。つまり相対的には止まっている。相対性理論の説明でよく出てくる図式である。
←わたし ←ナナフシ(七節)ー ー ー
私とナナフシ(七節)の間には、動きながらも止まっている、結合しようとしながら分離している、という述語的様相がある。これは動/静、分離/結合、という対立関係について、この対立二極のどちらでもあってどちらでもない、どちらも選べるような選べないような「不可得」な様相が展開しているということである。
円い水のマンダラは、その内部から外部へとナナフシ(七節)が飛び出す=突出することによっていわばそのマンダラの径を外に広げるように拡張しているのである。そして夢見者はこのマンダラの「内」に入ることなく、つまり水たまりに落ちることなく、水たまりに属するものであるナナフシ(七節)に結合されることもなく、距離を保とうとする。
ここでおもしろいのは、ナナフシという昆虫の外観の特徴である「長い」(他の昆虫と比べて相対的に伸びているようにみえる)ということが、内/外の境界を超えて突出してくる=あちらからこちらへと伸びてくる述語的様相を体現しているということである。
夢見者の方向転換
ところが、ここで「わたし」は急遽方向転換をして、ナナフシ(七節)の方へと自ら結合しにいかなければならないことになる。わたしは窓から分離したが、子どもたちがどうやらまだ窓の方にいる。そこにナナフシ(七節)迫り来る!ということになるのである。

円い水たまりの領域から突出してくる述語的様相(その主語を担っているのがナナフシ、七節である)が、夢見者たちの領分を飲み込もうとしている。それに対抗して、こちらも溢れてくる水盆の世界を押し留めようと、方向を転換して結合しに行く。
ここで夢見者私が、まう窓からの距離を一旦広げ、そしてまた縮めていることに注目しよう。わたしの動き方は、窓との間の距離に関してsin波のような形で振幅を描いている。
食べられそうで食べられない
さて、このナナフシ(七節)は部屋の内では巨大化している。
ちょうど人間である夢見者と同じくらいのサイズ感である。
そしてそれが、私の方に、正確には私の子どもたちの方に接近してくる。
冒頭、窓から水たまりを眺めている時、私は水の中、深層にいるオタマジャクシたちが、表層のアメンボのような細い虫に「食べられる」 のではないかと不安になった。不安とは、分離しておくべきと思うところが結合してしまいそうになる(接近してくる)時に生じる感情である。
そして今度は、巨大ナナフシ(七節)に、子どもたちが噛まれる(「食べられる」と相同である)のではないかと不安になる。ここでも不安とは、分離しておくべきと思うところが結合してしまいそうになる(接近してくる)時に生じる感情である。
捕食者→食べようとしている?→獲物
|| ||
1)水たまり アメンボ / オタマジャクシ(白黒大小)
|| ||
2)部屋の中 巨大ナナフシ / 二人の子どもたち(大小)
夢のはじめに水たまりにおいて生じた対立関係と同じものが、今度は部屋の中で別の主語たちによって再現されている。
アメンボのような細い虫が、巨大ナナフシ(七節)に(ナナフシも細い)。
白黒のオタマジャクシが二人の子どもに。
主語的な姿を変えつつ、「食べられるかもしれない」(実際には食べられない)、食べられそうで食べられないという、分離→結合→分離、という述語の様相が二度繰り返される。

*
またこの際、窓を通してあちらからこちらへ移動したときに、ナナフシ(七節)が巨大化していることにも注目しよう。現実の経験的感覚的な世界では大/小の区別は固定化している。
経験的にはΔ大/Δ小の対立は固定している。
大きいものが小さくなったり、小さいものが大きくなったり、という動きは滅多なことでは生じない。
しかし、夢の世界では、大/小の関係もまた伸縮自在である。例えばナナフシにしてもそれ自体が「大であるか」「小であるか」ということは即自的に決まるわけではなく、ナナフシと対立関係にある相手、つまりこの場合は捕食者たるナナフシの獲物の位置に収まる存在者との対立関係によって、そのサイズは大小自在に伸縮して構わないのである。
これがβ脈動、経験的な区別が固着する手前で、分離と結合を伸縮する述語的様相が展開するマンダラ、心の深層の世界である。

* *
巨大ナナフシ(七節)との対決?
