パープル・セイヴィア《第10章 微熱の青》【創作大賞2025】
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第10章 微熱の青
窓にかかったひとつのフィルターが、病院という場所でさえ、日差しをやわらかく変えてくれる。冷たい空気をそっと遮るその優しさは、もしかすると、病院が本来持つべき姿なのかもしれない。
日野くんは、装具をつけていることを忘れてしまいそうなほど、歩くことに慣れていった。それでも夜中には決まって、ベッドの上で、もうそこにはない足をさすっていたことを、私は知っていた。活動量が増えた彼に大切なことは、睡眠を少しでも取ること。眠ることを、思い出すこと。それも、大切な治療だ。
私は日野くんの時間を進めたいと思った。彼といると、胸の奥に微熱のような感情が静かに灯ってしまう。
日野くんの心は、まだまだ、脆い。子犬のように笑う日野くんのやわらかい心を、影をすっぽりと抱きしめたい。彼が歩く後ろ姿を眺めて、涙は頬を伝うことに躊躇している。感情が溢れるように静かに動き出す。
痛みに効く注射を落とすことは減ってきていて、看護師としての理性を超えて、彼の深部に手を伸ばそうとしていた自覚はあった。救いの手は、生を手放した弥生さんへの赦しになる気がしたから。
依存というかたちは、ただの癒しではなく、私の心をじわじわと締めつける鎖なのかもしれない。アキとの関係で感じたあの冷たさも、日野くんと過ごす時間の中で少しずつ溶けてきた気がする。でもそのぬくもりが、今度は私を離さないように締め付けてくるのだろうか。
日野くんは最初、装具をつけることに慣れるだけで精一杯だった。断端部に装具をはめた瞬間、足元が不安定になり、最初の一歩すらも重く、彼は何度も足を引きずりながら進んだ。
「こんな足いらない…」
そうつぶやく日野くんは、今にも消えてしまいそうなほどに小さく見えた。
そんな不安を、苦しさを、痛みを、彼は少しずつ乗り越えていったのだ。
「川北さん、リハビリ全然足りないっすよ」
「いい顔してるなぁ。焦るなよ。大丈夫」
今日も、ふたりは歩き出す。廊下に重なる声が、胸に染み渡った。
日野くんは回復期リハビリテーション病棟に入院できる期間の60日をそろそろ迎える頃だった。
回復も順調と診断されて、主治医から退院許可が下りた。
日野くんは、今日も広いリハビリ室で、歩行練習を自主的に行なっている。静かに杖の音だけが鳴り響く。
「はい、お疲れ様」
私は日野くんにクリスタルゲイザーの軟水の入ったペットボトルを渡す。
「おっ、気が効くねぇ看護師さん」
日野くんは杖を置いて、まっすぐと立ち、ごくりと喉仏を鳴らしながら一気に水を流し込んだ。
「ね、来週退院でしょ。今度は、ほんとにデートしよう」
私は、彼の顔を覗き込んで、太く分厚い小指に、無理やり指切りをした。
「え、喫煙のお供はごめんだよ」
「わかってるって」
感情は胸の奥に沈めて、目元を下げて柔らかく微笑みかけた。できるだけ、日野くんの前では優しい看護師でいたかったから。小さな川のせせらぎを思い出すように。アキの存在は、そっとポケットにしまい込んで、私は日野くんを見つめる。
「日野くん」
「うん?」
背伸びして、日野くんの頭をぽんぽんと触った。少しだけ迎えるようにかがみこむ彼は、やっぱり今日も優しい。
「え、なに急に」
「日野くんは、素敵だよ」
日野くんは照れくさそうに顔を背けて、飲みかけのペットボトルを私に預けて、再びまた歩き出した。視線の先には小さな階段がある。
日野くんの歩幅は、まっすぐだった。ゆっくりと、一歩ずつ進んでいく。
「千咲さん」
「ん?」
「なんでもない」
日野くんは、それだけ言って、笑い進んで行った。私は、看護師として、日野くんの心に暖かみを届けたかった。私がアキと触れる事で知った、ぬくもりの本質を。この気持ちに名前をつけるとするのなら、それは「愛」なのかもしれない。
「千咲!またこんなところにぃ。サボるなら私も誘ってよね」
綾は頬を膨らませて私の腕に絡みついた。
「サボってないよ、差し入れしにきただけ」
「おっ、青山サボりか?」
川北くんは、リハ室の奥からひょっこり顔を出して声をかける。
「サボってないし、お前に千咲を託した私の気持ちを返せー!」
「何の話だよ」
「役立たずー」
綾は、また、川北くんとキャッキャと喧嘩している。そんな風景を眺めながら、私も一歩ずつ歩き出した。
