【創作大賞・中間選考通過作品】パープル・セイヴィア
あらすじ
夜の街角、シーシャラウンジで出会った青年・アキと、看護師の千咲。
静かに始まったその出会いは、心の奥にしまっていた痛みや記憶を、そっと揺り起こしていく。
命と向き合う日々に、ほんの少しだけ傾いた心が見つけた、小さな救いと、名前を呼ぶぬくもり。
伝えられなかった言葉、触れられなかった想いが、煙の向こうで静かに輪郭を取り戻す。
これは、“誰かに赦されたい”と願った夜の、ささやかな愛と再生の物語。
プロローグ
窓から見える、小高い丘の上に建つ私の小さなアパートからは、みなとみらいの夜景が一望できる。暗闇の先の先の先。手前の空からは、全く動かない星もいくつか見えていて、遠く離れた明かりが灯るビルには、手も届かなくて、前髪を撫でる冷たい夜風を浴びることで自分の存在を知り、やはり、私には半径1mの世界だけが、丁度良い距離感なのだと自分の心を宥めることが出来る。
膝を抱えて、窓台に座り込んで夜を眺めていると、世界と私の輪郭の境はぼんやりと溶けていき、儚く消えていくように思えるし、時間も闇も、明かりも、冷えた空気も私の深部まで浸透するから、この夜に馴染むという営みをやめる事ができないのだ。
それでも時折、吐息に彩りをつけることで、自分がそこにいることに安心して、この夜の美しさをかみ締めていたことに、明け方にはもうとっくに気が付いていた。
第1章 呼吸の足跡
誰にも触れられたくなかった夜ほど、誰かに触れてほしくなる。
その願いが、私を静かに壊していくことも知らずに。久しぶりのシーシャラウンジの煙は、まっすぐに上昇してから、ゆるやかに横へと広がっていく。
「はい、チェックしまーす」
私がシーシャを吸い終わるタイミングを見計らったように、定期的にラウンドする彼は、チャコールホルダーから、じんわりとまだ赤みの残ったココナッツの炭を、小さな鉄のバケツに小気味良い響きを持たせて、落としていく。
広い店内にそれが浸透すると、再び静寂は訪れ、彼は私から銀色のシーシャホースを受け取り、自分のマウスピースを手際よく嵌め込んだ。
フラスコ型のボトルの中で低く音をたてて、空間を埋めるように素早く煙を吐く姿は、ジャズそのものだ。ふわりふわりと、視界は白く、私達をゆっくりと包んでいく。
空間に夜が戻ってきた頃「はい、オッケーです。どうぞ」と、再びシーシャホースを傾け、私は、本能的に彼の手に触れないように、それを受け取った。吸っては、吐く。そんなシンプルで奇妙な間とリズムは、私の日常をゆっくりと惑わしていく。
大きな窓の反射を利用して、私はこっそりと彼の横顔を眺める。
鼻筋が通り、肌理の整った白い肌の顎先には、あえて残した無精髭と、細い首に垂れ下がるオーダーメイドのマウスピースが、シャープな輪郭を強調していた。トータルを黒に統一した、シンプルな服装はスマートで、ハネ感のあるウェーブパーマが、肩のあたりで優しく揺れていて、ラフさとクラシカルな調和を生んでいた。
窓に近寄る夜の闇は、私の頬に載るモーヴピンクのクリームチークがさらに色を重ねたことにとっくに気が付いているはずだ。見慣れた顔であるはずなのに、名前を呼べないことがもどかしい。
時々彼は、ほんのわずかに、首を傾げ、音の先をチラリと横目で確認する事がある。音の先をそっと拾い上げる眼差しは、きっと耳が良いことも私はとっくに知っている。
彼の吐く煙がふわりと窓の反射に溶けていくのを見て、思わず声をかけた。
「上手に吸えないんですよね」
私は寄っかかるように声を出し、もう一度シーシャホースを彼に渡した。
「キレイに吸えてますよ。炭の減り方も丁度いいし。お煙草は?」
「あ、少しだけ」
と、喫煙者である事実を、言い訳のように口に含ませる。
「見ててもらって良いです」
か、と言い切る前に、彼は既にシーシャを吸い始めていて、オーディン製のボトルの中で、無色透明の液体は躍動感のある生き物のように弾け出して、その上に伸びる炭の受け皿であるアッシュトレイは、土星みたいにくっついていて、彼の吐き出す煙の中で小さな宇宙を作り上げた。
