パープル・セイヴィア《第7章 ネイビーの夜にとけて》【創作大賞2025】
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第7章 ネイビーの夜にとけて
いつもと変わらない冬が、今年は特に冷たく感じた。外来のテレビから流れる初雪のニュースが、耳を通り抜けるだけで、心の奥にひっかかる。
さくら中央総合病院は、いつも通りで、相変わらず救急車で人は運び込まれて、毎日目まぐるしく回転していって、毎日どこかで手術が行われていて、毎日のようにどこかの病棟で、人は死んでいった。
私は、看護師として、この病院でやり甲斐を見出していたはずだった。
患者を救っていると信じたかった。 強くいようとした。それでもそれは、誰かのためというより、自分を守るための鎧だったのかもしれない。 心がそこに追いついてこなかった。現場の熱気の中で、自分だけが取り残されているような錯覚に陥る日が増えていった。痛みを訴える患者の手をさすりながら、私は「自分がここにいる」と実感する暇もない。
ケアすることでしか、自分が社会に認識されない。そういう仕事だった。
私の頭は、どんどん働かなくなっていって、細かな小さなミスをするようになった。心は揺れ動かないのに、時々、人の死に直面しては、酷く落ち込む事もあった。心はいつも静寂と荒波が交差するようだった。
apnea。VF。モニターの波打つ命の波は、やがてフラットになった。私はその様を眺めている。
肺癌の末期の患者。全身の痛みを緩和するために、呼吸抑制が起きるリスクのあるモルヒネ。最後にこの薬剤のシリンジポンプを更新したのは私だ。穏やかな死であってほしいと、心のどこかで願っていたのに、命を繋ぐためのモルヒネが、命の終わりを招いたのではないかと、疑ってしまう。
私の手が、ぬくもりではなく、終わりの合図になってしまったのではないかと。この患者の病を言い訳に、殺したのは、私なのかもかもしれない。
私の手はあたたかいはずなのに、どうして触れる度に命は離れていくのだろう。私の行動一つが、死に近づけてしまうような錯覚に襲われる。ここには、人生が溢れすぎている。
無気力に過ぎていく日々を重ね、気がつけば長い一年が静かに過ぎ去っていた。
そんな中で柔らかく差し込む光が、じんわりと私の心に広がっていった。アキの存在がそこに溶け込むようだった。
「くらげになりたい…」
私がそう漏らすと、アキは「俺も」と言った。
江ノ島水族館の、暗がりに漂う照明の中で、時間がふたりの間を、ゆっくりと流れていた。視界を潤す静かな光、青白い水の中を、音を立てず浮遊する命。熱を持たないその世界に、私の心も少しだけ浮かんでいた。
2回目のデートは『くらげ、すき?』という、アキからの柔らかいひらがなから始まった。スマホの向こう側で、アキが文字を打つ姿に、思いを馳せた。
白くてふわふわとした実態も虚なくらげは、絡まり合うことなく、繊細な距離をすれ違っていく。室内の暗さと青白い水槽に溶けて、私は許された存在なのだと感じた。
「何考えてるんだろうね、くらげって」
「何も考えてないのかも」
アキの柔らかい髪が頬に触れ、そのまま私は身をゆだねた。人の体温って、きっと、言葉より優しい。彼のぬくもりが私にそう囁いた。
「一緒に、流れ着くところまで漂ってみる?」
アキの言葉を聞きながら、瞳の奥を知りたくて、じっと横顔を見つめてみる。その目は、私を選ぶことはなく青白い光を追うばかりだ。
触れているはずなのに、アキがほんの少し遠くにいるように感じた。絡まることなく、ぎりぎりをすれ違うような曖昧な距離感を。
「一緒に漂いたい。でも、ほんの少しだけ水面のそばで太陽を眺めたい」
アキは、ふっと息を漏らして「同じ」と、答えた。
子供が目の前を走って通り過ぎた。
「4歳くらいかなぁ。アキはあのくらいの時何してた?」
「うーん。塾に行ってたかな」
