パープル・セイヴィア《第6章 こぼれる声》【創作大賞2025】
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第6章 こぼれる声
「トイレさぁ、足らんよね?」
「足らん、圧倒的に足らぬ」
高校時代に習った古文の助動詞を思い浮かべながら、綾とこんなことを話していた。休憩室には、「患者様の声アンケート結果」と書かれた張り紙がされていた。要はクレームの張り出しだ。
・外来の待ち時間が長い
・○○内科部長が横柄だ
・洗濯乾燥機の数が足りない
・看護師の化粧が濃い
・患者用のトイレを職員は使わないでほしい
この最後のクレームを見て、みんなため息をついた。各階に職員用のトイレは一つだけ設けられていた。
ただ、「小さな」という謳い文句の病院でありながら、在籍する職員は1000人近くにのぼる総合病院で、どう考えてもトイレの数は釣り合っていなかった。
いつも赤く灯るロックマークを睨みながら、外来や別棟まで駆け込んで用を足す職員も多く、膀胱炎を患う者も決して珍しくなかった。中には、排泄を我慢するために飲水そのものを控える職員さえいた。
もちろん、患者用のトイレが職員に使用禁止とされているわけではなく、「職員も利用します」という貼り紙があちこちに掲示されている。それでも、私たちの中にある小さなプライドが疼くのだった。外来患者のトイレを職員が使うことを、快く思わない人がいる。ただ、それだけのことなのに。
「トイレ行くなってこと?」
綾は病棟の隅っこにある、職員用トイレの行列の前で私を見て口早に言った。
「綾、ちょっと質の良いリハビリパンツ、この間のおむつ研修の試供品で私もらっておいたよ」
「怖いことしれっと言わないでよ。私のキュートな尻にはハーフバックパンティという浮ついたものしか纏えないのよ」
「すっごい、吸うんだから。吸水パットなくてもいけちゃうくらいのやつ。すっごぉーいんだから」
「わかったって、千咲。待ってられない。私外来まで走る」
綾はトイレの列を並ぶのをやめて、走り出した。エレベーターを使わず階段の開錠ボタンを素早く押して重い扉はゆっくりとガチャンと閉まっていった。
トイレを終えてナースステーションに戻ると、非常勤の弥生さんが急遽早退したということで、受け持ち患者の割り振りの調整がされていた。
「依田、あと一部屋。四人追加で」
「承知しました」
こんな風に、受け持ち患者人数はラーメンの替え玉を頼むように膨れ上がる。それでも、弥生さんの普段の働きを見る私たちにとって、そんなことは日常の光景だった。
気付くと背後で息を切らす綾が、私の肩に手をかけて頬を赤らめて立っていた。
「外来のトイレも空いてなかった。いや、空いているトイレはこの世には存在しないのかもしれない。悔しいが、高機能リハパンの出番かもしれない」
綾は早口にボソボソと話した。
「青山、重傷部屋四人頼んだ」という鞍上先輩に綾は露骨に「げっ」と言った。鞍上先輩は何か言おうとしたけど、綾は振り返りもせず、またトイレ探しの旅に消えていった。
外来は今日も混み合っていた。私はそのざわめきを抜けて、中庭を通り、外通路をしばらく歩く。辿り着いたのは、新たにオープンする予定の別棟だった。扉が開いた瞬間、まだ新しい木材の匂いがふわりと鼻をくすぐる。陽はもうすぐそこまで落ちてきていた。
周囲はまだガランとしていたけれど、採算が見込める部門は次々とこちらへ移設されることになっていて、内視鏡室やエコー室、処置室、そして広々とした診察室がいくつも完成していた。
その中に、佐藤先生の糖尿病専門外来も含まれていた。新棟での作業に取り掛かっていると聞いていた私は、佐藤先生に会いに足を運んでいたのだった。
「佐藤先生、すごいね。こんな綺麗な部屋使わせてもらうなんて」
「あぁ。でもさ、俺も忙しくなっちゃって。新しい先生来ることになってるから、それまでの繋ぎよ」
「佐藤先生がこっちに専念は出来ないわけ?」
「かなりいま振り分けさせてもらってるんだけど、なかなか全員は厳しくてさ」
「そうだよねぇ、シャントの増設術まで始めちゃって。もう、外来に置いとくだけには出来ないよねぇ。あ、NST委員会の議事録今渡しちゃっていい?」
私と、佐藤先生はNSTという栄養サポートチームに所属していた。毎週水曜日に全患者の採血データの異常値をピックアップして、食事の内容や、補助食品の追加、点滴の変更などを提案するチームである。
