春なんて、すぐ終わる 「三、葉桜」
三、葉桜
カーテンの隙間から覗く月があんまりにもきれいだったから、矢野に「駅まで送ってく」と呟いた。聞こえてるのか聞こえてないのかわからないくらいに曖昧な顔をした矢野の横顔から視線を離し、わたしはベッドから降りて下着に手を伸ばす。彼を帰すのが妙に惜しい夜だった。
「珍しいね」
呆れたように言いながらも、特に断らなかった。矢野は黙ってシャツを羽織り、わたしは散らばった靴下を拾った。
京急の高架沿いを歩いていると、葉桜の隙間から零れる光は思ったより明るくて、住宅街の道を白く照らしている。昼間は気にも留めなかったくせに、こういう夜だけは何もかもが少しだけ特別に見えるから不思議だった。
わたしは車止めの縁石へ片足を乗せた。「危ないよ」と前を歩いていた矢野が振り返り、「大丈夫」とそう答えながら、わたしはもう一歩だけ前へ進んだ。落ちたところで怪我をするような高さじゃない。それでも、踏み外さないように歩いた。
「あなたはいつも、そうやって線の上を歩こうとするね」
矢野は笑い、その傍を夜風が吹く。高架の向こうを走る電車の音が、住宅街の屋根を撫でるように遠ざかっていった。
「そうかな」
「そうだよ」
月を見上げると、葉桜の枝先は春の名残を少しだけ残していて、風が吹くたび黒い影を揺らしていた。
「まっすぐ歩きたいって、どこかで思っているのかも」
自分でも何を言っているのかわからなかったけれど、矢野は否定しなかった。
「ねぇ」
「ん?」
「どのくらい、経つ?わたしたち」
矢野はしばらく考えて、その質問には答えなかった。月明かりだけが縁石の輪郭を浮かび上がらせ、知れば知るほどその境界の向こう側へ足を踏み入れている気がした。
「雪さん、どんな人だったの」
「きれいな人だったよ」
わたしが縁石の上で少しだけ足を滑らせると、矢野は手を添えた。
「危なっかしいひとだねぇ」
その手は、すぐには離れなかった。葉桜の向こうへ浮かぶ月を見上げたまま、重なった指先だけがかすかにほどけては触れ合い、それでもどちらも手を引かなかった。影が風に揺れ、遠くで虫がひとつ鳴いた。矢野の指先が静かに離れると、わたしたちはまた並んで歩き出した。
なにせ、わたしが知っているのは雪さんの人生のほんの一部だけだ。「花筏になりたい」と呟いたことだとか、窓辺で黙って観覧車を眺める横顔だとか。そんな些細なことばかりを、わたしは少しだけ知っている。
やがて縁石は、静かにカーブして、途中で途切れた。
「ねぇ、後悔してる?」
「何が」
「わたしと寝たこと」
自分でも戻れないところまで歩いてきた気がしたけれど、遠くで虫が鳴いていることも、葉桜が風に揺れることも、もう同じことのように思えた。
「してたらここにいないんじゃない。違う?」
わたしは矢野の肩に手を添えて「さあ、ね」と、縁石を降りると、急に足元が広くなった気がした。
踏み外さないように歩いていたつもりだったのに、本当に越えてはいけない線は、もっとずっと前に越えていたのかもしれない。
「ここでいいよ。気をつけて」
矢野は軽く手を挙げると、そのまま駅の方へ歩いていった。わたしはしばらくその背中を眺め、見えなくなった頃、踵を返した。矢野もわたしも、一度も振り返らなかったと思う。
そういう温度が残る日は、やがて「あの日」になっていく。
静寂が、遠くまで響く夜だった。
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