質問の回答は、アキの存在がまた少し幻想に消えるような、誰かから与えられたものだった。そこにアキの過ごしたかった歴史が読み取れなくて、踏み込んでいいのか迷った。
自分の思い描く人生になれない人はきっとたくさんいる。そんな心は、大人になっても尾を引きずって影を落とすのかもしれない。何も考えることのない時間を、私たちはどこかにおき忘れてきたようだった。
「楽しいこと、これからたくさんしないとね」
アキは、寂しそうに笑った。
静寂の笑顔は、また彼と言う存在を煙に撒いたようだった。
『モネ、すき?』
3回目のデートは、その6文字から始まった。
国立西洋美術館。
予約していたのに、入り口には長蛇の列ができていた。会うたびに知らないアキが現れる。
デートに誘う場所。静かな連絡の仕方。行列に馴染むアキ。アキは何が好きなんだろう。仕事のことも、普段考えていることも、煙に包まれる前の、人間らしい輪郭のあるアキが知りたい。
ふわふわとした布団の中でした、キスですら遠い過去のように思えた。
隣にいてくれるだけで良い。こんなにも、柔らかい空間が心地良いから。
ゆっくりと歩み出した先には、たくさんの名前の知らない色で溢れた迫力のある絵が並んでいた。そこには、光の響き、水の暖かみ、流れる風が映し出され、輪郭を持たない感情のようだった。滲んで、重なって、それでも確かにそこにあった。並んで足を前に進めた。
「フレーバーもね、組み合わせ次第でどんな色にもなる」
アキはアガパンサスの絵の前で立ち止まり、ぽつりとそう言った。
「香りは静かだけど、熱があるんだ。炭を替えるだけでも、変わるんだよ」
私はその言葉の熱に、静かに触れていた。
「千咲に出会ってから、指名されることが増えた」
小さく低い声に、耳を澄ませた。
「初めて千咲を見た時、一輪の花みたいだと思った。でも…すごく繊細に傷ついているように見えた」
耳にいつだったか、アキが私のために選んでくれた、シーシャのフレーバーの名前が流れていく。
Al Fakherのローズ、ブルーヘブン、ガムマスティツジャスミン…
花の名前は心地の良い魔法みたいだった。
フレーバーは、過去の記憶に香りを漂わせた。
「この人が笑う姿が見たいって思った。仕事は生きがいに変わった。あの瞬間から」
私は、静かにうなずいた。
モネの絵の前で、時間が止まっていた。
「クロード・モネは、『光の画家』とも呼ばれているんだ。自然の光や彩の変化を色で表現してる」
一緒に透過するように、アキの言葉を浴びた。
「黒という色を使わずに、紫みたいな中間色を使うんだよ。混ざり合った色は、心の中の色みたいだなって思う」
アキは、私の顔を見た。薄くやさしい笑みを浮かべて。
「色を作り出す人になりたかったのかもしれない。
もう叶わないと思ってたけど、ぴったりのフレーバーを見つけたんだ。いつか、千咲に作ってあげる」
「うん」
アキの言葉を聞きながら、筆を置くモネの姿を想像した。自分の色を少しずつ探し、重ねていくこと。乾かしながら、光を描き続ける人。この絵も、もしかすると完成していないのかもしれない。私たちの人生のように。
胸があたたかい。アキに抱きしめられて、守られているような感覚に、私の心は桃色に満たされていた。
館内に閉館を告げる音楽が流れ始める。
「アキ…?」
「ん?」
「…この時間が終わっちゃうのが悲しい。こんなに心があったかいのに…」
私は、急に不安になって、感情が溢れていた。デートは重ねていたけれど、不確かな関係性が怖かった。彼を失いたくない、と強く思った。喉につっかえるように出た言葉は、駄々をこねる子供みたいで恥ずかしくて、うつむいた。
「千咲、まだワンフロアある。走ろう」
アキはにっこりと笑って、手を差し出した。私はアキの大きくて華奢な手を握って、ふたりで美術館の廊下を駆け抜けた。アキは、何度も私の顔を見て、笑いかけた。
ふたりの時間に、一筋の光が差し込んだ。私は下唇を噛み、アキの手のぬくもりを確かめて、足音を鳴らしながら美術館をあとにした。