会議の議事録を作成してメンバーに配るのは私の仕事だ。本来は一部保管していれば問題ないのだが、翌週の会議までに患者を評価をするために、会議を欠席した職員に配って歩いていたのだ。
「ん。毎度ご苦労だねぇ」
「仕事なんでね」
「あ、で、この人なんだけど。点滴フルカリ2号輸液にあげたいんだけど、どうかな」
「良いんじゃない。CV入れてから時間も経ってるし、佐伯先生に言っておくよ」
「ごめんね。私も何度か言ったんだけど、一向に処方変わらなくて」
「伝えておく」
「ありがとうね」
「千咲」
「うん?」
「顔色、良くなったな。生き生きしてる」
「そうかなぁ…そうかも」
「安心した。俺そろそろ戻るわ。今日こそ定時で帰りたい」
「私も」
私たちは、外通路を歩き、いつも通り院内に戻った。
外来の前に通ると、綾が青白い顔をして、つっ立っていた。
張り詰めた空気は、一向に見慣れない。何かが起きている、それだけはわかった。とはいえ、そんな綾に何か声をかけようと、できるだけ穏やかに話しかけることにした。
「綾、トイレまた見つからないの?新棟行ってきなよ、広いよ…」
私の話終わらないうちに、綾は大きな大きな声を上げた。
「千咲──」
「え、どうしたの」
「弥生さんが」
「弥生さん?帰ったんでしょ」
出勤ナースのホワイトボードの「早退」の文字を思い浮かべながら、動揺する綾をきょとんとして眺めていると、空気が一層揺れ動いていくことがわかった。
「弥生さんが、やよ、今そこに…そこにぃ…そこにいるのぉ…」
綾は、膝を落として、私の足元に崩れ落ちた。握られた手からは、震えが小刻みに伝わってくる。
私は、思わず佐藤先生の方を見た。ポーカーフェイスの奥に、見慣れたあの真剣な眼差しがあった。息を呑み、私は静かに、けれど確かに歩き出した。
救急外来は、搬送患者をそのままワンドアで室内へと運び込める造りになっている。
その中央には、ストレッチャーが一台、静かに置かれていた。
そこに横たわっていたのは、見慣れた顔の人だった。音も、空気も、すべてが一瞬止まったようだった。キーンと耳鳴りのような音が、頭の奥にだけ響いていた。
私はゆっくりと、けれど確かに足を早めて、そのストレッチャーに近づいた。
「……弥生さん?」
瞬きをしない、真っ白い顔をした弥生さんがそこにはいた。思考が、停止していく。
気がつけば隣に、外来で元気が取り柄の茜さんがいた。彼女は、静かに語り始めた。
「家のね、クローゼットの取っ手に首を引っかけていたのを旦那さんが見つけたみたいなの。
仕事から帰ったら、渚ちゃんはおばあちゃんの家に預けられてるって連絡が入ってて、お迎えに行って自宅に戻ったら……もう、そうなってたみたいで。
うちに来た時には、ほとんど手遅れだったの。お顔、見てあげて。あ、佐藤先生も」
五十嵐弥生、33歳、女性。当院に在職する内科看護師は、患者になることもできず、そこにいた。
救急隊の心マ(心臓マッサージ)開始後も自発呼吸は戻らず、深い低体温状態のまま搬送されてきたという。自宅から最も近かったこのさくら中央総合病院に、彼女は戻ってきた。
呼吸も脈もすでになくなっていたという。
首の痕は、皮膚の色を変えていた。タオルの幅だけ、横に青黒く線を描いて。
不思議と見てきたような想像力が働いた。
助けを叫ぶ声。伸ばされた手。けれど、その手は虚空を掴んだ。届かない。間に合わない。
祈りは、ただ、遅かった。
私が弥生さんに再会したとき、それはすでにCPA──心肺停止状態だった。
その情景の中の静けさが、小さな川のせせらぎのような弥生さんを想って、言葉が出なかった。
静寂と共に、更に耳がキーンと音を立てた。弥生さんは部屋着のトレーナーを着ていて、弥生さんの顔と体がそこにあった。
いつもの、襟足でお団子を結ぶ彼女ではなく、黒い髪の毛が、肩元に垂れ下がっていた。頬を触ってみると、冷たくて、すでに硬くなり始めている。なぜか、手を握りたくなり、薄い白の掛け物をを剥いで、細くて薄い手のひらを抱き寄せた。
指の関節が異様なほどに柔らかくてそれでも、肘が硬くて、血の気のなくなった皮膚は、薄い青色と、黄緑がかった不思議な色をしていた。
患者の点滴を一緒に入れている光景が、脳内に再生された。私が見つけた血管を一緒に触り、顔の目の前でうなずく弥生さんを思い出した。弥生さんの腕には血管には、止まった血流が不思議と皮膚の中に吸い込まれるように、色味だけが強調されている。まるで、あるものが存在しないかのように、否定されたような感覚が広がっていった。
