パープル・セイヴィア《第8章 月がきれいな夜に》【創作大賞2025】
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第8章 月がきれいな夜に
アキと付き合い始めてから、心にほんの少し余裕が生まれたのかもしれない。私はまた、昔からいたかのように、この病棟で淡々と仕事をこなしていた。静かに、日常を手繰り寄せるように。
「千咲ー、予約入院の人、外来に到着したって。あと30分位で上がるからベッドの準備しといて」
「ん」と、声をかける綾の言葉を聞き流し、私は診療情報提供書と呼ばれる治療経過の載る医師の文章読みながら、見覚えのある名前に首を傾げていた。
回復期リハビリテーション病棟では、他院からの入院も受け入れている。社会復帰を目指す患者が多く、リハビリの成果が認められている病院だけに、予約待ちが出るほどの人気だった。
もう一度、書類に目を落とす。一度はちくんとした心の変化に気が付かないふりをしたけれど、忘れたはずの名前が、ある日病棟に戻ってきた。
既視感のある名前のベッドネームを用意し、入院の書類をひたすら印刷していく。そして、心を落ち着けるように、まだ温もりの残る書類を、私は一枚ずつクリップに挟んでいった。
「外来でーす。日野さんお連れしました。お部屋にご案内しておきますね」
顔馴染みの外来の主任ナースの茜さんは、今日もはつらつとした声で、バタバタと廊下を歩いていく。違和感を払拭させるために、印刷した入院書類にさらにもう一度目を通した。──日野大吾。
ただの偶然、人の名前なんて、世の中にいくらでも重なる。私は、ふぅっと息を吐いて、病室へ向かった。
「日野さーん、カーテン開けますね」
振り返ったその顔に、私は時間を引き戻された。答え合わせは、あまりにも簡単だった。胸の奥がズキンズキンと、重たく拍動していた。
「千咲さん……?」
「あ…」
「千咲さん……俺こんなんになっちゃった」
日野大吾24歳男性。右下肢切断術を受けた彼は私が三年前に受け持っていた患者だった。
初めて日野くんに出会ったのは夏だったと思う。うだるような暑さとは真逆な院内は、冷え切っていて、場違いなセーターを羽織りながら、あの時私は仕事をしていた。理学療法士の川北くんと、綾はその時もエアコンの温度調整の喧嘩をしていた光景が蘇る。
「やっぱり犯人はお前か!」
ビクッと背中を上げる川北くんを押し除け、綾はステーションにあるエアコンの温度設定を、苛立ちをぶつけるようにカチカチと上げ続けた。
「ちっ、バレたか。働き者の俺にはサウナよ。お願い、あと一度だけ冷房下げて」
今日も、ふたりは仲良く喧嘩している。
「病院って、案外楽しい場所なのかも」
ぽそりと話す日野くんは車椅子に乗っていて、私はその横に座り込んでそんな様子を並んで眺めていた。
彼が本来入院するはずの整形外科は満床で、一時的に内科病棟でベッド借りをしていた。近くの私立大学のラグビー部に所属していて、練習中に動けなくなり、左足の疲労骨折と診断されていた。髄内釘の固定手術までの、ほんの数日間の付き合いだったけれど、彼はよくナースステーションに顔を出して「千咲さーん」と、子犬みたいな笑顔を向けてきた。
「俺も手術頑張らなくちゃ。練習して、またレギュラーとるぞぉ!」
「そうだね、でも、ラグビーって、運動量すごいでしょ?今度は無理しちゃダメだよ?」
「無理はする時はしないと、若い時の苦労はなんとかって、よく言うでしょ?」
「何言っても聞かなそうだねぇ」
日野くんは、まっすぐとした瞳で堂々と話す。
「プロにはなれない。大学でラグビーは終わり。だから、就職してからも後悔したくないんだ。俺はやり切ったって、これからの人生笑って生きていきたいじゃない?」
「ふふ、かっこいーぞー」
「棒読みだな…」
ふたりでよく、些細な話題で、目を合わせて大声で笑い合った。毎日が充実していたし、高齢の患者を普段から対応する私にとって日野くんは新鮮だった。安い居酒屋で飲んだファジーネーブルのような、くすぐったい甘さが、毎日の空気にじんわりと染み込んでいた。