今日も、病院の音がする。
「私、看護師辞めようと思う」
綾に打ち明けたとき、彼女は「私も辞めようと思ってさ。部長のとこに言ったら、20人辞め待ちがいるから無理って、2秒で追い返されたよ」と、肩をすくめて笑った。どこか苦さを含んだその口調に、私も小さく息を吐いた。
その話の筋は本当で、私も部長に直談判したけれど、結局、院内で一番緩いとされる回復期リハビリテーション病棟への異動が決まった。「人員的にあなたが抜けるのは厳しい。急性期でなくても、いて欲しい」看護部長の言葉には、理屈と情が半分ずつ混ざっていた。これは、彼女の説得と、私の疲弊が譲歩し合った末の、苦い着地点だった。
綾もまた、私と同じ病棟に異動することになった。彼女は肌荒れが治らないから辞めたいと言ったようで、私とはまた異なる理由で異動してきていた。綾からは春の匂いは失われ始めていた。
この病棟は、注射や処置といった医療行為は少ない。
在宅復帰率96%。
この数字が妙に嘘くさい気がしてならなかった。私はもうすでに、色んなことを経験値でわかり始めていた。病院は、病院を纏わないと生きていけないのだ。
未来を取り戻す為のリハビリは活気で溢れていた。それでも、疾患を持ちながらも、地域に帰るという理念に、私自身はまだ居心地の悪さを感じていた。最初から蛍光色なのにマットな塗料が塗られているような、不自然な居心地の悪さが拭えなかった。
私は今、綾と一緒に働いている。
佐藤先生と離れ、病棟も異動になり、目まぐるしく疲弊した日々の中で、アキとの出会いは、ほんの少しだけ私をあたためてくれた気がした。どこか影を纏ったアキの存在は、今の私にはちょうどよく、夜にぽつりと灯る、静かな救いのようだった。
ピコーンピコーンピコーン。
心電図モニターが音を立てている。
私が電子カルテに記録を打ち込んでいると、綾は席を立つこともなく、心電図モニターに向かってボールペンを手にアラームと格闘していた。
「き、消えない」
綾は上半身をプルプルと震わせながら、ようやく心電図モニターのアラームを消去した。
「動いた方が早くない?」
「いや、負けた気がする」
綾には、些細なことにもわざわざ負荷をかけて、一人で楽しむような癖があった。
「やれやれ。で、アキくんと夜の方は」
「何それ」
「デートを重ね、お泊まりをし…それで?」
「手を繋いだ」
綾は深いため息をついた。
ナースステーションの入り口で声がかかる。
「依田さーん。ごめん、ブドウ糖もらえる?」
「あ、ただ今」
「千咲、受け持ち私だから」
綾は血糖測定器を手に、無言のまま患者の病室へと向かった。しばらくして戻ってくると、手を洗いながら、深いため息をまたひとつ漏らし、ぽつりと話し出した。
「千咲さぁ、そういうところあるよね」
「え、何が」
「陽性転移されやすいんだから、気をつけなさいよ」
「陽性転移…またそれ?」
綾は時々、私のことをモテ看護師扱いをする。でも、本当は違う。心を寄せられてしまうのは、私の看護じゃなくて、患者の孤独なのだ。
「今、原田さんの所行ってきたら、『依田さんは?』って言うのよ。私が担当です、ほら部屋の前に受け持ちナースって書いてあるでしょう?って言ったの。そしたらなんて言ったと思う?『依田さんとチェンジで』って。腹たつぅ。ま、わかるけどね。でも、距離感は気をつけなね。お互いのために」
陽性転移は、治療の中で患者が治療者に対して好意に似た感情のことだ。
両手を広げて心が届かない範囲でいること。それが治療に携わる私達と患者との基本的なルールと言われている。
「患者との距離感…か」
「千咲?佐藤先生の医療はね。絶対的な正義だと思うの」
「どういうこと?」
「誰が見ても素晴らしいことをしている。佐藤先生は、患者に寄り添って、患者のHOPEを叶えようとする誠実で真摯な医者だよ。私も尊敬してる。でもね、正義は悪にもなるの。千咲、縛られちゃダメ。楽に生きよう」
綾は、ペーパータオルで手を拭きながら振り返った。
