春なんて、すぐ終わる「九、花筏」
九、花筏
病院の東側の窓から見える海は、今日も変わらず、雪さんが息を引き取った夜も、矢野と出会った朝も、観覧車だけは同じ速さで回っていた。
六月の雨は長かった。
病棟の窓ガラスを細かな水滴が覆い、わたしはラウンドのたびに曇った景色の向こうを眺めていた。そのたびに、「花筏になりたい」と雪さんが笑った声だけが、不意に蘇る。
季節が巡っても、矢野からの連絡はなかった。気づけば隣にいて、気づけばいなくなる。それでも時々、わたしはその隣を探してしまう。
いつの間にか雨音は消え、窓の外では鳥の声が聞こえるようになっていた。
スーパーへ立ち寄ると、惣菜コーナーの扉が勢いよく開き、やかましい足音と一緒に翠さんが飛び出してきた。
「千咲、この唐揚げ買って。自信作なの」
翠さんは、「ふふ」と喉の奥で小さく笑った。
「ちゃんと食べるのよ」
そう言って、唐揚げのパックをわたしの胸へ軽く押し付けた。その得意げな顔がおかしくて、わたしもつられるように口元を緩めたとき、ポケットの中でスマホが震えた。見慣れた名前だった。思わず立ち止まり、画面を開いた。
『矢野』
静かに目を閉じると、瞼の裏を流れていったのは、満開の桜ではなく、大岡川の水面を流れていく花筏だった。
『お嬢さん、今年は見逃したくない』
その文字を見たとき、春は初めて、雪さんではなく、わたしへ向いていた。矢野は未来の話をほとんどしない。それでも、その一文だけは未来のほうから歩いてきたようだった。
店を出ると風は少しだけ暖かく、空はもう春の色をしていた。あの日と同じものなんて何ひとつないのに、それでも、どこかで続いている気がした。
わたしはスマホを握り直した。
『どこ?』
そう送ると、すぐに返事が来た。
『大岡川』
返事は、それだけで十分だった。おばあちゃんも、そういえば桜が好きだった。わたしは唐揚げのパックを胸に抱えたまま、気づけばスーパーを飛び出していた。
川沿いへ近づくにつれて人の数は増え、欄干の向こうでは花びらが寄り添うように流れていて、満開だと思っていた桜はもう散り始めていたのに、花筏だけは思っていたより遠くまで流れていた。
風に押された花びらが一枚、迷うことなく肩へ乗り、あの日、矢野が拾い損ねた花びらを、なぜだか思い出した。わたしは少しだけ歩く速度を速めた。世界は、ちゃんと動いていた。
春なんて、すぐ終わる。
今年の春は、見逃したくなかった。
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