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春なんて、すぐ終わる 「一、花筏」

あらすじ
看護師・千咲は、眠れない夜だけ会う男・矢野と曖昧な関係を続けている。恋人でもなく、未来を約束するわけでもない。それでも矢野と過ごす時間だけが、昼夜の境界を失った彼女の日常を繋ぎ止めていた。やがて千咲は、矢野がかつて自ら看取った患者・雪の夫であり、自分は亡き妻の面影を追う存在だったのではないかと気づく。喪失に寄り添うように始まった恋は、誰を愛していたのかという問いへと姿を変えていく。それでも春は巡り、散った花びらは花筏となって流れていく。喪失の先で、千咲はようやく「自分の恋」を選び直そうと、大岡川の桜の下へ走り出す。

一、花筏

 夜勤明けの身体で、わたしは桜を見ていた。

 花筏に子供の声。
 春の見物客たちのざわめきも、静かに浮き立っては流れていく。
 欄干の向こうでは、大岡川がゆるやかに光を跳ね返し、流れきれなかった桜の花びらを水面いっぱいに溜め込んでいた。川沿いに伸びる桜並木は薄桃色の天井みたいに頭上を覆い、屋台の煙と甘ったるいソースの匂いが、その下をふわふわと漂っている。わたしは待ち合わせ場所へ足を進めた。足元へ降る桜の花びらを静かに避けながら、空に浮かぶ飛行機雲に目を細めると、真白が青を斜めに割いていた。

「おっ、明日は降るかな」

 不意に空から声が落ちてきて、振り返る視線の先に矢野はいた。

「傘、持って行きなさいよ」

 そう続けながら、呆れたみたいに小さく笑う矢野は、黒のシャツに薄手のジャケットを羽織り、寝不足みたいな顔で片手をポケットへ突っ込んでいる。自然な仕草でわたしの腰元に手を添え、満開の桜道と屋台の並ぶ先を指差した。所狭しと賑わう屋台を眺めているうちに、張りつめていた瞼の奥も緩んでいく。

「夜勤明けなんでしょう?大丈夫?」
「ん」

 短く返事をすると、なだらかな稜線みたいに伸びた睫毛の先が、瞼の奥をちくりと刺した。日勤と夜勤を行ったり来たりするうちに、いつからか季節の輪郭さえ曖昧になり、昼の日差しを浴びることなんて、もう何年もしていない気さえしてくる。洗濯物を太陽の下へ干した記憶すら、ずっと前に置いてきたみたいだった。
 だからこうして、眠気を押さえ込みながら当たり前の人間らしい生活へ引き戻してくれる彼を、わたしは大切にしている。いや、正しくは、誘いを断らないようにしている。
 ご機嫌な日は多い方がいい。どんよりとした夜に溺れていく先を、ちゃんと知っているからだ。

「さてさて。何から行きましょうか、お嬢さん」

 矢野はこうして、わたしのことを時々「お嬢さん」と呼ぶ。夜の仕事が長かったせいか、わたしのこともキャスト扱いだ。ややこしさが、また別のややこしさを呼んでいくけれど、不思議と自分のディテールを気にしなくて済む居心地の良さもある。それは初めて会った日から今も変わらない。

「たこ焼き、お好み焼き、やきそば」
「粉物ライン早くない?」
「そ?じゃあビールにしよう」

 こうして会話が成立するかしないか、そのぎりぎりの距離が心地良い。居酒屋の出店をしている若いお兄ちゃんに小銭を渡し、肘から下を所狭しと駆け回る子供に小さく「おっ」と声を漏らしながら、矢野はわたしに冷えたビールを差し出した。