「千咲、自分を愛することできてる?」
「自分を…愛する?」
ピンとこなくて、綾の顔をまじまじと見た。
「自己愛じゃなくて、慈愛。ほらうち実家神社だからそういうの擦り込まれてるんだけど。自分を愛せない人は、人を癒す事はできないの。看護師っていうのは、あくまで仕事。時間の中だけ密度のある看護を一生懸命やるだけなの。自分が壊れたら、元も子もないんだからね?」
看護師としての自分を、ぎりぎりで保っていたことに、自覚はあった。
他人の痛みには過剰に反応するくせに、自分の痛みは、まるで他人事みたいに、ずっと放っておけた。
アキと過ごした夜を思い出した。ふわふわとした感覚が脳裏をよぎった。
「両手を広げて届かない距離。小さな世界で生きようとする千咲にとっては、少し難しいかもしれないね。無理しないでね」
綾は優しく微笑みかけた。
それなのに、そんな綾の優しさは空気の中で広がっていって、私の中には届かず、煙のように消えていった。
エレベーターがビルの4階に到着すると、ちりんちりん、と控えめにベルの音が響く。
今日はシーシャラウンジで、アキの仕事が終わるのを待つことになっていた。
店内を覗くと、アキはちょうど炭替えのバケツを持っていて、私を見て微笑みかけた。
「座って待ってて」
店内は珍しく混雑していて、今日は水曜日かぁと思った。
店員の一人のヤマトさんは、世界のボードゲームオタクだ。毎週水曜になると、夜通し客と世界のボードゲーム大会を開催するらしい。Splendor 、カタン、クロード。耳馴染みのない名のそれらは、使い込まれた紙箱に静かに並んでいた。角の丸みや紙のくたびれが、誰かと誰かが交わした小さな時間の名残のように見えた。
「ヤマト、お先」
「おう。千咲さん、今度はアキのいない時に遊びにおいで」
ヤマトさんは人差し指をそっと唇に当て、右の口角を少しだけ上げた。子犬のようなあどけなさと、どこか演技みたいなしぐさに大人の余裕を感じた。
「お待たせ。行こうか」
ちりんちりん、とまたベルを鳴らし店を出た。
私たちは横浜の街を歩き出す。
夜に向かうという一日の始まりにわくわくした。
「よし、スニーカーだね」とアキは確認するように言った。
「今日も歩くよ」
離れていく私に気付いたアキは、無言で腕を取り、右手を自分のコートのポケットに滑り込ませた。そのまま、指先を重ねるようにして、手のひらを静かに包んだ。
横浜駅の中を通りスカイビルを抜け、私たちはどこまでも歩いた。
歩道橋を登ったり、降りたりしながら、アキは私を時々覗き込んだ。
「疲れてない」
「うん。気持ちが良い」
あまり多く語らない静けさが、私とアキにはある。
横浜美術館を横目に、まだ昼の名残を残す街並みの中で、ライトがひとつ、またひとつと灯りはじめる。私の知らなかったこの道は、アキとともに歩くことで、柔らかく照らし出されていく。冷たい風が、背中をそっと押した。
横浜の夕暮れは、人で溢れていた。
青いイルミネーションの前で写真を撮る女の子たち、三脚を構えてシャッターを切る男性、ベンチで寄り添うカップル。
それぞれがこの時間の断片を、切り取るように楽しんでいる。
子どもと手をつなぐ母親の姿があった。小さな声が跳ねる。それだけで、私はふいに足元が揺らぐような、心がすくむ気持ちになる。そんな心をかき消すように私はアキの横顔を何度も眺めた。
「お気に入りの散歩コース」
アキは通りの向こうを、まっすぐに見つめていた。視線の先には、私の知らない景色が広がっているようだった。ワールドポーターズの近くの通りで、一台の赤い旧車が静かに停まっていた。くすんだ木の板に、手書きで「やきいも」と書かれている。おしゃれな焼き芋屋さんに胸がくすぐられた。ポケットの中の手をぎゅっと握った。
「ねね、アキ、やきいも好きでしょ」
「なんでわかるの」
「わかるよ」
私は、天ぷらの一番はかぼちゃだと笑った彼を思い出していた。
淡い関係性の私たちの背景は少しだけ濃いものに変わっていた。