橙色のライトによって仕上げられたセピア色の店内は、彼には少し明るすぎて、私のフレーバーを間接的に吸い上げる姿は、妙に艶かしくて、私はとうとう目を伏せた。
「はい、どうぞ。煙草と違って、深呼吸みたいに、深く短く吸い上げていく感じですね」
言われた通りに、もう一度マウスピースを甘噛みし、吸気の限界を探る。ボトルの水面は、先ほどより大きく揺れ動いて、返事をするように疼いた。耳に振幅を広げながら、呼吸を解放していくと、濃度の高い煙が、私の顔の前にふわりふわりと雲を撒き散らしながら、開放感のある広い窓に淡く儚く散っていく。
「うん、キレイ」
哀愁だけを残す何もない空間は、自分の心の中をフレーバーに託して解放されていく心地良さがある。
二度目の「キレイ」は、無色透明に、さらに昇華してすっと私に馴染んだ。
「お姉さん、ここ気に入ってくれたみたいで嬉しいです」
このシーシャラウンジは、いつしか私の隠れ家となっていて、親友の綾と冷やかしで入店したのが、そもそもの始まりだった。
全面窓張りの広い店内には、見慣れた常連客の顔が並ぶ。静かに水音同士がもたれかかって作り上げる幻想は、仕事帰りの耳に心地が良く、私はすっかり、店の雰囲気とシーシャに魅了されていった。
店内にあるフレーバーは150種類を超えていて、その日の気分によって香りが選べる上に、フレーバーをミックスしても、チャージ料は変わらないという良心的な優しさがあった。BGMのない店内では、静かに本を読んだり、ネットサーフィンをしながらシーシャを嗜む人々が共存しながらも独立していて、不思議な一体感があった。
「居心地良くて」
「それはよかったです。フレーバー、お口に合いましたか」
トリフェクタのボヘミアミックスをベースにしたテバジのアールグレイと、グリーンアップルのミックスは、私の期待値を遥かに超えていた。
鼻に抜けるほんのりとしたバニラと、癖の少ないシナモンは、どんよりとした体に程よく刺激を残し、抑揚のある物語の読後に訪れる高揚感のようだった。爽やかな香りのアールグレイと、甘みに素直なグリーンアップルは、吐き出すハッピーエンドには丁度良い。
「美味しそうに吸いますね」
彼のつくるフレーバーには、余白がある。吸って、吐いて、その一瞬にしか存在しない調和が、私をやさしく包んでいく。
「お姉さん、飲み物は持ってきましたか」
「いえ、まだ」
店の出入り口付近には、ドリンクコーナーがあったはずだった。香りは、乾きを抑えるというのは本当かもしれない。
「ここ、コーヒーもお勧めですよ」
「あ、確かに、いい香りがするなぁって思っていました」
時折漂う香りは、棘のない、真水の延長線にある柔らかいものだった。
「コーヒーも僕が仕入れているんですけど、結構こだわっていて」
「へぇ。すごい。例えば?」
「キリマンジャロ、マンデリン、グァテマラ、カフェインレスのスタンダードなものから選べます。シーシャの香りと味を邪魔しない、深みや、苦味はあるけど後味がさっぱりするヨーロピアンコーヒーを採用していて、店内で焙煎しているので、挽きたてがやっぱりお勧め。シーシャの小休憩に、相性は最高っすよ」
後半の語尾が砕けて跳ねているのは、彼の想いが滲み出ていることがよくわかるし、それでも低くて優しい声は、丁寧に焙煎されたコーヒーの相性をより引き立たせた。
「お持ちしましょうか」
「コーヒーメーカーの使い方教えてもらえます?何杯か飲んでしまいそうな気がするので」
「はい、ぜひ。こちらになります」
ドリンクコーナーには、パックジュースの並びが充実してて、その裏手には、ポップな赤い枠組みに、透明なショーケースの中で弾け合うポップコーンメーカーに向き合うように控えめにそれは並んでいた。
「何にします?」
「キリマンジャロで」
「挽きたてがあるのでお持ちしますね」
彼の声は、挽きたてのコーヒーのようだった。深くて香ばしく、後味は驚くほどやさしい。ものの数秒で奥のカウンターから、焙煎されたコーヒーを持って、私の為に現れることに嬉しくなった。