ありのままの自分で、看護ができる。カチカチの頭がほぐされるように、私自身も、少しだけ人間らしい新しい余白を作り上げていたように思う。患者さんも私も笑顔になれる。それって、素敵なことなんじゃないかと、初めて心が躍った。
「千咲さんっ。手術頑張ってまたレギュラーとったら、飯いこうよ」
「いいよ、君のおごりね」
「学生なんだけど、俺」
たわいもない会話をして、看護師と自分の延長線上に「仕事」が繋がっている気がした。日野くんは、爽やかな涼やかな風のような青年だった。元気に退院する患者の笑顔は、私の宝物となって、優しい光となって刻まれた。
そんなことを暗い廊下を歩きながら思い出す。私は小さなライトを足元に照らして、病棟をラウンドする。512号室の彼の部屋は、消灯台のライトがまだ、橙色に控えめについていた。
日野くんは、起きている。そっと声をかけてカーテンを開けると、彼は俯いて切断されてなくなった足を、ベッドの上で探している最中だった。
あるはずだった足が痛む──。
それは体が覚えている痛み──幻肢痛という。体から切り離された足を探す日野くんは、存在しない残酷な痛みに体も心も侵食されていた。私の存在に気がつくと、彼は捲し立てるように話し出す。
「こんなに痛いのに、なんでないんだよ。足がない俺欠陥品?ねぇ、千咲さん、幸せ?羨ましい。人生取り替えてよ」
なくなった右足を探す彼の手の動きは、まるで月の光を掴もうとしているように虚ろだった。
彼は多分、笑いながら泣いていることにも気付いていなかったと思う。
「足が叫んでるんだよ。痛いって。あの事故の後からずっと。痛いって声をあげてるのに…。千咲さん、なんで、俺は助けられちゃったんだろう…」
私は今日も彼の肩を抱いて、白衣の袖からこぼれ落ちる、看護師としての理性を保つ事で必死だった。「痛みどめ、用意するね」誰にも聞こえないような声でそう言った。
ナースステーションの明かりの下で、私はビニル手袋を嵌めて準備を始める。疼痛時指示、ソセゴン15mgに、アタラックスP25mg。
無機質な注射針とシリンジは、どこまでも冷たく、どこまでも現実的だった。
この一滴が、彼の苦しみのどこまで拾い上げてくれるのだろうか。
アンプルをカットした縁に、針先がコツンと当たる。
その小さな音に、集中しきれていない自分が浮き彫りになる。
指先の震えは、心の揺れを隠せない。
点滴を銀色のトレーに入れ、重たい靴音を響かせながら、私は日野くんの部屋へ向かった。
それでも少しずつ、リハビリは進んでいった。
義肢装具士が、彼のためにオーダーメイドの新しい足を作った。慣れない装具に触れる皮膚の断端部には、小さな水泡ができ始めていた。時間帯によっては皮膚がわずかに伸縮し、装具がうまくはまらないこともあった。人工的に作られた足と、生身の体に残る記憶。その曖昧な境界線が、そこには確かに浮かび上がっていた。
理学療法士の川北くんと共に、歩行練習が開始された。
「日野くん、今日もリハビリ始めるよっ」
メジャーで断端部の測定を終えた、川北くんの元気な声だけが、空間に響いた。日野くんは、返事もせずに無言で装具をはめていく。彼の心は深く閉ざされたままだった。
廊下には、川北くんの声だけが虚しく響いていた。ボディイメージの変化を受け入れる心と、幻肢痛との戦いが、静かに始まった。
深夜0時。
「おにーさん、おにーさん」
私は夜勤中の自身の仮眠時間に、日野くんを起こしに、そうっと病室に忍び込む。
「おにーさん、おーきてー」
私は日野くんを揺らす。反応はない。
「ね、起きてるんでしょ?」
私は彼の背中に静かに言葉をかける。
「うん」
ぴくりとも動かず「なに」と、彼は返事をした。私はもう、彼の豪快な笑い声を思い出すことができない。静かな声を聞くだけで私の心は冷たい風が吹く。
「ねぇ、デートしよ」
私は周りの患者を起こさないように、耳元で囁く。彼を車椅子に乗せて、ベンチコートをかけると、二人でエレベーターに乗り込む。一階フロアまで行くと、ポーンと響く音と共に扉が開いて、私達はただ、進んでいく。車椅子のカラカラとする音は夜中の病院の廊下によく響いた。