付かず離れずの均衡へ
さて、いよいよ私はこの巨大ナナフシから子どもたちを守るべく、戦わなければならない!・・いや、それほど大袈裟なことではない。
ナナフシは、ずんずん家の奥へと進んでくるが、しかし、モンスターに襲撃される系のゲームにあるような明確な攻撃者というあり方をしているわけではない。見ようによってはナナフシは、こちらの家の中を散歩、見学しているだけのようでもある。夢見者は「放っておいたら勝手に出ていってくれるのではないか」とさえ思っている。
仮に、家の中に私一人なら、わたしはこの巨大ナナフシを放っておくか、お茶くらい出すだろう。
とはいえ、いまは子どもたちが怖がっている。わたしもまた生命体であり、その限りで、「子どもに結合しようとする脅威を分離しなければならない」という身体的生命的に組み込まれた基本的な分別システムを作動させている。そうである以上、分離しているべきところの分離を保ちたいのである。分離が結合に転じてしまってはまずいのである。
この子どもの存在によって、わたしはわたしの方から殺虫剤(?)を撒くために窓の方へ、ナナフシの方へ接近する、分離を結合に転じる、という述語的様相を呈せざるを得ないことになる。
*
わたしは殺虫剤を手に、ナナフシに接近し、その距離を縮め、手で触れることができるくらいの距離にまで近づいていく(分離→結合)。さしあたってナナフシの方からわたしに襲いかかる様子はないが、しかし安心はできない。いつ喰らいついてくるかわからない恐れはある。
わたしは冷静に、殺虫剤をナナフシにかける。
そうするとナナフシは抵抗することもなく動かなくなる。
さて、これによってわたしとナナフシの間には、「喰いー喰われる」という過度な結合は生じないことになった。
ちなみにこの時、夢見者が巨大ナナフシ(七節)に振りかけた粉は、もしかすると殺虫剤ではなく、単に動きを止める働きをする何かだったのかもしれない。
+ +

二匹いる?いない?
このとき、子どもたちが他にももう一匹、巨大ナナフシがいると叫ぶ。
しかしわたしはその二匹目の姿を確認することができない。
二匹目の巨大ナナフシは、「いるような、いないような」。
存在するでもなく、存在しないでもない。
Δ存在する/Δ存在しない
これは経験的感覚的、日常の表層の分別においては決定的に固定した対立二極であることが多い。存在するものは存在するし、存在しないものは存在しない。先ほどの大/小の対立二項と同じくらいの明確な固定性である。
しかし、これまた夢のなかとなると、存在するような存在しないような、存在するでもなく存在しないでもない、という対立二極のどちらであるか「不可得」な曖昧さが保たれ、ゆるく振動し続ける。
さらにまた、ナナフシ(七節)が、一なのか、二なのか、どちらか不可得というところもおもしろい。一は分かれていないこと、無分節であり、二は分かれていること、分節である。
Δ一である / Δ二である(一ではない)
||
無分節 / 分節
一なのか二なのか不可得ということは、これは一即ニにして二即一、ということでもある。
ある/ない
分節/無分節
およそ私たち人類にとって経験的感覚的に意味ある世界を安定的に分節するもっとも基本的な二項対立が、この夢のこの場面では、不可得になっている。
これをどうしようか
さて、最後の場面である。
夢見者は、謎の粉をかけられておとなしくなった=ほとんど動かなくなった=伸縮する述語的様相が静まった大ナナフシ(七節)を「バケツ」に入れて手に持つ。
リアルな害虫駆除であれば、燃やすなりなんなり、少なくともこの部屋の内から外へ、運び出すことになるだろう。
しかし夢見者は、この大ナナフシを部屋の外に出すという考えに至らない。バケツに入れたまま、部屋の中、家の中にどこか適当な置き場所はないだろうかと探すのである。
しかもこの時、この大ナナフシは生きている。
いや、こういう世界では生/死の分別も実はあるようなないようなことなのであるが、とにかく、この大ナナフシはずっとわたしたちのすぐ傍に居るものであり、その存在自体を消し去ったり、遥か彼方に分離したりすることができるものではない、ということを夢見者は感じている。なんとか飼育したいと思うほどである。