彼はすらりと身長が高くて、隣に置くには十分すぎるほどの風貌であったことに、改めて気がつく。指先が細い。青白い肌と、透明感のある手関節には、繊細な血管の走行が艶かしくて、力を入れる度に、ゆっくりと怒張していく。あっという間に、広がるフレグランスな香りと共に、カップには既にコーヒーが注がれていた。
「僕も元々は、スモーカーで、そのお供にコーヒーを飲んで歩いていたら、ここにたどり着いちゃったんですよねぇ」
どうやら、私が喫煙者である事実はとっくに知られていた様で、咄嗟に左手の甲で口元を覆った。
「お席までお持ちしますよ」
彼はそう言うと、私の体重を少しだけ残した革張りのチャコールブラウンのソファに並ぶ、小さなウッドデスクにそれをコトンと置いた。
「ごゆっくり」
そこから私は、彼の作り上げたコーヒーと、フレーバーを視覚で優しく撫でていった。色気のある空間は、色気のある男と、色気のある靄で満たされながら、夜は更けていく。モーヴピンクの少しだけ明るい闇は、だんだんと月の明かりに慣れて、ぼんやりと燻んでいった。
店内の時間軸は、一枚の写真を切り取ったような静止に近い進め方をしていて、1分を60秒と捕らえる大らかさがあって、窓から入り込む冷気すらそれを投影した。
カウンターの奥では、先ほどの彼がゆったりと接客していて、静かな席で誰かの働く姿を眺める贅沢を知る。
休みなくシーシャを吸い続けていると、なんとなくアルコールに似た酩酊感が芽生えてきて、長居すべきではないと感じた。
コートを羽織ったところまでは覚えている。次の記憶は、彼の腕に抱きかかえられて、革張りのソファにそっと寝かされている場面だった。
「お姉さん、大丈夫」
「酔った」
「飲んで」
と、冷たいペットボトルを差し出されて、おもむろに彼の腕に寄りかかりながら、体を起こした。「ごめーん」と、出てきた言葉はあまりに幼稚で、喉を伝う冷たい水は、クリスタルゲイザーの軟水だと、ぼんやりと浮かんだ。
「アキ。そろそろ」
「あ、そんな時間か」
「僕上がりなんで、下まで送ってきます。準備するから寝てて」
セピア色の世界は、どうやら私まで侵食したようだ。頭は働かないし、体は重いし、敗因は水分不足と酸欠だなぁと、なんとなくの点と点を繋ぎ合わせて、また脆く体を崩していく。
「行きますよ」
店のカフェカーテンに取り付けてあるベルがちりんちりんと鳴り、エレベーターの揺れを感じながら、彼の体温がじんわりと溶け込んでいくのを感じた。
「帰れる」
細かく単語を鳴らしてくれる優しさを感じながら、私は声が出ず、苦し紛れのため息をついた。
夜が、頬に触れた。
「窓を少し開けてもらえますか」
時差のように聞こえた声で、私はどうやらタクシーに乗せてもらったことにやっと気付くと、道の傾斜や揺れに合わせて、ずしんと頭が重く痛んだ。
それでも春の匂いがする。
タクシーの窓から見える住宅や、公園や、街路樹や、自動販売機が、進行形の粒子となって薄いオブラートで季節の転換期であることを自然に教えて、彼の腕と肩に身を預けながら、どこか焦点の合わない遠くを眺めて、すれ違う自動車を淡々と受け流していくことに集中した。
車内の振動に呼応して、彼の指先は、私の耳や、頬や肩に温度だけを残して、私という女の輪郭をつけていく。私は彼のことを求めているのだろうか。深部から冷えた体は、彼の為に静かに時を待っていたけれど、簡単に私に触れる彼の綺麗な指に、少しだけ違和感を感じたことも確かだった。それでも、暖かい細い指に安心して、私は彼のぬくもりに身を委ねた。
働かない頭と心は、水洗の穴に抜け落ちるような感覚と、淀んだ黒と、腐敗した匂いを混ぜて、6年前の記憶を無意識にたどりながら、マーブルな感覚を置き去りにした。
「あ、カードで」
彼はタクシーの支払いを済ませて「着いたよ」と、私をまた抱きかかえた。見知らぬ風景の中で遠くに映る月の光を見てほっとして、まだ靄のかかる頭を振った。
彼の部屋は暗闇が広がっていた。キッチンのライトだけをつけると、整然と物のない無機質な部屋を進み、私をベッドに優しく置いた。
「うち、ライトないんだよ。ごめんね」
そういうと、横たわる私の隣に腰掛ける。
「水、飲む?」