「お疲れ様です」
「千咲ちゃん、月がきれいだぞー」
守衛の五郎さんに敬礼すると、彼は少し丸くなった腰をトントンと叩きながら、こちらに穏やかに微笑んでくれた。
暗証番号を押して開けた非常扉は、車椅子が通るにはぎりぎりの幅で、私はその重みをハンドル越しに受けながら、静かな夜へと歩みを進めた。
「うっ、さっむぅ」
日野くんの車椅子のブレーキを左右にかけて、私は駐車場の近くにあるベンチに腰を下ろした。ライターをシュッと鳴らし、紙煙草に火をつけて、ひと息吸い込む。
「ね、千咲さん、この時間に守衛さん普通に通してくたけど、どんな関係よ?」
「ディープな大人の関係だよ」
私は煙を吐きながら、軽く笑った。
「どんなだよ。つかさ、さみーよ。毎回デートって言って、千咲さんの喫煙のお供みたいにしないでくれる?」
「私のベンチコート貸してるんだから、文句言うんじゃないの」
「頼んでないから」
日野くんは、ぼんやりと白い息を私と同じように小さく吐いた。守衛の五郎さんの制服の下には、私が貢ぎ倒したホッカイロが、ご老体の腰にしっかりと貼られている。
自営業を失敗し、定年を迎える年齢になっても、まだたくさんの借金を抱えているらしい。
守衛室で温かいお茶を飲みながら、「生きてりゃなんとかなるさ」と笑う五郎さんに、私は何度も助けられてきた。
私と五郎さんは、人には言えない——ディープなホッカイロの秘密の関係だ。
横浜の中心部から少し離れたこの二次救急病院は、帷子川の縁に建っていて、夜になると底冷えするような強い北風が吹きつける。
無害で、無欲だった日野くんの心は、そんな横暴な北風に巻き込まれるようにして、変わってしまった。たった一つの交通事故が、彼の人生を、これほどまでに大きく変えてしまったのだ。
「ごちゃごちゃうるさいなぁ。良い男を隣に置いときたいって思うのは、当たり前の感情でしょう」
今度は私は煙草の煙を長めに吐きながら顔も見ないで話す。
「良い男?俺、足ないけど」
日野くんは、ため息をつきながら、右足の先端を撫でた。丸くなった断端部には黒いガードが嵌められている。
「私は、おっぱいないけど。触ってみる?」
「千咲さん、うるさいよ。もう、調子狂うなぁ」
「足がなくても、日野くんは良い男だよ」
この言葉がどれほど虚しく響くか、私自身が一番よくわかっている。
私はケラケラと大きめに笑った。こうして、下手くそな笑い声をあげて、夜中に優しい嘘をつく。日野くんは、とっくに分かっている。
私達は、時を共に過ごすことしかできないのだ。
街灯は時々ついたり消えたりしていて、より一層闇の濃さを引き立てて、日野くんの姿形を浮き彫りにした。
夜は、時に心を静かにする。夜は、思ったよりも明るいし、深くなる闇も思ったよりもずっと美しい。うっすらと星は現れてやけに明るい月を眺め続ける。自分の周りで起こる出来事は、思ったよりも残酷で、そんな半径1mの世界で、私たちは生きているのだ。
遠くの星を手のひらに掬い上げるような感覚を、自分の生い立ちを空に預けるように過ごす夜を、心を慰めてくれる冷気の奥にある暖かさを含む風を、私たちが吐く息の身近な体温を知って欲しかった。闇に紛れるように、過ごす夜も、時には必要なのだ。いや、それは私に対して、そう言い聞かせているのかもしれない。
「たしかに、今日は月がきれいかも」
震えながら日野くんはぽそりと話した。
「来て良かったでしょう」
「いや、そうは言ってない。とりあえず寒い」
夜は、静かで、眠れない私達と一緒にただそこにはあって、形がないものをそのままで良いと、ただ慰めてくれる。
いつかこの虚飾の現実を、心を宥める夜に変わる日を、私は静かに待っている。眩しすぎる日の光を浴びる恐怖を、夜は誰よりも知っているから。
⇩第9章 灯りの届かない場所で⇩
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