日野くんが私の背中を見たらどう感じるだろう。歩みを止めてはいけない。佐藤先生の白衣の背中がよぎった。半径1m。そんな小さな世界で、私は誰かを少しだけ導く、光になりたい。
翌週、私たちは横浜駅のエスカレーターの前に立った。
「ちょっと厳しいなぁ。
こえぇ。早い。早いってぇ。
なんだよバリアフリーどこ行ったんだよぉ」
日野くんは左手に杖を持ち、スーツ姿で、現れた。右足の装具は、一見ズボンで、側から見たら彼の足がないことは誰にもわからない。
約束通り、これから社会復帰する普段の通勤のスーツ姿に約束をさりげなく守ってくれたことが嬉しい。
私達は、体を寄せて、エスカレーターに乗った。
「千咲さん、変なリズム刻まないでよ」
「き、刻んでないよ、エスカレーター降りるの苦手なんだって」
「なんで、エスカレーター降りるのに助走つけるんだよ」
「うるさいなぁ、君と同じで苦手なの」
主治医は産業医に、彼の状態を丁寧に伝えてくれた。そして、彼の職場も少しずつ受け入れる準備を整え始めていた。私は他職種間カンファレンスを企画した。足を無くすというボディイメージの変化を、生活に落とし込むために。日野くんの人生は、多くの人の力を借りながら、少しずつ前に進み始めていた。
彼の願い。同僚と、足の事を忘れて、一緒に歩いて帰ること。エレベーターがなくても、普通に歩きたい。ゆっくりでも、階段昇降をしたい。駅に備え付けられているエスカレーターで、駅の改札で、友達と別れを告げたい。
私たちは、そのためにエスカレーターを何度も、往復していた。
デートと称して。
時間帯によっては人も多いし、彼の通勤先の最寄駅には、高速と書かれたエスカレーターがあることがわかった。
筋力の落ちた細くなった足、運びづらさを残す慣れない装具。人の流れと、足早な人々。ただでさえ、彼の身長は大きい。
周りから気遣われる存在ではない。倒れたときの衝撃は大きく、支える側も含めて周囲への影響は決して小さくない。
だから、内緒で近くに助っ人を頼んでおいていた。川北くんは、快くそのデートに付き合ってくれた。私を病棟で見守ってくれていたことに、気づかないふりをして、そんな自分の無神経さに胸が痛んだまま、彼の優しさを利用した。「千咲、俺らができることは、彼の頑張りを見守ることだよ」そう私の肩を叩いて、笑いかける川北くんを思い出す。そんな彼の言葉は、私の心に余韻を残した。
「日野くん、もういっちょ、行っちゃおうか?」
「ウィッス、川北さん。今度こそ…」
いつのまにか二人は、いいコンビになっていた。お互いを信頼し合って、兄と弟のような空気感に、ホッとする。
「千咲さん、ありがとね」
日野くんは、見下ろすように私を見た。
「しっかり働かないと、ご飯奢ってもらえないじゃない。もんじゃの約束まだ叶ってないけど?」
「だから、俺、年下!その約束いつまで続くの」
日野くんが笑った。川北くんも、私も。
ラグビーボールを追う、力強い走りが脳裏によぎった。
エスカレーターを登る日野くんの背中は、昼の太陽がよく似合う。
光の中に、確かな希望を見た。
大丈夫。もう彼は、一人でも歩ける。
私たちは、もうすぐ別れを迎える。
看護師としての私と、日野くんの物語は、ここまで。
弥生さんの姿が瞼の奥に浮かぶ。
弥生さん、私を赦してくれますか。
私も陽の光を浴びて、前に進んでも良いですか。
心の中の声は、届くことはないことを知っていたのに、思わずにはいられなかった。日野くんの背中は、とても大きく、逞しく見える。
「千咲さーん!登りきったよ!」
日野くんと川北くんがエスカレーターの先から手を振っている。私の目に映るその姿は、遠く見える光のように瞬いて見えた。エスカレーターの動きがゆっくりと、空気が一瞬だけ、時を止めた。
高鳴る心臓の音が心地良い。私はその場に立ち尽くす。目を閉じると、周囲の音が消え、すべてが静止したように感じた。その瞬間、視界の隅にある太陽の光が、ゆっくりと波打っているように見えた。涼やかな風が、私の頬を掠める。髪の毛を押さえて、日野くんの姿を瞳に焼き付ける。
この、一瞬の美しさを心に刻むように。私はゆっくりと両手を上げ、手で大きく丸印を作った。
「合格ー!」
次こそは。次に出会う時は──。
日差しの降り注ぐ明るい青空の下で、自然な笑顔で再会できますようにと、願わずにはいられない。
⇩第11章 さよならの温度⇩
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