こうしてこの部屋の中に、わたしと、大ナナフシと、そして大小ふたりの子どもたち、四者が過度に接近しすぎて区別できないほどに結合してしまうこともなく、しかし逆に、誰かが外に放り出されて、どこか遠くへ分離してしまうこともなく、という関係が織りなされる。
わたし/〜大ナナフシ〜
/ /
こども(大)/こども(小)
もちろん、この夢では、この四者の間「距離」はまだ不安定であるし、等距離に均衡して正方形を描けるまでにはなっていない。
わたしと大ナナフシはまだまだどちらかといえば近すぎるし、ナナフシの収まり所も不安定である。子どもたち二人もセットになって近すぎる。そしてわたしとナナフシのセットは、子どもたちのセットからは少し離れている。
とはいえ、四項関係が付かず離れずの均衡に近いていることは間違いなさそうである。
転識得智
仏教では、覚りの境地、無上正等覚を得るということを次のようにモデル化する。すなわち、分けて、選んで、拘って止むことのない人間の表層の分別心をマンダラ状のフォーメーションに変容させることで、人間が人間のまま、人間道にいながらにしてその深層に隠れた如来となるための種を活かすことができる。

ここで、人間の分けて、選んで、拘る分別心というものを、ユングが論じる意識の四機能に重ね合わせて考えてみるとおもしろい。
ユングは人間の意識の機能を「感覚」「思考」「感情」「直観」の四つに整理する。

「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「感覚」:ある/ない、を分別
「感情」:好き/嫌い、を分別
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
この四つの機能がバランスよく、つかづはなれずに連動すると、私たち人類の精神(心)は大いに安定した調和のとれた状態になる。四つの心的機能間の「距離」が遠く離れすぎたり、また過度に近づきすぎてある機能が対立する別の機能を飲み込んでしまったりすると、四機能の調和は達成できない。
この調和のとれた心の状態を目指すことを、意識の表層に教えるのが「マンダラ夢」である。
この四機能は、仏教の唯識思想における八識と、興味深い対応関係を示す。
「前五識」(眼・耳・鼻・舌・身)|「感覚」:ある/ない、を分別
「第六意識」|「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別
「第七末那識」|「感情」:好き/嫌い、を分別
「第八阿頼耶識」|「直観」:現れてくる/消えていく、を分別
多くの場合、人間が人間である以上、こうした分別でもって「分けて」、そして分けられた選択肢のうちのどらかを選び、他を選ばないようにし、そして選んだものにこだわろうとする、という具合に人の心は動く。その上で、せっかく分けて選んで拘って、つまりずっと結合していたいと願っているのに、しかしそうもいかずに分離してゆくことに悲しみ、苦しみむのであるし、同じようにせっかく分けて、選ばないと決めて分離したはずのものが向こうから結合してきてしまって(この夢のナナフシのように)恐ろしくなったり逃げようにも逃げられないことに苦しむ。およそ人間的な苦しみとはそのようなあり方(分離したいものと結合したいものを分けたのに、分離したいものの方が結合してくるし、結合したいものの方が分離していく)をしている。
この苦しみから脱するために、分けて、選んで、拘っている、そのような心の使い方をモードチェンジする、というのが仏教の要訣である。すなわち、二辺を離れるでもなく離れないでもない、というモードへの分別識の転換である。
そもそも分けて、選んで、拘っているのは、心の表層の固着した様相である。心の表層の直下にひろがる深層では、心は、分けるでもなく分けないでもなく、選ぶでもなく選ばないでもなく、拘るでもなく拘らないでもなく、という具合に、ありとあらゆる二元的二項対立関係の両極を分離しつつ結合し結合しつつも分離するという伸縮自在なあり方をしている。
この伸縮自在なこころの深み動き、述語的様相を、心の表面の直下にまで浮かび上がらせることができれば・・・。私たちの心はおのずから、分けて選んで拘ったところへ固着しようにもできないという苦しみから解かれることになる。
そして夢こそ、この心の深みの分離と結合の自在な伸縮が、記憶されたイメージのストックを振動させて心の表層の一番下に描き出した影なのである。