「買って行こうか、半分こしよう」
防寒具を纏った可愛らしいお姉さんから、焼き芋をひとつだけ買って、アキはそれをふたつに割って、紙袋と共にそれを両手で包むように渡した。甘い蜜が凝縮された、とろりとした皮は、素手だとベタベタになることがわかりきっていて、優しいた配慮の中で、焼き芋にかじりついた。顎が痛くなるくらい、甘かった。
遠くにコスモワールドの観覧車が色を変えて時刻を知らせる。
永遠を切り取ったふたりの歩みは、優しくて暖かくて、私はデートなんだなぁと、瞳の奥が緩んだことがわかった。
色の濃い青空はやがて、セルリアンにテーパリングした。
「千咲は優しいね」
唐突にそんなことをアキは言った。歩幅を緩めて、私に向き直って「ゆっくり歩こう、ごめんね」と私の頭を撫でるように触った。
みなとみらいの観覧車は、また一段と近くに見えるようになっていて、放射状に色をくるりくるりと変えていた。
「何色がすき?」
「紫色」
「私も」
好きな色はたくさんあったはずだけれど、彼の答えは、いつのまにか、私の答えになっていた。
「優しい色だよね」
「そうだね」
「千咲みたい」
「そう?」
「うん、優しくて、いろんな暖かい色を混ぜ合わせたようで、キレイ」
私は彼の声をただ聞いていた。
私の吐息は柔らかくて、呼吸も心地が良くて、冷える風は、歩みを進める私たちの唯一の理解者で、いつまでも、どこまでもこの時間が永遠であればいいのに、と思った。
時々立ち止まって伸びをして、また足を止めて、子供や、カップルや、ランニングをしている人たちを指差してたわいもない会話をした。
ひたすらに、歩く。
ひたすらに、彼を想う。
ふたりの歩みは、静かに足音を立てて、横浜の街に馴染んいった。
「楽しいね」
「そう、良かった。千咲が体力おばけで」
アキの肩を叩いて、ひどーいと唇をたてて笑った。
途中のスターバックスで、やたら甘くて名前の長いコーヒーを、アキは得意げにふたり分買ってきた。
「本当にコーヒー飲み歩いてた人なの?」
「甘党でもある」
「知ってる。で、何買ったんだっけ」
「キャラメルチョコチップクリームフラペチーノ」
「ふーん。もう一回言って」
「キャラメルチョコチップクリームフラペチーノ」
「それ、3回言ってみて」
「千咲、ちょっと待って。これには続きがある。キャラメルチョコチップクリームフラペチーノにチョコチップとチョコレートソースをトッピングした」
「嘘でしょ。もう呪文の域超えてるって。しかもホットじゃない」
私たちは、驚くほど甘いその飲み物を、笑いながらふたりで飲んだ。真冬の空の下で、程よく汗をかいた私たちに、甘さと冷たさが心地よく響いた。
ゆっくりと歩きながら、ワールドポーターズの長いエスカレーターを昇り降りし、大きな道路を越えて、建物の駐車場を通り過ぎた。
歩き慣れた道を、何の気なしにただ楽しみながら、時々アキの横顔を見つめた。波の音がすぐそこまで聞こえ、やがてみなとみらいの海にたどり着いた。
私とアキは海を前に、触れた指先をさっきよりも強く結び直した。淡く沈む太陽と、薄い青と桃色のグラデーションを手ですくうように眺めていると、やがてネイビーの夜が、カーテンを揺らすようにそっと現れ、私たちの輪郭をぼんやりと溶かしていった。淡く灯る街頭を通り過ぎて、階段に腰掛けて、足を伸ばした。
「心が落ち着かない時は、こうやってここに来る」
「そう」
「千咲。聞いてくれる?」
何度かのデートを経て、アキは少しずつ、自分のことを言葉にしてくれるようになった。
「俺さ、」
アキは静かに話し出す。目の前に広がる波の音がアキの声を支えるように、揺れていた。
「ずっとさ、ずっと眠れなくて。子供の頃から、あんまり。母親も、こうなんていうか一生懸命な人でさ。家に入る前は、何度も深呼吸しないと玄関を開けられなかった。大学に入ってからも、母親の言う通りに、ほとんど遊ばないで、すっげぇ勉強した。結局、良い会社に入った」
「うん」
