見出し画像

春なんて、すぐ終わる 「二、白線」


二、白線


 夢を見ていた。
 わたしは歩道の白線の上を、落ちないように歩いていた。横浜駅西口の朝は、今日もどこか眠り損ねた顔で欠伸をしている。
 開ききらないシャッター、ファミリーマートの人工的な光、昨夜の湿気を引きずったみたいな地下街の匂い。ガチャガチャの透明なケースだけが、無邪気な色をして並んでいた。
 クレーンが古いビルを噛み砕く音が、遠くでしている。昨日までそこにあった窓が、今はただの空を切り取っていた。この街では、守ろうとする端から景色が書き換えられていく。わたしが白線の内側を必死に歩いたところで、そのアスファルトごと、明日には剥がされてしまうのかもしれなかった。まともな生活なんて、気づけばずっと遠くへ行ってしまっている。
 べつに落ちたところで何かあるわけじゃないけれど、「踏み外さない」と、そう決め込んで、わたしは白線の上だけを歩いていた。白線は途中で途切れたり、工事の跡で歪んだりして、それでも次の線を探してしまう。

「危ないよ」

 肩をビクッと跳ねさせて振り返ると、矢野がいた。矢野は足早にこちらへ向かってきたかと思うと、わたしのすぐ脇を自転車がすり抜けていく寸前で、ふっと足を止めた。少し伸びた髪を後ろで結び、ポケットに手を突っ込んだ矢野の肩先だけを、雑居ビルの隙間から落ちてくる朝の光がぼんやりと照らしていた。矢野は呆れたみたいに目を細め、わたしの足元へ視線を落とした。

「なにしてんの」
「人生を、歩いている」
「子供なの?普通に歩きなよ」
「まだ信じてるの」

 その途端、白線の端から靴の踵半分だけ滑った。

「あ」

 矢野がくくっと喉の奥で笑い、その声につられて、わたしも少しだけ笑った。コンビニの搬入トラックが雑にバック音を鳴らし、煙草の匂いと、どこかの居酒屋から流れてくる残り香が朝の空気へ混ざっていた。通り過ぎる人たちはみんな、コンビニの袋や仕事の鞄をぶら下げたまま、眠そうな顔で駅へ吸い込まれていく。
 矢野はわたしの隣へ並び、白線を避けるようにして歩き出した。

「で、どこ行くの」
「わかんない」

 矢野は小さく笑い、その声が遠ざかるように、不意に聞こえた声でわたしはゆっくりと目を開けた。

「帰るわ」

 ソファから身体を起こした矢野が、気だるそうにわたしの肩を引き寄せる。抗う間もなく額が胸板に触れ、シャツ越しの体温に、わたしはもう一度そっと目を閉じた。
 帰る日には帰り、来る日には来る。それだけのことを、矢野は案外きちんと守る人だった。

 窓の外では、朝が来ていた。
 ステーション脇の窓辺に手をかけると、窓の結露が指先に触れ、じんわりと身体を冷やしていく。
 病院の東側の窓からは、いつも切り取られたように海が見え、天気の良い日にはその境界線の向こうに観覧車が、まるでおもちゃのように小さく浮かび上がっていた。それは同じ速さのまま、何度も何度も円を描いていた。
 わたしもあれくらい上手に眠れたらいいのに。病棟でストレッチャーの車輪が軋み、わたしが窓から手を離すと、背後から綾の「千咲、点滴の確認、一緒に良い?」という声が聞こえた。

「ん」

 同期の綾はナースステーションの壁にもたれかかりながら、髪をひとつにまとめていた。結び損ねた毛先だけが首筋で跳ねている。

「ソルデム3A、タンミ2-1」

 口の中でその名前を二人で復唱しながら、プラスチックの冷たい感触が残る点滴ボトルを一つずつテーブルへ並べていくと、透明な液体は次第に小さな山を作り、綾は今日の夕飯でも話すみたいな調子で口を開いた。

「あたしね、離婚したんだよね。ピシリバクタ、生食100」
「あれ? 抗生剤変えるって言ってなかった?」
「それな。これは確認」
「いつ、離婚したの」
「一年くらい前かな」
「随分と曖昧だね」

 綾は更新分の点滴をテーブルの隅へ寄せると、頬に落ちてきた髪を煩わしそうに手首で払った。

「おかず、ネオファーゲン一筒」
「はい」
「離婚届を出した日もさ、夜勤だったんだよね」
「ほんと、綾ってそういうの顔に出ないよね」
「そう? 明けのひどい顔でコンビニに寄ってさ。肉まん買ったの」
「うん」
「なんか、それしか覚えてないんだよね」

 綾は、離婚を大事件みたいには語らなかった。肉まんを買った朝のことだけを覚えていて、終わった日のことより、その朝に食べたものだけが残ることも、きっとある。
 最近は「除籍」って言うらしいよ、と綾は肩を竦めた。バツ一とかバツ二とか、そういう痛々しい区切り方はもう古いらしい。綾は平らに倒した点滴ボトルにルートを差し込むと、液面を見つめながらボトルをわずかに傾け、また静かに戻した。

「千咲はさ、まだ続いてるの?」
「どれと?」
「夜の男と、ジジイ」
「その最低な分類、本当にやめてくれない?」
「だって便利じゃん」
「人としての人権はないわけ?」
「あるよ。名前を覚えてないだけ」