私の手は、冷たくなっていて、もっと冷たい弥生さんの手は、そんなことを気にしていない気がした。顔に目を向けてみる。やっぱり綺麗な顔立ちをしていた。すぐに目を背けて、私の知っている弥生さんを探そうとした。
会議室で、頭を撫でながら、弥生さんが話をしていたことを思い出す。仕事のこと、子育てのこと、結婚の事。あれは、2年くらい前のことだったような気がする。
もう、時間の軸も思い出せなかった。私の撫でた髪の毛は、艶があって、黒くて、少しだけ白髪が混ざっていて、話す彼女に何も言えずに、「大好き」とだけ言ったことをまた思い出す。
何も考えられず、何も言えずに、膝がガクガクして、冷たい床へ抜け落ちていく感覚があった。それでも、なんとか隣の佐藤先生に腕と、腰を支えられていたことに気がつき、ふらふらと、救急外来を出た。
外来の処置室の方からは幼児の泣き声がした。
「マンマー、マンマー!」
耳を塞ぎたくなった。無垢な声が残酷だった。何も聞きたくなかった。
胃液が、吹き出しそうになる。
口元を押さえて、呼吸が荒くなりながら、息を吐き出すことを忘れた。
私の心臓は、拍動している。音が聞こえる。嗅ぎ慣れた、死んだ患者の冷たい匂いがする──。
佐藤先生の腕を、私は何度も振り解いて進もうとした気がした。それでも、大きな腕で、後ろから抱きしめるように私の歩みにだだ、寄り添うように歩みを共にしてくれだことだけはわかった。
外来のデイルームに着いた。ガシャンと、音を立てて、膝に椅子がぶつかった感覚を気がつかないふりをした。見上げるほどの天井まで伸びる広い窓からは、満月が登っていた。
「マンマー!マンマー!マンマー!」
遠くで、赤ちゃんのような渚ちゃんのような誰だかわからない子供の声がうっすらと聞こえてくる。
いや、聞こえていなかったかもしれない。頭に反響していただけかもしれない。
私は声を上げていた気がした。私の口から、声帯から、何を言っているのかわからなかったけれど、文章にしたら、壊滅的に支離滅裂なんじゃないかとどこかで思ったような気もした。
「佐藤先生。ねぇ、弥生さんが…弥生さんが…弥生さんが…」
声は呻くようにしか出なかった。
叫ぶように、苦しさを解放したいのに、誰かが馬乗りになって押さえつける。
鼻水は喉の奥に流れるのに、涙が出なかった。私は、いつからこんなにも欠陥商品になったのだろう。最後に泣いたのはいつだ。私は心がないのだろうか。あんなにも、美しくて、優しくて、賢くて、誰よりも人の命を大切にする弥生さんが、冷たくなっているのに、私はどうしてこんなにも壊れているんだろう。
呼吸が荒い。
胸が、痛い。
全身にまとわりつくように、空気が絡む。
何も考えられない中で、私は、佐藤先生の胸に顔を埋めていた。ただ、ただ、きつく、きつく、私は抱きしめられていた。
私はずるいと思った。自分自身に。甘えられる人、甘えさせてくれる人に、弱いふりして近づいて、自分の荷物を軽くしようとしていたのかもしれない。成長するふりをして、がむしゃらなふりをして、同情を買うようにして、優しい人に漬け込む、真っ黒な心を持ち合わせていたのかもしれない。その代償は、涙に表れて、一生流すことができないのかもしれない。
心は、マーブルにもなれなくて、心を捨てたくなって、それでも、この佐藤先生の胸のぬくもりを離すことはできなくて、大きな窓の前で嗚咽を吐いた。
「私は誰なんだろう」
弥生さんの声が聞こえた。涙ぐむ切長な目元が浮かんだ。
私は、誰なんだろう──。
反芻する言葉、反芻する問い、反芻する子供の声。
病棟で交わした最後の言葉はなんだった?私は会話したのだろうか?どんな表情をしていた?昨日も、今朝も、弥生さんに会っていたはずだったのに。
「ごめんね」
思い出した。弥生さんは、私に謝っていた。
昨日も早退していた。具合の悪い渚ちゃんがいたはずなのに、不思議と今日も出勤していて、また昼前には早退していた。
無理して来ていたのだろう。具合の悪い渚ちゃんを、保育室に預けて。
私は、お母さんの弥生さんを認めてあげていたのだろうか。お休みしてもいいんですよって、声をかけたことはあっただろうか。
なんでも、できる弥生さんがギリギリまで仕事している姿を当たり前だと思っていたのではないだろうか。知っていたはずなのに。
私は誰なんだろうって。もがいていたはずなのに。もっと前から。辞めると言ってからも、辞めることを止めたのだろうと気楽に考えていたのではないだろうか。
私は、こんなにも近くにいた大事な人に、寄り添うこともできない。
患者のHOPE?