そう言って立ち上がり、ウォーターサーバーから水を注ぐのを、薄れる意識の中で見た気がした。私を抱きかかえて起こすと、ひんやりとした水は、たくさん飲めなくて、数口ごくんという音をさせた後に、彼にそのまま差し出した。
「ありがとう。ごめんね」
「よく、謝る人だなぁ」
と、薄暗い部屋の中でその声はやさしく響いた。
「アキっていうの?」
シーシャラウンジで彼を呼ぶ店員の声が頭に浮かび、小さな声で問いかける。
「うん。お姉さんは?」
「千咲」
それだけ答えて私は、ふかふかなベッドに沈み込んだ。
ライトを消す音と共に、再び夜が現れた。アキは私の首元までそっと羽毛布団をかけて隣に寝転んだ。瞼が重い。
「どうしたい?」
私は、そんなことを聞いた。
「千咲は?」
急に呼び捨てにされて、胸がふいに鳴った。けれど私は、彼の胸に身を預けると、意識がふわりと遠のいていくのを感じた。
このまま、触れられてもいいかもしれない。むしろ、壊されてもいいとさえ思った。それが彼の手なら、尚更だった。誰かに抱かれることでしか、自分の存在を確かめられない夜も、確かにあったのだから。
そう思ったのは、店内の空気に溶け込んだ煙のせいだったのか、それとも、自分が誰かに「赦されたい」と、どこかでずっと願っていたからなのか。わからなかった。
私はもう一度、できる限り女になることにした。この部屋には、かすかに香水のような檜の、懐かしい香りが漂っていた。頭をなでるアキのあたたかな手が、虚ろな視線の奥深くへ静かに引きずり込み、やがて私は、静かな眠りに落ちていった。
明け方になったことにも、朝が来たことにも気付かずに。
ただカタンという小さな物音と、立ちのぼるコーヒーの匂いに包まれて目を覚ましたとき、私は、驚くほどよく眠っていたことを自覚した。
「アキ?」
自然にそう言ってから、私は無性に恥ずかしくなった。何もしていない男に、そんなふうに敬称を外したことがなかったからかもしれないし、なんて間抜けな声の掛け方をしたのだろうと、俯いた。しばらくして、化粧も落とさず一夜を過ごしたことに、慌てて顔を押さえた。
「一人で何やってんの」
アキは笑いを含んだ低い声でそういうと、私の隣に腰掛けて、脇腹にそっと手を置いた。
「飲む?」
こくんとうなづき、カップを受け取ると、ふんわりとしたコーヒーの香りが私の顔を包んでいった。目を閉じて、一口を確かめるように飲み込んだ。
彼の優しさは、行動や言葉よりもずっと深い場所からにじみ出ていて、存在そのものを抱きしめられているような感覚だった。
「キレイ」
アキはそう言って、「俺にもちょうだい」と、私からカップを受け取ると、一口飲んで、ふっと息をもらした。彼の吐息になりたい、と思った。
なんだか急に恥ずかしくなって、私はそっと上目遣いでアキを見た。その瞬間、彼は静かにカップを床に置き、柔らかいベッドに、私を押し倒していく。
「千咲、会いたかった」
アキは私のおでこの前髪を指で絡めて流した。柔らかい髪の毛が、私の顔にそっと触れる。そのまま唇を塞がれて、私の上唇を甘く噛みながら、優しく舌が溶けてくる。彼の顎に手をおくと、少しだけ柔らかい髭が指先にあたり、そのまま輪郭を確かめるように耳元に手をかけた。アキの高くてシャープな鼻が私の顔にコツンとあたる。角度を変えながら、私の唇を探す彼の動きに、私も顔の向きを傾けながらお互いの心地いい場所を一緒に探していく。
外来の点滴ベッドで微睡んでいたあの頃の光景が、ふっとよぎる。私は、アキに集中した。
不思議なキスだった。経験豊富な訳ではないけれど、気持ちが良いと、直感的に思った。アキは私の唇を何度も何度も甘噛みして、そっと舌を絡めていく。じんわりと、ゆっくりとしたキスは、なんだかしっくりきて、二人の吐息の中で私自身の輪郭が徐々に濃くなるような気がした。
彼の顔を眺めたい衝動に駆られて薄目を開けた時「ごめん」と、アキはそう言って唇を離した。そして、もう一度「ごめん」と繰り返した。
「ごめん、前から時々見かけてて、それで…」
と、左手の甲で口元を覆った。
三度目の「ごめん」と、そんな仕草が少しだけちくんと心の上っ面を指先で弾いた気がした。