 時計の短い針が就業時刻を指し、勤務表の貼られたホワイトボードには、いつの間にか空欄が増えていた。

 仕事帰り、金沢文庫駅を出ると、夕飯時の街がゆっくりと動いていた。崎陽軒の前を通り過ぎ、スーパーの自動ドアをくぐると、買い物袋を提げた人たちが、ひっきりなしに出入りしていた。わたしもその流れに紛れるように店内へ入り、惣菜売り場で足を止めた。
 唐揚げ、420円。
 パックへ手を伸ばしかけたその時、白い制服を着た大柄なおばさんが、ものすごいスピードでこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
 目元が隠れるほど深く白い帽子を被り、エプロンの胸元には申し訳程度に若葉マークをつけている。それなのに、その足取りにも佇まいにも、新人らしい初々しさや萎縮した空気はなく、むしろ、何年もこの売り場を支配しているような妙な風格すらある。  
 わたしが、振り返ったその瞬間、おばさんもちょうど背後を振り返り、二人の視線が真っ向からぶつかった。  
 あ、と思う間もなく数秒の、奇妙に濃密な沈黙のあと、彼女は惣菜コーナーのガラスケースを震わせるような大きな声で叫んだ。

「ぎゃあっ!」

 周囲の主婦たちが一斉に肩を跳ね上げ、こちらを振り向いた。胸元の若葉マークを震わせ、プチパニックの目でわたしを指差しているのは、他人の空似でもなんでもなく、病院の非常階段で、わたしに油まみれのタッパーを握らせた、本物の翠さんだった。
 さっきの大声が嘘だったかのように、翠さんは何食わぬ顔で歩いていく。その背中があまりにも鮮やかなトランスフォームを遂げるものだから、わたしは一瞬、狐につままれたような気持ちでその場に取り残された。わたしは慌ててその背中を追った。

「翠さん、ですよね」

 観念した翠さんは、わたしを頭の先から足元まで眺めた。

「あら、こんにちは」

 その声を聞いた瞬間、非常階段の冷たい風まで思い出した。当時、疲れ切っていたわたしは、薄暗い非常階段の隅で、冷え切ったコンビニのおにぎりを口に押し込んでいた。あの頃の病院はまだ感染に対して慎重で、それなのに翠さんは、油まみれのタッパーをわたしの膝に押し付けて言った。

「それじゃ、タンパク足りないわね」

 正しいことだけで、人間は生きられないらしい。わたしは、その唐揚げを頬張りながら、なんとか明日まで身体を繋いでいて、その翠さんも、最後まで現場を走り抜いたあと、ある日ふっと病院を去った。

「疲れたから、辞めるわ」

 最後の挨拶は、それだけだった。

「五十もすぎるとね、転職も容易くないのよ。資格があるからって、どこでもふんぞり返れると思ったら大間違い」

 翠さんは惣菜パックを並べる振りをしながら、マスクの上の大きな目を少しだけ細めた。一ミリだけ位置をずらし、また戻す。そのカモフラージュの手つきは、夜勤で働いていた頃と同じくらい、正確で無駄がない。

「え、そうなんですか? 資格もあるし、あれだけ現場でやってたじゃないですか」
「それがウケないのよ。別の病院の面接、二回続けて落ちちゃってさ。ほら、私って顔が怖いし、正論ばっかり言うじゃない? 向こうの師長に煙たがられたのね、きっと。あぁ、私が守ってきた『感染委員長』の正しさなんて、一歩外に出ればただの融通の利かないお局のハサミなんだなと思ったら、なんか急に、やりがいなんて言葉がポロポロ剥げ落ちちゃって」

 返す言葉が見つからなくて、わたしは売り場いっぱいに並ぶ唐揚げへ目を向けた。

「あの頃からみんなに『喋るな、触るな、手を洗え』って、そればかり言ってきたでしょう。人間の身体を、ただの無菌室みたいにすることだけが私の正義だったの」

 翠さんは並べ終えた唐揚げのパックを指先で軽く叩いた。その音に重なるように、子どもの「ママ、これ!」とはしゃぐ声が売り場へ響いた。

「でもね、守れないものもあるのよ。ほら、あの人」

 病室の窓辺で笑っていた患者の顔が浮かび、思わず視線を逸らした。わたしたちはいま、同じ記憶を辿っていた。

「感情移入してるわけじゃないけどさ、やっぱり若い人を見届けるのは、堪える」

 店内に流れる軽快な音楽の中、翠さんの若葉マークだけが静かに揺れていた。わたしは返事の代わりに頷いた。

「呆気ないなぁって。それだけなのよ」

 並べる振りをしていた手が止まり、わたしも言葉を飲み込んだ。

「だから、これからはね。衣をカリッとさせて、肉汁を閉じ込めて、人間の胃袋を油でぎゅうぎゅうにしてやりたいの。あの非常階段で、あんたの喉を鳴らしたみたいにさ。徹底的に揚げて、徹底的に食べさせる。それが私の、第二の感染対策」

 翠さんは唐揚げのパックをぽんと叩いた。その手つきは、非常階段でタッパーを差し出したあの日と何も変わらない。変わったのは、人を満たす場所だけだった。

「ちょっと、チーフがこっち見てるから行くわ」

 翠さんはそう言って、若葉マークを揺らしながら、またものすごいスピードで売り場の奥へと消えていった。
 冷え切っていた指先へ、唐揚げのパックの底の余熱が伝わってくる。わたしはその温もりを、しばらく手放せなかった。

いいなと思ったら応援しよう!

モスキート エリ 応援が物語のインクになります。 あなたにもそっと、届きますように。