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パープル・セイヴィア《第11章 さよならの温度》【創作大賞2025】


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第11章 さよならの温度


 快楽に痛みを赦すことはできなくなっていた。
 皮膚の隙間にそっと忍び込むその痛みは、声を持たない。だからこそ、ふいに心を揺らす。

 あのとき、彼の手が、私の首に回った。何も言わずに。力を込めるでもなく、でも、優しさでもなかった。
 息が一瞬だけ、苦しくなった気がした。
 でもそれは、私の記憶の中だけのことかもしれない。声を出さなかった私を、彼はどう見ていたんだろう。それでも私は、ただ、手をほどかなかった。

 赦されたかったのか。

 それとも、赦されない私でいたかったのか。どちらなのか、今もまだ、わからない。


 硬い空気も、冷たい音も、静かに五感をなぞるようにして、ひとつながりの不思議となって、少しずつ私の奥へと染み込んでいく。それがわかるのは、きっと私だけだ。血液、滲出液、廃液。心を優しく切り裂いた傷から、人間らしい生暖かさだけが、じわりと滲んでいた。その傷の名は、たぶん欲望。そして私はその欲望が、アキの心に開いた傷だとようやく気がついた。

 アキは、またいつものように背を向けて眠ったふりをしようとしていた。首に、下腹部に、鈍い痛みが残っていた。足をそっと組んで、痛みをごまかすように座って、今日もまた私はアキを小さく呼ぶ。

「アキ」


 寝ているアキの隣に腰掛けて、背中に手を置いた。じんわりと、アキの体温が私に移っていく。

「アキ、聞いて」

 私はアキの背中に話しかけ続けた。心が離れる音は、誰にも聞こえない。痛みがじわじわと体を蝕むように広がっていく。アキとのセックスは、痛みを伴うようになっていた。

 私は、迷っていた。

 それでも、自分からこれから話を切り出すことを奮い立たせるには、十分な出来事だった。暗闇には、高音の緊張感のある静寂が漂っていた。

「アキ。私達、別れよう」

 アキの背中が、ぴくりと動いた。

「なんで」

 意外な返答に、ふっと息が詰まる。

「アキ自身も、もうそう思ってたんじゃない?」

 前よりももっと無機質な部屋に、私の声が妙に響いた。言葉を発した後で、私はずるい言い方をしたという自覚があった。自分の意見を誘導するように被せた言葉は、私の弱い心を投影していた。決心していたはずだったのに。

「千咲も離れていくんだ」

 壁に向かってアキはつぶやいた。
 冷たい声は、深い闇をひきたたせて、私の胸を締め付けた。

「アキ。アキの心はずっともう遠くにあるでしょう」

 アキは体を起こした。そして、ゆっくりとベッドの上にあぐらをかいて、私を正面からまっすぐと見た。暗闇の中でも、瞳が見える気がするのは、今までの記憶を頼りにした想像だという事はわかっていた。

「千咲がいなくなったら、俺、壊れちゃうよ」

 アキの、聞いたこともないような虚ろで低い声が重なるように心にのしかかった。

「もう、離れちゃってるじゃない。私達。随分と前から」

 アキは少しずつ呼吸を荒くし始めた。ベッドの中で抱き合うアキの吐息とはまるで違う。空気をまるで吸えない死にかけの患者みたいだった。

「ずっと…一緒にいようって言ったよね」

 初めて聞く、強い問いかけは私の知っているアキとは、別人に思えた。それでも、私は言葉を継いでいく。

「一緒にいたよ、ずっと。この暗い部屋で、私はアキをいつも待っていたよ」

 空気がさらに張り詰めていく。
 アキの呼吸は、次第に荒さを増していた。
 過呼吸だ。
 私はアキの背中に手を伸ばしたい衝動をぐっと堪えた。

「千咲は…俺じゃなくてもよかったんじゃない…」

 冷たいアキの声が響く。
 すっと、佐藤先生の顔がよぎった。
 これが、私の本質だったのだと一瞬で理解した。

「千咲は、俺じゃなくても、誰かがいれば良かったんでしょ…触れられる誰かがいれば。患者で満たされないものを、俺に委ねてたんでしょ」

 私は何も言えなかった。
 誰かの中で生き延びるしかないほどに、私もすでに、壊れていたのかもしれない。
 アキの呼吸は、さらに吸う時間が減っていって、肺に残った空気が吐き出せない状況にまでなってきていた。乾いた咳をしながら、きゅうきゅうと呼吸を続ける。吸えもしない息を吸いながら。

「アキ…」

「じいちゃんが死んだんだよ」

 返答になっていない言葉をアキは話し始める。

「おれの、居場所だったじいちゃんが、中学生の時、死んだ。母さんが、俺が中学受験失敗した時から、家の中に居場所なんてなかった。俺の心も、時間も、空気も…いつも誰かの物だった。毎日塾に行って、家庭教師つけられて、大学に入ってからも、就職してからもずっと。俺のことなんて、見てる人が誰一人としていなくなった。ずっと、空っぽだった…俺の意思は誰にも必要とされてない。じいちゃんだけが、俺の味方だった」