夢に現れた心の深層の動きを観察することは、分別する八識を絶対無分節の「智」へと変容する「転識得智」の行となる。
前五識 → 成所作智 に転じて:「ある/ない」を分けつつも、その分別を固着しないモードへ
第六意識 → 妙観察智 に転じて:「なにである/なにでない」を分けつつも、選ばず拘らないモードへ
第七末那識 → 平等性智 に転じて:「好き/嫌い」(自と結合すべき/分離すべき)を分けつつも、固着しないモードへ
第八阿頼耶識 → 大円鏡智 に転じて:「現れる/消える」を分けつつも、どちらか片方にこだわることのないモードへ
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今回の夢の場合、「わたし」(自我)は「直観」機能に現れているように思われる。この夢の「わたし」は、ナナフシや子どもたちとの距離感の伸縮、近づいてくる/遠ざかっていくという形で、現れてくる/消えていく、の分別をバランスさせようとしている。
その一方で好き/嫌いを分別する「感情」はあまり働かせていないし、ある/ないを分別する「感覚」も、なにであるか/なにでないかを分別する「思考」も、緩くなっている。
ここで、「感情」「感覚」「思考」が、「大ナナフシ」「子ども(大)」「子ども(小)」の三者に対応すると見立ててみよう。
「大ナナフシ」は第七末那識による自/他の分別の固定化を目指そうとする動き、すなわち「感情」機能の象徴であると思われる。
大ナナフシは捕食者であるかないかはっきりしないが、しかし捕食者かもしれない、と思わせる動き、つまり分離を結合に転じようとする述語的様相にある。感情は、まさに好きなものとなれば分離を結合に転じ、嫌いなものとなれば結合を分離に転じる機能である。例えば、美味しそう、好き、食べたい、は「感情」機能が分離を結合へと転じようとする述語の諸相である。
そして「感覚」ーある/ないの分別、「思考」ーなにである/なにではない、 の分別を担うのは二人の子どもたちである。「感覚」「思考」は強く連動して補い合っている。子どもたちはわたしに向けて「二匹目の大ナナフシ」であるものが「存在する」ことを告げる。しかし「直観」であるわたしの自我は、ある/ないを感覚分別できていない事柄には関心がなく、しかもその二匹目が「なにであるか」、大ナナフシであるかないか、といったことにも関心を向けていない。
そういうわけで、
「思考」:なにであるか/なにでないか、を分別=子どものどちらか
「感覚」:ある/ない、を分別=子どものどちらか
「感情」:好き/嫌い、を分別=大ナナフシ
「直観」:現れてくる/消えていく、を分別=わたし
という対応になる。そしてさらに、
わたし(自我)β β大ナナフシ
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子ども大または小β β子ども小または大
この関係は、
直観β β感情
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感覚β β思考
ということになる。
この夢を見た時のわたしは「直観」機能を頼りに生きており、また直観の補助機能として「感情」を頼りにしている。直観で感じた近づいてくる/遠ざかっていくものごとを、好き/嫌いで判別して、自分の方からさらに近づくか、それとも遠ざかるか、と分別して生きている。
その一方で、思考と感覚はかなり自在に解けている。
ところで、自我に対する「自己」は、つまりユングによればマンダラの中心として均衡の焦点となる自己「セルフ」は、「思考」と「感覚」が「感情」に飲み込まれてしまうことを警戒している。即ち感情ばかりが巨大化して暴走し、感覚や思考を、あるいは直観さえをも「食べてしまう」呑み込んでしまうことは避けたいと、「自己」は願っている。
直観β β感情
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(自己)
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感覚β β思考
そういうわけで、巨大化した「感情」=大ナナフシを少し小さくする。そして「直観」自我とバランスが取れるサイズ感・距離感に、自我が持ち運んだり飼い慣らすことができる程度の距離感、サイズ感に落ち着かせる。そしてさらに緩んだ「感覚」と緩んだ「思考」が共にいる家の中に、なんとかして「感情」もまた緩めて、その居場所(飼育するらしい)を確保しようとする。