「最初は仕事で評価されるのが嬉しくて…気がついたら、家に帰ってからもずっと仕事してた」
「うん」
「永遠に起きてた。褒められてないと、不安で。でも、時々は寝ないとやばいと思って。睡眠薬飲み始めたんだよ。そこで、精神薬と睡眠薬、バカみたいにたくさん飲んだ。なんかもう、衝動に近い感じかもしれない」
アキは、ぽつりぽつりと話した。声にまた、薄くネイビーを纏わせて、透き通るような低い声を出した。私はアキの身体に身を寄せた。アキは少しだけ悲しそうに目尻を下げて続ける。
「仕事、飛んじゃったんだ。会社からの電話も気づかなくって、三日間家のベッドで寝てて」
「うん」
「母親に結局見つけられて、救急車で病院に搬送されて、脳が萎縮してるって言われたんだ」
「うん」
「だからなのかな。仕事を完璧にできなくなった。指示されたことの、抜けが増えた。メモしたりして相当気を使ったけど、結局でっかい損失を出しちゃってさ」
アキの声は、時々止まったり、戻ったりしながら進んでいった。冷たい風の中で、消え入りそうなアキの声に耳を澄ませた。
「世界から消えようとしたのにね。結局会社に戻って、大失敗して。母親とは、それからの方がずっと折り合いも悪い」
「うん」
「ごめんね、こんな話して」
「いいよ」
アキは私の方を向いて、冷えた耳を両手で覆うように触った。
「初めて千咲を見た時は、単純に綺麗な人だなぁって思った。一目惚れ。横顔が、キレイだった。話してみたら、ふわふわしててさ。喋り方が柔らかくって、可愛い人でもあるんだって思って。それでなんて言うか、悲しそうだった」
「うん」
「低温で、不思議な暖かさがあって、包んでくれるような優しさがあって。隣にいたいと思った」
「うん」
「千咲の、心が好き」
ネイビーな、空。ネイビーな声。耳元に呟くようにこぼした、彼の低い声は、波の揺らぎによく馴染む、心地の良い綺麗な言葉だった。波は静かに揺れていて、小さくライトを灯したマリンルージュが遠くで優雅に泳いでいた。
「俺と、ずっと一緒にいてくれる?」
「うん」
アキは私を見つめながら、おでこをコツンとあてた。そして、左手の甲でまた口元を隠して、目を逸らした。
「アキ」
「ん?」
「顔見せて」
「恥ずかしい」
アキの顔を覗き込んで小さく笑った。アキは、私にとっての夜だ。心を落ち着かせてくれる、ネイビーな、深くて澄んだ美しい、夜だった。
私たちは、しばらく海を眺めた。
アキが話した過去の話は、とうに知っていた気がした。
アキは初めて会った時から、孤独だったのがわかるから。弥生さんと同じ香りがしたから。
昼の辻堂の海よりも、夜のみなとみらいの、何色とも言えない、少し淀んで、それでもどこか美しい海の方が、私たちには合っている。
「アキ。最初っから、ずっと好きだったよ」
私はもう、とっくにアキを好きになっていた。
アキは顔を膝に埋めてジタバタした後に、優しく私を抱きしめた。手を回したアキの背中は、広くて弱々しくて暖かかった。
最終電車は人でごった返していて、アキは、私の肩を時々押さえて、揺れを受け止めてくれた。アキの家は、夜の延長のまま、相変わらず暗くて、キッチンのライトもつけずに、慣れたように私の手をひいて、ベッドにおろして、覆うように彼は私の髪の毛を撫でた。
カーテンは少しだけまた開いていて、部屋の中よりも、外の方が明るいことに気がついた。
目が慣れてくると、アキの頬に手を当てて、そこにいる彼の存在を確かめた。おもむろに唇は振ってきて、優しく触れるようにキスをした。ゆっくりと服は脱がされて、私の細い体は、アキの優しい感覚に溺れていった。ネイビーな彼のセックスは、あまりにも静かに始まり、徐々にアキ自身が現れて、人の体温に私はまた安心して、いつまでもこうしていたいと、そう願った。
アキに優しく触れられることで、自分の事も少しだけ愛せそうな気がした。
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