 アキは細切れに話し続けた。


「俺は、じいちゃんが死んだ時に、もうすでに死んでるんだよ…」

 アキが閉じ込めていた、まだ私の知らない過去。美しすぎたアキを崩し始めるその言葉たちは、あまりにも古く深い闇が覆っていた。
 アキは優しくて、繊細で、人の言葉を必要以上に捉えることを、私は知っている。それが子供の頃からの蓄積だとしたら、柔らかい心は、残酷にも、簡単に潰れてしまうのかもしれない。心までも蝕まれた過去のアキは大人になってからもその葛藤から逃れられなかったのだろう。決してアキは悪くない。

 大切な人との別れ。幼いアキを支えてくれていた人。眠れないアキに導いた人。

 弥生さんのことを想った。共鳴してしまう死の記憶で胸が張り裂けそうになった。この人のことを、心の底から理解できるのは、やっぱり私なのかもしれない。どこかでそう思った。アキの呼吸のあり方を教える煙のように、人は散っていくのに。

「心が離れてたのは千咲でしょ。ずっと最初から。仕事好きなんでしょ?…患者が一番大事なんでしょ。俺じゃなくて、俺じゃない誰かを見てたよね。誰のこと思って抱かれてたの。ずっと、わかってたよ」

 アキは初めて少しだけ声を荒立てた。暗闇に響く、初めてのアキの姿に私は震えた。息遣いは、私のことも、尚更息苦しくした。

「……ごめん」
 返事はなかった。部屋の隅に差し込む光だけが、静かに揺れていた。言い訳のひとつも浮かばなかった。手のひらに残るぬくもりを、ただじっと見つめていた。

 最初にアキが私に触れた時の違和感は、アキはとっくに気が付いていたのだ。繊細な彼を裏切ってしまったのは、私だ。
 それでももう、後戻りはできなかった。
 アキが、不安の中で、私を試しているような気がした。

「アキ、私と別れて。もう、やめよう…」
「千咲っ」

 アキは私を抱きしめた。強く。強く…。

「千咲がいないと、俺、俺…」
「アキ、アキ…」

 アキの腕の力に、声すらうまく出せなかった。男の人なんだと初めて知った。
 私の膝に、カサカサとした乾いた冷たい感触が、まるで私の心のようにひび割れていくのを感じた。ベッドの脇で、虚しくパキラの葉が一枚、音もなく落ちる。その音さえも、何もかもが遠くて、空虚だった。

「千咲、寂しかったよ。千咲の心が俺のものにならなくて、寂しかったんだよ。それだけなんだ。看護師でしょ。放っておけないでしょ…」
「アキやめて。もう…もう聞きたくない」
「千咲…ねぇ、千咲。俺のことを見て。」

 部屋の空気は随分と揺れていた。
 ここにいてはいけない。そう思った。

「千咲、俺、壊れちゃう」

 反復するアキの「壊れちゃう」を聞くうちに何かが確信に変わっていった。アキの声は、酷く幼く思えた。

「アキ、聞いて」
「千咲…」
「アキ、アキ......それはね、あなたの弱さを言い訳にして、私の心を縛ることと、同じだよ」
「千咲、見捨てるの…?」

「アキ、お母さんにされてきたこと。アキは…アキは…私に同じことをしようとしているの」

 私は、アキの顔をまっすぐと見た。

「アキ…それはね。…支配だよ」

 私は、慌てて服を着て、バッグを持って部屋を出た。背中でアキが私を呼ぶ声が聞こえた。喘ぐように、いまにも呼吸が止まりそうなアキの叫ぶ声が聞こえる。


 振り返らなかった。
 暗闇の部屋の中を逃げるようにして扉を開けて、エレベーターを無視して、階段を駆け降りた。

 それから、どうやって歩いたかもわからない。
 コートのボタンがちぐはぐにかけられていることに、横浜駅に到着する頃にやっと気付いた。
 広い世界と、駅のライトにほっとため息をつく。心の内側が軋んで、思考を巡らせるたび、過去に引き戻されそうになる。
 人混みに紛れた。そうして、ゆっくりと、存在を消して、景色に馴染んでいく。



 私は、辿り着けるのだろうか。
 多くの行き交う人をすり抜けながら、見覚えのある景色を探していく。
 それよりも、自分から手を離したはずなのに、いつも右隣を歩いていたアキがいないこの現実は心細さと、目的に必死でままならない揺れを体に一身に感じていた。