いつからそんなに偉くなったんだ。
私は、私は──。
なんにも、できないじゃないか──。
想いは形になれずに、佐藤先生の胸に預けるように消えていった。
私達のいるデイルームは、一向にライトがつかなくて、真っ暗な闇の中で月だけが、やたらに明るく、私達だけを照らしていた。
遠くにこちらを見て立ち尽くす綾が見えた。いや、視覚がぼんやりとしていて、もしかすると、いなかったかもしれない。消えていなくなるのは、私の方がお似合いなのに。きっとそう言葉にしたと思う。
季節が変わる事を私はもう、忘れたのかもしれない。いや、感じようとしなかったのかもしれない。
今日も忙しい。弥生さんの死から、一年が経過しようとしていた。
看護師にも、患者にもなれず、大好きだと言っていた、この病院に弥生さんが戻ってきたあの日から。
私は、非常階段で予定よりも二時間遅れの昼食を、一人で取ろうとしていた。医療用スマホの呼び出し以外誰にも邪魔されないこの時間は、唯一ほっとできる。
膝の上にある松屋の牛丼は、すでに冷め切っていた。
「千咲」
私はビクッとして振り返ると、佐藤先生がそこに居た。
「佐藤先生どうしたの?」
表情を見るだけで、あまり良いことは言われないのだろうと覚悟した。
目元に心は簡単に現れる。
珍しく、なんだか悲しそうな色を含んでいた。
冷たい風が私と佐藤先生の間を通り抜けた。
「俺、ここ辞めるわ」
再び冷たい風が、私の心と前髪を攫っていく。
指先が冷えて、思考が停止して、瞬きができずに、膝に置いてある牛丼を凝視した。そして、佐藤先生は、ゆっくりと私のすぐ隣に腰を下ろした。非常階段は、ギシギシと頼りなく音をたてた。
「千咲」
左肩と腕には、白衣越しに佐藤先生の体温が、じんわりと、じんわりと私に移っていく。
「千咲、結婚しよう」
私は佐藤先生の顔をゆっくりと見上げた。
佐藤先生の瞳は、淡いブラウンで大きく、少し垂れた優しい眼差しを湛えていた。長く繊細なまつ毛が、瞬きをするたびに柔らかく影を落とし、まっすぐに私の目を捉えている。私はその瞬間、彼の顔を初めて、きちんと見つめた気がした。私は、黙っていた。
「実家の三重で開業しようと思ってる。千咲と、一緒に、ずっと働きたい。千咲の大切なものは一緒に守るから」
私たちは、お互いに多くを語らない。
それでも、深部は繋がっていて、私の大切なものや、捨てられないものを、彼はよくわかっていた。
彼は、私に好きや、愛してる、といった表現は一切しない。
それでも、何となくその言葉がなくても、彼の想いはちゃんと、私の心には響いていた。
言葉じゃないもの。
ふたりだけにしかわからない、共に時間を過ごした日々は、言葉を軽く飛び越えていくくらいの絆に変わっていたのかもしれない。ただ、そこに居てくれて、ただ、ぐらついた足元を支えてくれる。揺らぐ体感を委ねる佐藤先生の優しさを、急に思い知った。
私は何も言えなかった。
途中で私は目を逸らし、自分の視界に何が映っているのか、わからなくなっていた。あまりに唐突な佐藤先生の言葉達は、案外唐突でなかったことも、流れる時間の中で分かりきっていた事実を突きつけた。
患者の整理を、随分と前から行っていたことを思い出した。この偏屈な医者の巣窟で、佐藤先生は夥しい患者の数の主治医をしていたのだから。あの時から、佐藤先生は、すでに準備を始めていたのだろう。当たり前のおかしな事実を私は少しずつ理解し始めていた。
「ありがとう、」
口からこぼれた言葉は、たったそれだけで、やっとそれだけだった。
佐藤先生は、私のその後に続く言葉を待ってくれていたようだった。
肩に伝わる体温は、ただ、暖かかった。きつく抱きしめてくれた夜を思い出す。逞しくて力強い心臓の音を。