ただ、この夢ではいまだ大ナナフシの飼育場所ははっきりと決まっておらず、とりあえずバケツの中でおとなしくしているだけで、もしかすると暴れて巨大化して出てくるかもしれない緊張感を残している。感情=第七末那識が、未だはっきりと分別を、分けて選んで拘る働きを発揮していて、自在に緩むところまで行っていない。
なので感覚と思考は、別の部屋に避難しているようである。
このようにして、「感覚」「思考」「感情」「直観」の不安定な調和が、引き続きアンバランスへと転じる可能性を大いに漲らせつつ、一時的に均衡しているというかたちで「自己(セルフ)」が姿を表しつつある。
この夢を転識得智の観点から眺めると、四機能の調和が「完成した」マンダラとしてではなく、生成途中のマンダラとして示現していることがわかる。
大ナナフシ(七節)はバケツの中でまだ動かなくなっているだけである。「感情」=末那識は、まだ平等性智に転じきっていない。しかし転じかかっている。
この点でナナフシ(七節)という名称が、非常に意味深い偶然の一致を感じさせる。フシ、節は、分節の節、つまり分かれているということである。そして七は八まであと一つ、あと一歩である。もし八つに分かれるならば、分離と結合が付かず離れずに均衡した八項関係のマンダラ状の調和を表していることになる。しかし未だ七、八まで、あと少し足りないのである。これがまさに、「末那識は、まだ平等性智に転じきっていない」様相を表現しているように思われる。

* *
末那識が平等性智に転じた時、鈴木大拙が述べるように「今まで見ていた感覚の世界がもとのものでなくなる」。大ナナフシを飼育できるかもしれない、という夢見者の思いは、その予感のようなものではないだろうか。
感情・第七末那識は、分けて、選び、こだわる、執着する自我が発生するポイントである。鈴木大拙も、「霊性と云うのは、末那識の上において生じたる転回後の働き」であると書いている(『浄土系思想論』p.16)。
今までは知性の分別面ばかりを見ていて、内には我執を養い、外には煩悩増進の機会のみを作った。それで、地獄や極楽の夢を見て、悩みの種を蒔いていた。
ところが、ここに百八十度の大転回が行われた。それからは今まで見ていた感覚の世界がもとのものでなくなった。
なるほど、旧に依りて鳥は黒く鷺は白いが、その白黒が白黒でなくなった。併しそれは一味平等の無差別になったと云うのではない。そう云えば、それは知性上の分別を出ないであろう。
転回後の末那識はもはや六識の緊縛を受けぬ、却ってこれを願使するのであ る。自由創造の世界が進展して来た。これが法界である。これが極楽である。
第七末那識・「感情」が、好き/嫌いを固定的に分別し、自/他をいつも同じように分別しようとこだわる時、第六意識や前五識は、末那識に対して、好ましいもの=「自」と結合すべきものと、好ましく無いもの=「自」と分離すべきものを、次から次へと放り込んでくる機能にみえてくる。末那識は第六意識や前五識が分別して放り込んでくるあれこれのものごとを、これは好き、これは嫌い、と分けて選ぶことに忙しく汲々としている。この時第七末那識は、「六識の緊縛を受け」ているかのようである。そうして「内には我執を養い、外には煩悩増進の機会のみを作」ることになる。
ところがこれが「大転回」し、末那識が、自/他を分けつつ分けず、分けないが分ける「平等性智」に転じたとき、平等性智は前五識や第六意識が分けて選んで運んでくるものに対して好きだ嫌いだと汲々とすることなく、なるほどそういう分け方もあるのか、などと大きく構えて眺めていることができるようになる。
ここから思考→妙観察智、感覚→成所作智の転換が叶うと、いよいよ四智が付かず離れずに調和したマンダラ状の心が生じる準備が整うことになるだろう。
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おわりに
ところで、子どもといえば、大ナナフシの夢と同時期にみた断片的な夢も、あわせてご紹介しておこう。
夢 断片
まだ小さかった頃の下の子が、知人夫婦に預けられている。
私は大丈夫だろうかと心配になって、様子を見に行く。
道路をてくてくと歩いて、知人宅の前に着く。