「乾杯」

 わたしたちは目だけをちらりと合わせ、一気に泡立つビールを喉へ流し込むと、乾き切った身体へ泡が落ちていくようで、思わず息が漏れる。

「喉、乾いてた?」
「ん」

 ビールが好きなわけではないけれど、泡の苦味を美味しいと思える夜が増えていくことを、わたしはもう嫌いじゃなかった。

「矢野。今日、夜勤務じゃないの?大丈夫」
「まともに話せるようになったか」

 矢野はくくっと笑い、川縁の欄干に両腕を預けながら「それに」と言いかけて、川面に流れる花びらを目で追った。

「仕事に合わせてたら、あなたに会えないでしょうが」

 矢野の、そういうところが好きだ。
 付き合うわけでもなく、デートと仰々しく名付けることもなく、ただわたしの手元にビールを預け、隣で桜を眺める。

「矢野。黒服じゃなくて、プレミアやりなよ」

 矢野とは、寂しさが夜を越えそうな時だけ会う。桜の光を浴びた髪は少しだけ茶色く透け、夜をちゃんと眠っていない人間の顔をしていた。

「人の機嫌取るの向いてないの」
「いま取ってるじゃん」
「仕事だからねぇ」
「うわ、最低」

 矢野はそのまま歩き出し、わたしが動く気配だけで距離を寄せた。どこへ行くとも言わないまま並んで歩くその時間が好きだった。行き先を定めない彼の歩き方は、きっとわたしたちの曖昧な関係そのものだったのだと思う。
 彼の背中越しに大きな欠伸をこぼすと、一口だけ残ったビールが袖に触れ、ふんわりとした苦味が鼻を掠める。そんな小さな仕草だけで矢野は振り返り、わたしのジャケットを肩からするりと剥がすと、露わになった肩先に桜の花びらが一枚だけ落ちた。

「たこ焼き、お好み焼き、やきそば。全部買って帰ろうか」

 子供みたい、と喉に押し込んで矢野を見上げると、頭上を覆う桃色のカーテンへ映る光の濃淡が、春の日差しの輪郭を薄く溶かしていた。笑みが零れると、「なに」と小さく漏らす矢野の袖口を摘んで顔を寄せた。

「矢野。それビール何杯目?」
「言うな」

 わたしの唇に指を押し当てる矢野の向こうで、飛行機雲は静かに青へ馴染み始めていた。
 花筏に流されるみたいに、わたしは今日も、矢野に抱かれるのだろう。

 春なんて、すぐ終わる。

 矢野が指先で拾い上げようとした花びらを、わたしはなぜか目で追っていた。その横顔は、ほんの一瞬、遠くの何かを探しているように見えた。指先は何にも触れないまま、花びらだけが風に攫われ、別の花筏へ紛れていった。

 結局矢野は、「唐揚げは家で作るのに限る」と言い出すものだから、「だったら、やきそばもそうじゃん」「いいや、やきそばは屋台でしょうが」と、そんなくだらない言い争いをしながら、わたしたちは桜並木を後にした。
 日ノ出町の高架を潜る頃には、屋台の匂いも子供の声もすっかり遠ざかり、代わりに電車の走る鈍い振動だけが足元へ伝わってくる。
 この部屋へ矢野を連れてくるのも、もう初めてではなかった。慣れたように矢野は部屋の番号を押し、「ん」とわたしの鍵を受け取ると自動ドアは静かに開いた。
 肌を合わせる時に合図なんてない。「はい、ばんざい」と子供みたいな声かけに素直に従ってしまうのは、わたしのぼんやりとした性格のせいなのかはわからなかった。矢野は伸ばしたわたしの腕の下へ顔を潜り込ませ、器用な手つきでフリルのついたブラウスを脱がせると、ため息混じりに言った。

「隈、できてる」

 矢野の冷たい指先が頬に触れ、そのままわたしの髪の毛を耳にかけると、柔らかい唇が首筋を這っていく。
 矢野の体温だけが妙に残る日は、あとから勝手に「その日」になっていく。部屋のレースカーテンの隙間から、グラデーションの桃色の光が薄く差し、それでも暗さだけを残しながら、世界はまだ昼を探していた。

「そういえば、おばあちゃん死んだのよ」

 今度はわたしのキャミソールの紐を肩先からするりと滑らせ、矢野は「へぇ」とだけ呟き、興味の有無すらはっきりしないその声と一緒に温かい息を首筋へ落とした。対照的に、冷たい指先だけがゆっくりと腰元へ辿っていく。

「次会うのはお正月かな、なんて笑ってたけど」

 矢野は開きかけた唇に舌を滑らせると、「お正月、一緒に過ごす?」と吐息混じりに零した。
「うん」の返事すらかき消されて、光だけが落ちるその部屋でわたしたちは次第に息を荒げていった。
 約束なんて、本当はなくなる時にしか気づけないものなのかもしれない。夕飯を一緒に食べるとか、先に帰った方がポストの中身を確認するだとか、そんな些細なことを思い出すたびに、首筋へ落ちる矢野の吐息だけが妙に現実味を帯びていく。

「千咲、明日休みだよね?」
「ううん、明け日勤」

 矢野は小さく息を吐きながらソファへ腰を下ろし、そのまま当然みたいな顔でわたしを膝へ引き寄せた。スプリングが小さく軋み、揺れに合わせて出窓のパキラが葉先を震わせる。わたしはその緑をぼんやりと眺めていた。

「人が死んだら、悲しいもの?」
「わかんない」

 本当に、わからなかった。
 矢野は小さく息を吐き、その瞳の色が一段と濃く見えて、わたしは思わず目を閉じた。胸元へ顔を埋めると、洗い立てのシャツ越しに微かな柔軟剤の匂いがして、その規則正しい鼓動だけがやけに遠く感じられた。

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