見出し画像

春なんて、すぐ終わる「八、不在」


八、不在


 歓声だけが、店の天井へ何度も跳ね返っていた。居酒屋「活」は、どこを見渡してもベイスターズブルーに染まり、客たちの熱だけがテレビの向こうへ吸い寄せられていく。

「ここで歩かせたら、流れ終わりだな」

 すでに空になったジョッキを覗き込みながら、洋平がもっともらしく呟くと、「東の日は落とせねぇからな」テレビから目を離さないまま、勝谷さんが焼き台の向こうで小皿を重ねる音だけが乾いて響く。

「あいよ」

 トン、とカウンターへ置かれたグラスは、結露の冷たさだけが指先に残り、わたしは喉の奥に溜まっていた息を静かに吐き出した。
 矢野とは、いつの間にか連絡が取れなくなっていた。黒服の時間は、わたしとは少し違う。朝方に「おつかれ」の一言だけ届く日もあれば、そのまま何日も音沙汰がないことだって珍しくない。スマホの画面が暗転するたび、この街のどこにも自分の居場所が残っていない気がした。
 わたしの知らない時間だけが、矢野の横顔を少しずつ作っていた。

 ふと、雪さんの声が蘇る。
 『花筏になりたい』

 まだ訪れない梅雨をあらかじめ聴くように、あの言葉だけが、六月より先に降っていた。

「千咲、食えよ。かっちゃん、レバー!」
「いらない」
「あなたねぇ、生きてるうちは、食うんだよ」

 わたしはレバ刺しから目を逸らした。

「洋平、わたし」
「重たい話はごめんだよ」

 洋平は煙草を咥えたまま割り箸を割り、わたしの手へ無造作に押しつけた。

「死ぬのは明日でいい」

 洋平は、それ以上何も言わなかった。
 カン、とバットが球を弾く乾いた音が店に響いた。店中から「あぁー」と落胆が広がり、「やられたなぁ。ベイスターズ二敗だな」と勝谷さんは呟くと、何事もなかったように串を返した。
 店を出ると夜風は冷たく、洋平はひどく酔っていた。電柱に手をつき、生垣の段差へ腰を下ろし、青信号を二度も見送った。「ねぇ、青」と声をかけると、洋平はまっすぐ「はい」と答えた。それでも小汚いアパートの錆びた階段だけは、自分の足で登り始めた。一段、二段、三段。
 すると、誰かに呼ばれたように、洋平が振り返った。彼の膝が折れ、柵から手が滑り落ち、仰向けのまま滑り落ちてきた。

「洋平、大丈夫?」

 一瞬だけ瞳が細かく揺れ、その焦点は夜空へ明け渡された。洋平は目を見開いたまま、すくっと立ち上がると、何事もなかったように再び階段を登り始めた。
 洋平の丸まった背中が夜の闇へ溶けたあと、わたしの膝の力が抜けた。手のひらには、さっき握らされた割り箸の感触だけがまだ残っていて、それでも触れたかったのは、どうしようもなく矢野の肌だった。
 わたしはそのままアスファルトにうずくまり、気づけば矢野へ電話をかけていた。呼び出し音だけが夜へ溶けていき、切れるたびに、もう終わりだと思うのに、指は勝手にもう一度同じ名前を押してしまう。もう鳴らないほうが楽だと思うのに、鳴るたび期待してしまう。
 夜は、何も返さなかった。

「かっこわる」

 膝に頭を埋めると、手のひらからスマホがするりと滑り落ち、硬く乾いた音だけが夜へ跳ね返った。
 顔を上げると、夜空に浮かぶ月は、あまりにも綺麗で、わたしは耐えかねて目を伏せた。視界の底にあるアスファルトは、馬鹿みたいにどこまでも真っ黒だった。
 それでも、また矢野の名前を押した。

いいなと思ったら応援しよう!

モスキート エリ 応援が物語のインクになります。 あなたにもそっと、届きますように。