彼の猫のような細い髪の毛を撫でた。無償に愛おしくなったし、可愛い人だなぁと、素直にそう思った。
「今日休み?」
「うん。休み」
ぼーっとした頭でそう告げると、アキは私の顔を覗き込んだ。
「デートしない?」
あどけない声と表情に、不意に心がふわりと浮いた。まっすぐに見つめる目もとは、重なる二重がやさしくて、間近で見るほどに整った顔立ちが際立つ。伸びかけた無精髭の輪郭に、なぜか懐かしさがにじむ既視感があった。
「うん。仕事は?」
「俺も休みな気がする」
「曖昧だねぇ」
目が合った瞬間、ふたり同時に笑みがこぼれた。昨日の夜まで、だだの客と店員だったはずなのに、一晩隣で寝ただけで、こんなにも打ち解けられるのはなぜだろう。それは、さっき交わしたキスの余韻だったのかもしれないし、続きをしたかったからかもしれないし、それでも、そんなことはどうでもいいような気がした。
仲良くなるには、壁を取り去るには、「男と女」になることが手っ取り早い。彼の部屋には、上品な棚にアロマキャンドルが何個か並んでて、部屋の中心にはシーシャがことんと置かれていた。
シンプルで無機質なのに、家具を多く広げない、彼の存在を引き立てるその部屋は、チャコールグレーを基調とした空間を邪魔しない控えめな性格が窺える。
「家でもシーシャ吸うの」
「うん。もともとは趣味で調合とかするまで好きでさ。あの店も、入った次の日から店頭で好きにさせてもらえる感じだった」
ベッドの隣にはまた小さな棚と背の高いパキラがあった。彼の存在を象徴するフレーバーの入った瓶が少しだけ熱を込める言葉に重みを持たせた。
シーシャラウンジに置いてあったフレーバーの瓶に描かれていた文字と同じで、丸っこくて可愛らしい形に、目尻が下がった。
アキは、私の顔を覗き込んで「隣にいるなんて不思議だなぁ」と、ベッドに倒れ込んで、目だけを私に移したあと、体を私の方へ向けた。私も隣にころんと寝転んで、「その話もう少し聞かせてよ」と、アキの顔を見た。つい唇に目がいくのは、さっきの余韻が残るからだということはわかっていた。
アキの唇は、薄くて、優しい桃色をしていて、そっと、人差し指を伸ばして柔らかい上唇から、顎元まで撫でた。さっきまで私の潤いを持っていたはずの唇は少しだけ乾いていて「もっと濡らしたい」とそう思った。
「うーん。ネタバラシ早くないですか」
「急な敬語」
私は吹き出して、ふたりで小さく笑って、彼は髪の毛をかき上げて、天井に向かって仰向けになり、両手で顔を覆った。私は、アキの顔を覗き込んで、細い指を開いていく。指の間から垣間見える薄く二重になった瞳に、私は笑いかけて、アキもまた控えめに照れたように笑った。
時計は昼の11時を過ぎていて、私のお腹はぐーっと間抜けな音を立てた。
「お蕎麦、好き?」
私はうなずいた。
「行こう」と、長い髪の毛を揺らして、口角を上げた。
昼の太陽は、どこかアキにはまぶしすぎる気がした。
私は彼の腕に手を置きたいと思いながらも、隣を歩き、時々横顔を覗き込みながら、会話の間に気をつけて相槌を打った。
私の一晩過ごした土地は、どうやら辻堂という駅の近くだったようで、至る所にウクレレを背負うご婦人で溢れていた。
「家は?」
「今は相鉄線沿い。元々は群馬の出身」
「へぇ。この辺は茅ヶ崎が近くにあるから、フラとか、ウクレレの教室が多いんだよ。子供の頃からこの辺りで過ごしていたんだ」
と、アキは丁寧に説明していった。遠い過去を眺め懐かしむように、アキは微笑んだ。愛着のある土地にはアキの輪郭を少しだけ濃くしたように見えた。
「辻堂へ、ようこそ」
アキは、紳士のように手を胸元に置き、会釈する。
「なにそれ」
「今日はいっぱい歩くけど、疲れてない」
「うん、大丈夫」
彼の声は、低音で、少しだけ聞き取りづらくて、夜を含む淡いネイビーが私の心を包むようだった。
ずっと聞いていたい。彼の声を、彼の話す言葉を。私の右耳は、半分聞こえなくなっていたけれど、彼のために耳をただ澄ませた。一言も漏らしてはいけない、とそう思った。また会おうと思えば、会えるのかもしれない。それでも、一度「男と女」になってしまったことで、その先にある関係が壊れてしまう可能性を、私はもう無視できなかった。心がちくん、と傷んだ。