私の隣にいるのは、最初っから、医師である前に、あたたかい優しさを持つ男性だった。
そんな中で、この、何の言葉も生み出さない時間はずっしりと重くて、胸の奥はあたたかさと、チリチリとした痛みが混在していた。それでも、肩に伝わる温度を私はまだまだ、感じていたいと欲張った。
ピリリピリリピリリ
佐藤先生の白衣の胸元で、スマホが鳴る。
ピリリピリリピリリ。
ピリリピリリピリリ。
佐藤先生は待ってくれていた。
いつだってワンコールで通話する佐藤先生にとっては、長すぎる着信音だった。
佐藤先生は、どんな患者も、スタッフの声も小さくて薄い耳で優しく受け止める人だった。そんな彼が、着信に反応しないことは、私が出会ってから、一度たりともなかったのだ。
私の言葉を待ち、かけてくれる時間を悲しく、そして幸せに思った。
当たり前に、仕事をする背中をまた追うように、私はまた一日も休む事なく、前にただ進んできた。
患者を通して、医学という宝物を私に与え、育ててくれた。
私なりの看護を探して、長く悲しい一日を、時を進めてきた。
私、という根幹をもう一度作り替えようと、白衣の背中で、隣で、毎日を照らしてくれていた。
視界が少しずつ開いてきたことがわかった。季節は、秋になっていた。
「自分のことを、大切にしろよ。じゃあな」
佐藤先生は、それだけ言って、私の頭をぽんぽんと触った。
肩のぬくもりが、急に遠ざかる。そして、いつのまにか彼の気配はなくなっていた。
そしてまた、冷たい風が私の前髪をさっきより強く攫っていった。
私はビニル袋を漁り、紅生姜と、七味唐辛子を何袋も開けて牛丼に乗せて、食べた。
鳴り止まないスマホにも気付かないふりをして、ひたすらに口に詰め込んだ。味なんてしなかった。
次第に、鼻水が垂れ、待ちくたびれたように大きな大きな涙の粒が、溢れ、流れるように頬を伝っていった。
涙の降り積もった、ぼそぼそと固まって冷えた牛丼を喉の奥に押し込んだ。冷たい味の染みたお米と、歯切れの悪い牛肉は、噛んでも噛んでもなくならず、喉の奥に引っ掛かるように残った。空は、よく晴れて澄んでいた。
佐藤先生と初めて会話した夜の光景が浮かぶ。彼の存在は、冬の北極星を探すためのカシオペア座ではなくて、北極星そのものだったのだ。
あの時からずっと、彼の背中だけを見つめて私は、ただ歩いてきた。
久しぶりに、本当に久しぶりに流した涙は、止まる事を忘れて、心の中に落ちていった。マーブルにあたたかくて、悲しい色を重ねて。
私の「今」を、手放してはいけない。逃げちゃいけない。そう、戒めた。
佐藤先生は、佐藤先生は──。
私を初めて、認めてくれた人。
私を、私にしてくれた人。
涙すら流れなかった壊れた心を動かす人は、やっぱり佐藤先生だった。
脳裏を掠める、足元に落ちた桜の花びら。淡い桃色の心と、あの時の蝋燭の明かり。かったるそうに歩く後ろ姿と、凛とした横顔。
「千咲」と呼ぶ、低くて、聞き取りづらい声。優しい胸と、肩の暖かいぬくもり。
私は、間違った選択をしたのかもしれない。
そう思った頃には、佐藤先生はあっさりと病院から、消えていた。
生と、死を目の当たりにした、あの満月の夜。弥生さんの命を繋ぎ止めることができなかった後悔。
寄り添いきれなかった未熟な自分。
浅はかで、自分よがりな看護。
死にゆく人々への贖罪の気持ち。
手のひらから落ちていく、溢れる声──。
私はここで生きていく。
そんな答えにすら、涙は冷たくて、痛かった。
⇩第7章 ネイビーの夜にとけて⇩
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