 みなとみらいの海へ続く道。アキと私だけが知る、完璧な道のりを、歩いた道のりをただ歩きたい。

 一歩たりとも間違えずに。
 私は衝動だけで歩いていた。

 あんなにも慣れていたはずの景色は、それでも断片的にしか覚えていなくて、結局は彼の温かい手や、横顔を眺めていたにすぎなくて、道なんてこれっぽっちも覚えていなかったことに気付く。

 どこの角を曲がれば良いのか。
 どこの横断歩道を渡るのだろう。

 ワールドポーターズの中で、方向を見失って何度も足を止めた。今日は、クリスマスツリーの点灯式。口角を上げた大勢の人間が、皆、同じものを見て歓喜の声をあげている。傾いた顎の先にあるのは、天井まで聳える幸せを象った一本のもみの木。ここにいる人たちは、その電飾と同じように、私には見える。

 違う。こんな場所通ってない。

 観覧車はいつだって近くに見えるのに、あのとき一緒に眺めた角度とは違っている。放射状に、色とりどりのライトが点灯している。

 その中にある時計が、私だけの時間を冷たく突き放すように見ている。

 あの時私は、アキの手に引っ張られることなく、ピタッと寄り添って、彼の温もりだけを頼りにただただ、歩いていたのだ。
 アキの存在の大きさに、自分の心のちっぽけさに気がついた。

「千咲の心が好き」

 この言葉が、耳から離れない。
 胸が、鼓動が痛い。
 でも足だけは、前に進んでいた。
 ひとりだけの足音を踏み鳴らす。

 どこからも眺めることができる観覧車は、切なくて、それでもやっぱり今日も美しい。色とりどりの電飾に、心を反射させるように深呼吸して、吐息に彩をつけようとする。

 アキと歩いた道のりは、やはり、うまく辿れない。線が途切れたように、私の足元は不安定で、いびつに揺れながら進んでいる。過去の思い出を追い求めても、道はただ遠く延びている。

 私の知っているアキは、私のことが大好きな、ネイビーな繊細な男の子だった。

 今の私の知っている彼は、一体誰なんだろう。
 陽性転移という言葉が浮かぶ。
 私が患者に依存していたように、アキもまた、誰かを求めるように私に依存していたのかもしれない。そんな歪で、脆い関係性を、お互いに利用していたのかもしれない。

 佐藤先生とアキを重ねるように見ていたのかもしれない。

 それでも、純真な心を持つ、光に怯える少し弱々しい彼に、私は自分を重ねて逃げ込んで、辛い現実から一緒に沈んでくれる誰かを探していただけなのかもしれない。

 「愛情」という名の嘘をついて。

 どこまでもどこまでも、納得のいかない道のりを歩いて、やっと見慣れた道に出て、みなとみらいの海に辿りついた。

 アキと座った階段に腰を下ろして、足を伸ばした。それでも、私の心が好きだと言ったアキのことを、ちゃんと愛していたのだろうか。それとも、身体の繋がりがその幻を見せていただけだったのか。
 咲くって、誰かのものになることかもしれない。それでも私は、一度でいいから、自分の足で根を下ろしたかった。

 波の前で、心はマーブルに、揺れた。
 みなとみらいの海は、今日も何色だかわからない漆黒の中で、私の存在は見えていないように感じた。波の揺らぎを見て、心が落ち着くと言ったアキの声が聞こえる。

 孤独が、私を包んだ。

 冷たい雨のようなこの感覚を、私は求めていたような気がする。もう戻れない。それだけは、確かな答えだった。

 耳にゆっくりと波の音が届き始める。
 あの指先は、確かに私に優しく触れてくれて、そして、心は離れていった。触れられたまま去るアキの背中は、何よりも残酷だった。その指先の記憶だけが、今でも私の体に残ってる。
 そして、私の弱さを、夜の海はすべて見透かしている。

 たぶん、もう私は泣いてもいい。誰もいないこの場所なら、誰にも見つからずに。声を上げて泣ける気がする。

「アキ……バイバイ」

 冷たい風が髪をなぶり、足元で波が崩れる。何もかもが過ぎていく音がした。どこか実態のない自分が消え去って、自分の足で立っている自覚があった。

 私にとって、「咲く」ってなんだろう。
 私は、きっと、美しくなりたかった。

 それは、母になることじゃない。子どもを産むことでも、アキに支配されることでもない。私だけの時間を、取り戻すこと。

 水を浴びる前に、必要だったのは、根を下ろすことだった。ちゃんと、自分の意志で、花びらを広げられるように。

 言葉とは裏腹に、離れていった暖かさが、私をそう変えたのだと思う。それがアキの優しさだったのだと思う。

 涙が、頬を伝っていった。
 さよならの温度は、あまりにも、冷たい。

 海を眺め始めて、マリンルージュの灯が遠くに滲んで見えた。私はようやく、自分の意志で夜を歩き出せた気がした。

 満月がぼんやりと、私を照らしていた。



☝︎第12章 パープル・セイヴィア 最終章☝︎

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