昼の太陽は、控えめに昇っていたけれど、眩しすぎることはなくて、淡い関係性という曖昧さが反映されているようだった。
木の看板の立てかけてある古民家風の蕎麦屋に着くと、彼は慣れたように扉を開けて先に通してくれる。「2」と、アキが指でサインをすると、切りっぱなしのボブの清潔感のある女性店員が、奥の席に案内して、私達は向かい合わせに座った。私は天ざるを頼み、彼は鴨ざるを頼んだ。彼は慣れたように暖かい蕎麦茶を私のグラスに入れて、セルフサービスの当たり前を一緒に提供してくれる。
「あぁ、沁みるぅ」と、私が言うと、アキは目尻を下げてその様子を眺めた。「キレイ」と、呟いて。
その一言が、どうしてこんなに深く刺さるのだろう。自分で否定し続けていたものを、まるで許されたみたいに、心が静かに揺れた。誰かに愛されることは、与えられることじゃない。ただそっと、そばにいてもらうだけで、十分なんだと、そう思えるような気がした。
「で、千咲は、二日酔いなのかな」
アキはゆっくりと喉仏を動かして、左手を顎に置いた。自然に目が合う。
「酔った、のかもしれないねぇ」
「それ、昨日の夜も言ってた」
昨日の失態は、ある意味正解だったのかもしれない。こんなにも、浮力に満ちた時間が与えられたのだから。
「千咲は、何している時が一番幸せ?」
私は驚いた。年齢や、職業や、家族構成やそんな当たり前が飛んでこなくて、拍子抜けしたのだ。私は彼の喉仏を見つめながら、唇に這わせた人差し指を思い出した。あのまま、喉元まで手を伸ばしておけばよかった、そんなことを思いながら、返答は一つしかなかった。
「おいしいものを誰かと一緒に食べること」
今の、私が一番幸せだと感じた心の底からの本心だった。
「いいね。俺も同じ」
「はい、天ざるのお客様。一口目は塩でお召し上がり下さい」
小さなお皿には荒く粒の大きな塩がちょこんと置かれていた。控えめな色のざる蕎麦と天ぷらと一緒に。
「おいしそう」
私は声をあげて、「いただきます」と、手を合わせて、アキもまた「いただきます」と、手を合わせた。
お箸でそっと塩を塗して歯応えのあるそばを喉に落とした。あっさりとした自然な深みが混ざって香りが鼻に抜けていく。
「おいしい」
私はうっとりとして、空間を眺める。
「うん、おいしいね」とアキも言った。
「ね、天ぷらは何が好き?」
「ん、迷うなぁ」
「じゃあさ、せいので、答えよ?」
「せーの!」
「なす」
「かぼちゃ」
重なる声が弾けた。
「うそ、かぼちゃ?」
「一択だね」
「気が合わないねぇ」
「取り合いにならなくていいでしょ」
未来を含む回答に、私の心は、辻堂の太陽のように控えめに照らされた。
「では、泊めてもらったお礼に差し上げましょう」
「受け取りましょう」
「あっ」と口を開けたアキに、私はかぼちゃの天ぷらをそっと差し出す。整った歯並びのきれいな口元に、それがゆっくり収まっていく。彼の喉にカボチャが通るのを見てから、私も茄子の天ぷらを頬張った。ゆっくり静かに時間は流れる。
「キレイ」と、アキはまた私に向かって呟いて、少しずつ蕎麦を頬張っていく。箸の使い方が綺麗で、啜り方が丁寧で、私のペースに合わせて一口ずつ静かにゆっくりと食べる姿に、愛おしさを感じた。そんな些細なことが、私の空っぽだった心を、じわじわと染めていった。
私達は、店を出てまた歩き始めた。
「アキ」と、私は何度も名前を呼んだ。私の中の欠けたものがひとつずつ戻ってくる気がしたから。アキはその度にニコリと笑いかけてくれた。
今はまだ、すべてを手放せない。でも、「誰かに大切にされる自分」を、少しずつ受け入れてもいいのかもしれない。
私は、ただ愛されたかっただけなんだ。
歩き出した先に広がる辻堂の海は、砂地に私たちの呼吸のような足跡をさらいながら、それでもかすかに、その存在を残していった。
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あなたにもそっと、届きますように。