塀の外からこっそりのぞくと、窓が開いており、中の様子が見える。
うちの下の子は、知人の奥さんに抱き抱えられて哺乳瓶でミルクをもらって満足そうにしている。私は「うまくいっている」と思い、声をかけずにそのまま知人宅を離れる。
知人宅から遠ざかりつつ、わたしは、「いやまてよ、ご機嫌がいいのは今だけで、このあと泣き出すかもしれない」と思う。
この夢にも「窓」と「子ども」が登場している。
「窓」はここでも、家の内/外を分けつつ繋いでいる。
そして「うちの子」がわたしから分離され、知人の方に結合している。
うちの子は、普段はわたしの方に結合していて、知人の方からは分離している。経験的に結合しているところが分離し、経験的に分離しているところが結合する、という分離と結合の逆転、伸縮をモードを切り替える動き(伸びている距離が縮み、縮んでいる距離が伸びる)が動く。
ここで知人がちゃんと二人でひとつのセットになっていることも注意しておこう。
わたしβ←→βうちの下の子
↓ ↓
↑ ↑
知人夫β β知人妻
さて、ここでおもしろいことに、わたしはわざわざ預けられている下の子の様子を見にいく。
見にいく暇があるなら、預ける必要ないではないか、と思わなくもないが、これぞまさに、分離しつつも結合し、結合しつつも分離する、という様相である。
さて、わたしから分離し、知人の方に結合したうちの下の子は、知人の奥さんにミルクを与えられて満足そうである。この際、知人の夫の方がいるかどうかはよくわからない。わたしは知人の家の中までは訪れずに、外の道路から、開いている窓を通して、あちらの様子を眺めている。
いずれにしても、いつも結合しているところから分離し、いつも分離しているところと結合する、分離と結合の組み換えは、どうやら一時的に成功しているようだ。
そうしてわたしは、知人の家から離れていく、分離していくが、すぐに不安になる。下の子はミルクを飲み終わると泣き出して、あちらでの結合はすぐに分離に転じるかもしれない、と。
ここでも四つの登場人物、「わたし」「うちの下の子」「知人妻」「知人夫」の四人の間の距離は、近くに結合しているところと、遠く分離しているところの距離感がちぐはぐであり、また安定的に結合している様に見えるところもすぐに分離しかねない「危うさ」も感じられる。
またこの夢では述語的様相の動きがあまりよく見えないので、、「わたし」「うちの下の子」「知人妻」「知人夫」が、それぞれ「感覚」「思考」「感情」「直観」のどれと対応しているかは、はっきりとは言えないが、強いてへば、近づいたり離れたりする動きをする「わたし」は、ここでも「直観」機能を頼りにしている自我であるといえそうである。その上で、子どもが自分から「分離」していることに不安を感じている点では、「感情」=第七末那識、自/他分節をはっきりと分別したいのに分別できない焦りのようなものも感じられる。
わたしβ βうちの下の子
知人夫β β知人妻
四者の間の距離は伸びたり縮んだりする。つまり分離と結合の均衡(等距離に安定すること)は、ゆらゆらと揺らいでいる。
この四機能のアンバランス、感情=第七末那識の分別が引き続き強く効いているせいで、四機能が均衡に向かいつつもまだ不均衡であるという様相は、大ナナフシの夢のそれとそっくりである。
このように、同じ様な心の構えの述語的様相が、さまざまな経験的感覚的な分離と結合の伸縮が感じさせる「不安」(感情=第七末那識による分別)の様相をまとって(食べられそうで怖い・分離したいとか、子どもを危険から引き離なし、安全なところに結合しておかなければ、とか)夢のヴィジョンになっているということがわかる。
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以上、私たちの「心」は、意識の表層の自我が自覚的に分けたり選んだりするのではないところで(無意識のうちに)、心の基本的な四つの分節機能のバランスをチューニングして、つかず離れずの協力関係を維持するべく動いているのである。
夢を通して私たちは、その心の動きを意識の表層で自覚できるようにもなる。
夢を通じて「自我」と「自己」との対話を俯瞰することは、とてもおもしろい。
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